ぬらくら第157回「隠された冒険」
2002年-2003年と2009年の二度にわたって、未踏だったこの渓谷の最深部5マイル(約8キロメートル)を単独踏査したのがドキュメンタリー作家で探検家の角幡唯介です。この踏査の様子は『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー渓谷に挑む (* 1) 』として2010年に刊行されています。
その後、彼はいくつかの曲折を経て活動の場を北極圏に移します。そこでは一頭の犬とともに橇を引いてグリーンランドを単独渡渉した『狩と漂泊 (* 2) 』を著します。
探検家の彼は『狩と漂泊』の中でこんなことを言っています。
『登山と言えば周到に計画され準備された登山計画に基づき、遡行図やルート図、山岳地図などを準備して一直線に頂上を目指すものだ。』
彼はこうした従来の登山スタイルに疑問を持つようになり、風に吹かれる柳の枝のように、あるいは高いところから低いところに流れる川の流れのように、天候や自然という外的な要因に導かれて山々を流浪したいと強く思うようになります。彼はこの新しい登山スタイルに「漂泊登山」と名づけます。
そして福島県西端の只見の山中で漂泊登山を実践します。
この漂泊登山敢行中に彼は一つの矛盾に気づきます。この漂泊登山には遡行図もルート図も携行しなかったのですが、漂泊登山を計画するにあたって、漂泊登山に適した山塊を探すために国土地理院が提供するインターネット上の地図情報を利用していたのです。さらに彼はこの漂泊登山に同地理院が発行する五万分の一地形図を携行していました。
彼は言います。
『地図のある登山は先のことが予測でき余裕が持てる。例えば悪所にはまり進退窮まったとしても、地図を見てその悪所の先が緩やかになっていることが分かれば、悪所を突破する気力も湧いてくる。』というのです。只見の山中を彷徨う漂白登山という彼の目論見は、インターネットで地図を利用し、只見の地図を携行したことによって、スタート時点から破綻していたことに気づきます。
地図を持ったことで漂泊し損なってしまった只見の漂泊登山から、地図やルート図、遡行図などを持たない「地図無し登山」を思いつきます。
地図無し登山を敢行する地として角幡が選んだのは、それまで山脈の名以外は一つとして、沢の名も峰の名も知る機会のなかった、彼にとっては正に未知の山といえる北海道の日高山脈でした。
地図を持たずに日高の山に入った彼は『裸の日高、地図のない、余分な事前情報におかされていない、完全に未知の山』に身を置き、『今自分が遡行するこの沢がその先でいかなる地形を展開し、どのような山につづいているのか、それすら分からない、完全に未来が遮断された、目の前の現在だけしかない山』を実感したそうです。
振り返って、私たちが日常的に行なっている『先々の予定をカレンダーや予定表に書きこみ、老後に備えて貯蓄し、癌保険に入り、モノを買ったり外で食事をするときに事前にスマートフォンなどでそれらの評判や評価をチェックする、これらの行為はできる限り先々の行程を明らかにして、未知ゆえに起こるトラブルを回避しようとしている』ように見えると彼は指摘します。
山行に占める地図の意味を体感した角幡はさらに続けます。
これらの日常は『山行する時に地図を持ち、先々を読みながら進むのに似て、将来という未知が孕むリスクに対して安心・安全を用意しておこうとするもので、未知への不安すなわち潜在意識に潜む死への恐怖を軽減するためのものである』と続けます。
その結果、私たちは予定で縛られた日々を過ごすことになり、常に約束の時間を気にし、目的地に向かって移動し、インターネット上で見たと同じ料理を目にして納得し安心する。約束もなく、目的もなく、行き先もなく移動したり、入念にたてた予定を外れるなどを躊躇するのは、未知に対する恐れからだ、ということになりそうです。
日常から外れて非日常に入るのは簡単なようで難しそうですが、冒険家の角幡は「そこにこそ隠された冒険がある」と言いたいのかもしれません。
* 1)『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー渓谷に挑む』角幡唯介著 集英社 2010年
第8回 開高健ノンフィクション賞(2010年)、第42回 大宅壮一ノンフィクション賞(2011年)、第1回 梅棹忠夫・山と探検文学賞(2011年)を受賞している。
* 2)『狩と漂泊』角幡唯介著 集英社 2022年
タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
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mk88氏
PROFILE●1942年東京都生まれ。1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
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