ダイナフォントストーリー

カテゴリー:連載コラム「ぬらくら」
2023/11/01

ぬらくら第150回「通詞と活字」

2022年12月10日から2023年2月26日まで、横浜市歴史博物館で「活字 近代日本を支えた小さな巨人達 (* 1)」が開催されたことは、このコーナーの第143回「仮名字形一覧 (* 2)」の中でも取り上げました。

この企画展には、裏面に“William Gamble and Samurai”と書かれた、1870年代初頭に長崎で撮影されたと思われる写真 (* 3) が展示されていました。坂本龍馬の肖像写真の撮影者として有名な上野彦馬 (* 4) が撮影した写真です。そこにはウイリアム・ギャンブル(William Gamble * 5)と17人の日本人(活版伝習生)が写っています。
この17人の伝修生の中に、本木昌造 (* 6) と平野富二 (* 7) の姿を認めることができる貴重な写真です。前列左から二人目が平野富二、三人目が本木昌造です。

この写真は、当時、横浜市歴史博物館主任研究員だった石崎康子さんが、2017年にアメリカ議会図書館ギャンブル・コレクションの中から見つけた写真です。

日本の活字史を辿ると必ずウィリアム・ギャンブルと本木昌造、平野富二の名前に行き当たります。ウィリアム・ギャンブルは上海から日本の長崎へ活字製造と活版印刷を伝えた人、本木昌造はウィリアム・ギャンブルからそれらを学んだ日本の活版印刷の開祖と言われる人、平野富二は本木昌造から活字についての教えを受けて、長崎から東京神田に移り住んで活版製造所を開設、活版印刷の普及に努めた人として知られています。

  …

本木昌造は1824(文政7)年に馬場又次右衛門の次男として生まれます。母親のことは記録が残っていないようで名前などわかっていません。昌造(幼名・作之助)は何歳の頃かは定かではありませんが、父の実兄・北島弥三太の仮養子になり、11歳(1835年/天保6年)になると、そこからさらに和蘭通詞(オランダ語通訳)本木昌左衛門の養子に入り、義父の名前から「昌」を受けて昌造と名乗ります。

本木家は代々通詞 (* 8) を務める家柄で、本木家最初の通詞は昌造から五代遡った本木庄太夫(栄久・良意/1628〈寛永5〉年 - 1697〈元禄10〉年)です。庄太夫は1664(寛文4)年に小通詞に任命され、1668(寛文8)年には大通詞に進んでいます。
二代目は本木仁太夫(良固/1691〈元禄4〉年 - 1749〈寛延2〉年)。
三代目は本木仁太夫(良永/1735〈亨保20〉年 - 1794〈寛政6〉年)。
四代目は本木庄左衛門(正栄/1767〈明和4〉年 - 1822〈文政5〉年)。
五代目は本木昌左衛門(久美/1801〈享和元〉年 - 1873〈明治6〉年)。
六代目が本木家に養子に入った昌造です。

本木家の初代通詞になった本木庄大夫(栄久)はどんな人だったのでしょうか。

長崎県歯科医師会会史第一編 (* 9) は、本木庄大夫を「ドイツの解剖学者ヨハン・レムメリン(Johan Remmelin)の『人体折畳図(Pinax Microcosmographicus)』のオランダ語訳を元に、1682(天和2)年に日本で最初の人体解剖図の翻訳書『和蘭全身内外分合図』を著した人」として紹介しています。
彼は、翻訳作業を始めるにあたり医学(東洋医学)を学び、オランダ医からもヨーロッパの医学を学んだそうです。

前野良沢・杉田玄白の『解体新書』が日本で最初の人体解剖図と言われますが、本木庄大夫の『和蘭全身内外分合図』はこれより90年前のことです。残念ながらこの『和蘭全身内外分合図』は出版されることはありませんでした。本木庄大夫を訪れた遊学の士がその写しを持ち帰り、1772年(明和9年)に、これを周防(山口県東部)の医者鈴木宗云が校正して出版したことが伝わっています。

話を本木昌造に戻します。

1835(天保6)年に11歳でオランダ通詞本木昌左衛門の養子に入った昌造は、その年に通詞への登竜門ともいえる稽古通詞に任命されます。そしてその5年後の1840(天保11)年には16歳で小通詞に昇格しています。

1854(安政元)年、マシュー・ペリー(Matthew Perry)がアメリカの使節として伊豆下田に来航したことにより、昌造は下田に出張します。その年の11月4日、下田一帯を襲った大地震によって起きた津波により、下田に停泊していたロシアの軍艦ディアナ号が沈没してしまいます。
ディアナ号に代わる艦が伊豆の戸田で建造され、戸田の地名に因んでヘダ号と命名されます。昌造はこの時に軍艦打建方として関わり、ヨーロッパの造船技術に触れその技術習得と研究に従事します。

1855(安政2)年、オランダから海軍将校ペルス・ライケン(Pels Rijcken)が着任したことにより、長崎奉行所内に海軍伝習所が開設され、昌造は海軍伝習所掛に任命されます。
昌造はここで商館張ドンケル・クルチウス(Donker Curtius)や商館医から分離(蒸留・晶析・吸着・抽出)、窮理(物理学/哲学)、測量、算術、石炭及び鉄製造などについて学びます。さらに1856(安政3)年から1857(安政4)年にかけてオランダ人坑師からも鉱業に関して学んでいるようです。

本木昌造のこうした経歴を見ると活字につながる事績が見当たりません。そんなオランダ通詞の昌造と活字はどこでつながるのでしょうか?

『明治新聞雑誌文庫』に所蔵されている、1887(明治20)年に編纂された『本木先生行状記』によると、彼が活版印刷に興味を持ったのは1844(弘化元)年、21歳の時だといいます。その年に来日したオランダ使節コープス(H. H. F. Coops)がわが国に開国を勧告したことから、昌造は西欧の科学技術に注目し、その中でも特に工業の分野について広く西欧の書物に目を通すようになります。そこで西欧書物の印刷が精巧で整然としていることに気づき、これをわが国の従来からの木版印刷に代えて普及させたいと強く思うようになります。

その後、昌造は自ら資料を漁り、出島のオランダ人に問い、工夫を凝らして1851、2(嘉永4、5)年頃には自前で流し込み活字を鋳造し、自著『蘭和通便』を印刷します。しかし、その完成度は決して高いものではなかったようです。

1855(安政2)年8月、役所内の海軍伝習所に併設して活字判摺立所が設けられ、本木昌造は「活字判摺立方取扱掛」に任命されます。当時、諸藩主や蘭学者がオランダ書を競って買い求めるようになったことから、それらが入手困難になり、オランダ通詞の勉学に支障をきたすようになります。そこで幕府の許可を得て活字判摺立所を設け、欧文活字と活版印刷機を備えてオランダの書籍を覆刻することになります。

昌造は1860(万延元)年に「飽ノ浦製鉄所御用掛」に任命され、製鉄所の仕事に専念することになり、活字や印刷の仕事から離れます。しかし、その頃になると昌造の下で活版印刷の実用化を研究する若手グループができあがっていました。

同年、昌造は門人の松林源蔵を漢字活字鋳造法を調査させるために上海に派遣します。この時、松林源蔵は印刷設備を見学しただけで、活字製造法の伝習は受けられなかったようです。

北米長老教会(American Presbyterian Mission)は現地で聖書を印刷するために、1844(天保15)年にマカオに華花聖経書房(The Chinese and American Holy Classic Book Establishment)を設立します。1854(嘉永7)年にはその華花聖経書房を寧波に移転し、さらに1860(万延元)年には上海に移転して上海美華書館と名前を変えます。
松原源蔵が派遣された先が、この上海美華書館だったのかは定かではありませんが、派遣された先が上海美華書館なら、時期的にみて寧波から上海に移転したばかりで美華書館は多忙な時期にあたり、活字製造法を学ぶことができなかったのかもしれません。

1861(文久元)年、長崎大浦居留地から日本最初の英字新聞『長崎シッピング・リスト・アンド・アドヴァタイザー “The Nagasaki Shipping List and Advertiser”』が創刊されます。その際に、発行者のイギリス人アルバート・ウィリアム・ハンサード “Albert William Hansard” から、長崎駐在イギリス領事館を通じて「この機会に奉行の推薦する二、三人の若者に印刷術を伝授したい」という内容の願書が長崎奉行に提出されます。この話は長崎奉行から本木昌造に伝えられ、平野富二をはじめとする本木昌造の門下生が交代で伝習に参加し、イギリスの活字システムと新聞の版組みについて学ぶことになります。

1868(慶應4)年8月、長崎府付属の長崎新聞局から『崎陽雑報』が発行されます。この長崎新聞局の開設には長崎製鉄所の頭取に任命されたばかりの本木昌造が関与していました。印刷設備は上海に発注し、活字製造設備は本木昌造が実用化に目途を付けた電鋳母型製造設備と手鋳込器でした。しかし、思うような品質の活字を迅速に生産することができず、木活字との混用で印刷せざるを得ない状況だったようです。そのためか『崎陽雑報』は翌1869(明治2)年の夏頃には発行が中止になってしまいます。

『崎陽雑報』のために上海に印刷設備を発注したことから、本木昌造はこの頃既にウィリアム・ギャンブルの知己を得ていたのかもしれません。

難航していた〈活字を迅速に生産する〉方途として上海美華書館の館長ウィリアム・ギャンブルの教えを乞うことになります。昌造は長崎の新町に長崎製鉄所に付属した活版伝習所を開設して、1869(明治2)年10月、上海美華書館館長の任期を終えて帰国するギャンブルを長崎に招き〈活字を迅速に生産する〉方法(電胎母型法による活字製造方)を学びます。ギャンブルによる電胎母型法の伝習は1870(明治3)年2月末まで続きます。
本木昌造は「伝習世話役」として、一門の者たちと共にこの伝習に参加しています。

ギャンブルから電胎母型方による活字の製造法を習得したのは1869(明治2)年ですから昌造46歳の時です。21歳で西欧の書物の精巧な刷りあがりに感銘を受けて以来、昌造は1873(明治6)年に松田源五郎、池原香穉、西道仙たちと共同で『長崎新聞』を創刊するまで、活字と活版印刷に対する情熱を持ち続け、関わり続けた通詞でした。

本木昌造、1875(明治8)年9月長崎にて病死、享年52歳でした。


* 1) 活字 近代日本を支えた小さな巨人達
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/katsuji/

* 2) 仮名字形一覧
https://www.dynacw.co.jp/fontstory/fontstory_detail.aspx?s=576

* 3) 長崎で撮影されたと思われる写真
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/140/02-3.html

* 4) 上野彦馬(うえの ひこま 1838 - 1904)
幕末から明治時代にかけて活動した日本における最初期の写真家。日本初の従軍カメラマン。左半身で視線を遠方に投げている坂本龍馬の肖像写真は上野彦馬が撮影している。

* 5) ウィリアム・ギャンブル(William Gamble 1830 - 1886)
印刷技師。所長を務めた上海美華書館を中国一の印刷所に発展させ、日本に活字の鋳造技術(電胎母型法)と西洋式活版印刷術を伝える。
北米長老教会が寧波に設置した華花聖経書房に1858(安政4)年に、印刷技師として米国から招聘される。同書房が1860(万延元)年に上海に移転して名前を上海美華書館と名前を変えた後も、1869(明治元)年に同館6代目所長として辞任するまで活字製造と印刷技術の発展に貢献した。

* 6) 本木昌造(もとき しょうぞう/もとぎ しょうぞう 1824 - 1875)
江戸幕府の通詞(通訳・翻訳者)、教育者。日本における活版印刷の先駆者として知られる。通詞をする傍ら操船、造船、製鉄、活字製造などに関わった。明治維新後、職をなくした武士への授産施設として私塾を開く。その一事業であった活字製造は、後に「新街活版所」となり、平野富二等によって東京築地活版製造所などへとつながっていった。

* 7) 平野富二(ひらの とみじ 1846 - 1892)
明治時代の実業家。石川島造船所(現 IHI)創立者。日本の近代的印刷事業を興した人としても知られている。

* 8) 通詞
通訳、翻訳者。通詞には大通詞、小通詞、稽古通詞の三階級があった。

* 9) 長崎県歯科医師会会史第一編(長崎県歯科医師会)
https://www.nda.or.jp/study/history/motoki

【参考資料】
「日本の近代活字 本木昌造とその周辺」編纂委員会編『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(NPO法人 近代印刷活字文化保存会 2003)
古谷昌二編『平野富二伝 考察と補遺』(朗文堂 2013)
石出猛史「江戸の腑分と小塚原の仕置場」(千葉医学雑誌 84 2008)

タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
ぬらくらは、ダイナフォント News Letter(ダイナコムウェア メールマガジン)にて連載中です。
いち早く最新コラムを読みたい方は、メールマガジン登録(Web会員登録)をお願いいたします。
メルマガ登録はこちら
 
ダイナコムウェア コンサルタント
ダイナコムウェア株式会社
コンサルタント
mk88氏

PROFILE●1942年東京都生まれ。1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
Blog:mk88の独り言

月刊連載ぬらくらバックナンバー
連載にあたっておよび記事一覧
ぬらくら第135回はこちら
ぬらくら第136回はこちら
ぬらくら第137回はこちら
ぬらくら第138回はこちら
ぬらくら第139回はこちら
ぬらくら第140回はこちら
ぬらくら第141回はこちら
ぬらくら第142回はこちら
ぬらくら第143回はこちら
ぬらくら第144回はこちら
ぬらくら第145回はこちら
ぬらくら第146回はこちら
ぬらくら第147回はこちら
ぬらくら第148回はこちら
ぬらくら第149回はこちら

前 : ぬらくら第151回「20年後の日本」    
次 : ぬらくら第149回「ChatGPTを使ってみた」