ダイナフォントストーリー

カテゴリー:連載コラム「ぬらくら」
2022/09/12

ぬらくら第137回「印刷文化の黎明展」

「印刷文化の黎明展ーインキュナブラからキリシタン版までー」という大層気になる展示会が、6月6日から西南学院大学博物館で開かれているという情報がメーリングリストに流れてきました。
7月2日にはその関連イベントで「印刷の世界史」というタイトルの講演もあると書かれています。

7月2日の講演に合わせて、少し早いのですが夏休みをとって展示会に行ってみることにしました。西南学院大学博物館の所在地を調べたら福岡市にあるミッション系の大学の博物館です。
福岡まで飛行機で行こうか新幹線にしようか少し迷ったのですが、目的地に着くのに乗り換え回数の少ない新幹線で出かけることにしました。

博多入りは一日前の7月1日、午後1時過ぎです。
3年ぶりだという博多山笠がこの日から始まっていることも知らずに、数十年ぶりの博多の夜を満喫したのでした。

一夜明けて、投宿したホテルの真ん前、地下鉄空港線の祇園駅から西新駅まで移動、所要時間は15分ほどです。簡単な漢字二字を組み合わせた<西新>を初めて見たときは<にしじん>と読めませんでした。
その西新駅から西南学院大学博物館まで、一戸建てや集合住宅が並ぶ細い道を5分ほど歩きます。時々車が通りかかります。日差しも強くなってきました。
西南学院大学博物館は1916年に開校した同校開校時の本館・講堂だった建物です。三階建ての赤煉瓦造りで壁には濃い緑色をした太い蔦が這っています。

赤煉瓦に嵌め込まれた2枚の純白の正面扉は木製で、それぞれの上半分には12枚のガラスが嵌め込まれ、夏空を映して光っています。
白い扉の左手には扉と同じくらい大きなバナーが、紺地に白抜きの文字で「印刷文化の黎明」と案内しています。
扉を入るとすぐ左手に黒御影石で作られたと思われる高さ1メートル余り、幅50センチメートルほどの「メシャ碑文」の複製が据えられています。
古代イスラエルとモアブの歴史的関係を示す貴重な聖書外資料で、紀元前9世紀のもの、オリジナルはルーブル博物館が所蔵しているそうです。
受付のスタッフに尋ねたところ、メシャ碑は今回の特別展とは関係なく常にここに設置されている碑だそうです。

天井の照明を受けて黒光りしている板張りの広い廊下を左に曲がると、目指してきた「印刷文化の黎明」展が開催されている部屋です。
入り口の脇に据えられた大きなガラスケースには複製ですが四十二行聖書がドンと展示されています。
四十二行聖書は1455年頃、ドイツのマインツでヨハネス・グーテンベルクが羊皮紙に活字で印刷した聖書のことです。その殆どのページが42行で構成されていることから、こう呼ばれています。
グーテンベルグはこの聖書を180部ほど出版したようで、そのうち49部が現存しているそうです。
ぬらくら子も1991年にドイツの印刷機材商社からプレゼントされたヨハネ黙示録の1ページだけの複製を持っていますが、一冊マルマルの重量感と存在感は凄いです。

この展示会の副題にもなっている「インキュナブラ」というのは、グーテンベルグが活版印刷術を発明した15世紀の中頃から1500年の間に刊行された印刷物のことを指しています。
この時期に刊行された本は、原本を手で書き写した写本時代の伝統を強く残していて、ドロップキャップ(段落先頭の一文字を大きくするレイアウト手法)を色彩豊かに装飾した手書き文字で挿入したり、段組の間を極彩色で描いた蔓草のイラストレーションで仕切ったりと、写本のデザインをなぞったような仕上がりです。

展示は「第一章 写本から印刷本へ」「第二章 印刷都市の拡大」「第三章 日本伝来」の三つに分かれています。以下に特に目を引いた展示品を何点か紹介します。

「第一章 写本から印刷本へ」では高価な写本から入手しやすくなった印刷本に移行する時期に刊行された、主にキリスト教に関連した展示品が並んでいます。

「楽譜付きミサ典書写本断片」は1150年頃にフランクフルトで刊行されたと思われる典礼書の一葉で、後世に印刷本の装丁に再利用された羊皮紙の写本断片です。

「聖母マリアの小聖務日課書」は1480年頃、北フランスで刊行されたもので、羊皮紙を使った写本です。本文組の中に赤色で印刷されている単語があるのが目を引きます。

「聖ヒエロニムス『マタイ福音書註解』」は1497-98年にヴェネツィアで刊行された聖ヒエロニムスによるマタイ伝の註解書で、紙に活版(一部木版)で印刷されています。
ページいっぱいに組み上げられた一段組の単語間のアキは僅かで、行間はベタ組みではないかと思われるほどビッシリと組まれており、印刷紙を惜しんだ組版ではないかと想像してしまいます。
以上の展示はいずれもオリジナルです。

「第二章 印刷都市の拡大」で紹介されているのは、マインツから始まった印刷術が瞬く間にヨーロッパ各地に広がっていった様子と、それによって残された仕事の数々が展示されています。

特に目を引くのが「ニュルンベルク図」です。縦40センチメートルほど、横60センチメートルほどの二葉に分かれた大きな版画で、二重の城壁に守られたニュルンベルクの街並みや教会が精緻に描かれています。
紙に活版(一部木版)で印刷されています。1493年にニュルンベルクで刊行されたドイツ語版「ニュルンベルク年代記」の一部で、展示されているのはオリジナルです。

「ダンテ『神曲』煉獄編」と「ダンテ『神曲』天国編」はどちらもオリジナルで、1491年にベネツィアで刊行されたものです。紙に活版(一部木版)で印刷されています。
展示されている煉獄編のページは縦三列に分けて組まれています。上と下の列はさら二段組みになっていて、中央の列は一段組みです。右上に大きな図版を、左段の上と下に神曲の本文を配しています。
中央の一段組みは本文よりも小さな活字で組まれた、本文の注釈だそうです。

「栄光なるおとめマリアのロザリオ」はイタリア語で書かれた最古のロザリオ祈祷書の印刷本で、紙に活版(一部木版)で印刷されています。展示されている右ページの半分を占める大きな図版が目を引きます。
両手で自らの二つに分かれた尾鰭を持つ人魚の姿が異様です。これはこの本の出版人のプリンターズ・マーク(印刷所商標)です。これも1556年にヴェネツィアで刊行された印刷本のオリジナルです。

「第三章 日本伝来」で紹介されているのはキリシタン版と呼ばれる刊本です。キリシタン版とは、ヨーロッパ中で普及した印刷術が16世紀末になるとキリシタンと共に日本にやって来ます。
そこでイエズス会が残した活字による印刷本の総称です。豊臣秀吉の伴天連追放令や徳川幕府の伴天連禁止令の影響を受けて、その活動期間は僅か20年という短期間でした。

「どちりな・きりしたん」はイエズス会によって刊行されたカトリック教会の教理本で、タイトルは “Doutrina Crista” の仮名書きです。1591年に加津佐あるいは天草で刊行されたと思われます。
和紙に連綿体の金属活字で印刷された和装本で、日本の活版印刷史を遡ると必ず出会う一冊です。

「ぎや・ど・べかどる」はポルトガル語で書かれた “Guia de Pecadores” の日本語抄訳で1599年に長崎で刊行された上下二巻,二冊からなる、和紙に連綿体の金属活字で印刷された和装本です。
確認することはできませんでしたが、表題の下に『罪人を善に導くの儀也』とあるそうで、これが「ぎや・ど・べかどる」の意味です。信仰修養の書として知識階層のキリシタンに広く読まれたそうです。

「こんてむつすむん地」は1610年に京都で刊行されました。和紙に連綿体の木活字で組まれ、その反面を版画のようにバレンで刷りとった和装本です。
「こんてむつす むん地」は “Contemptus Mundi” の漢字かな混じり表記で『世の思いを捨てる』という意味です。「どちりな・きりしたん」と共に名著と言われています。

今回一番見たかったのが、これら三冊を含むキリシタン版でした。三冊とも復刻版でしたが博多までやってきた甲斐がありました。

午後の講演に備えて昼食です。博物館を出て西新中央商店街から中西商店街まで、炎天下を食堂を探し歩いて見つけたのが「中国北方料理 知味観」の看板です。
久々に羊肉にありつけると期待したのですが、この店の人気メニューは麻婆豆腐でした。

講演会場は西南学院大学博物館の右隣に建つ西南コミュニティーセンター・1階のホールです。一人おきに座るように指示された座席は、60人余りの受講者で埋まってしまいました。
講師は印刷博物館の中西保仁さん、講演のタイトルは「印刷の世界史」。
中西さんがローマ教皇庁のバチカン図書館との信頼関係を築き上げながら、世界的にも貴重で希少な印刷物を借り出してくるくだりは興味深く、大変に面白い講演でした。

タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
ぬらくらは、ダイナフォント News Letter(ダイナコムウェア メールマガジン)にて連載中です。
いち早く最新コラムを読みたい方は、メールマガジン登録(Web会員登録)をお願いいたします。
メルマガ登録はこちら
 
ダイナコムウェア コンサルタント
ダイナコムウェア株式会社
コンサルタント
mk88氏

PROFILE●1942年東京都生まれ。1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
Blog:mk88の独り言

月刊連載ぬらくらバックナンバー
連載にあたっておよび記事一覧
ぬらくら第123回はこちら
ぬらくら第124回はこちら
ぬらくら第125回はこちら
ぬらくら第126回はこちら
ぬらくら第127回はこちら
ぬらくら第128回はこちら
ぬらくら第129回はこちら
ぬらくら第130回はこちら
ぬらくら第131回はこちら
ぬらくら第132回はこちら
ぬらくら第133回はこちら
ぬらくら第134回はこちら
ぬらくら第135回はこちら
ぬらくら第136回はこちら