ダイナフォントストーリー

カテゴリー:連載コラム「ぬらくら」
2021/12/27

ぬらくら第129回「声から生まれた文字体系」

千葉県館山市内を抜ける国道410号線の下真倉北交差点近く、建ち並ぶ住宅のさらに奥の大網という所に、この辺りの雰囲気に似つかわしくないお寺が建っています。
雄誉霊巌上人(1554-1641)が慶長8(1603)年に開いた浄土宗のお寺、仏法山大網寺大巌院です。

大巌院は安房の国(現・千葉県南部)における浄土宗の触頭(幕府の寺社奉行から出された命令を伝達する寺院)だったそうです。

山門を入ってすぐ左手に高さ二メートル余りの玄武岩でできた古い石塔が建っています。
元和10(1624)年に雄誉霊巌上人が建立したというこの石塔は、四つの面全てに文字が刻まれていることから四面石塔と呼ばれています。

塔の北の面にはインドの梵字で、西の面には中国の篆字で、東の面には朝鮮の訓民正音(くんみんせいおん/* 1)で、 南の面には楷書風の漢字で、それぞれ「南無阿弥陀仏」と刻まれています。

ここで注目すべきは訓民正音です。
訓民正音は李氏朝鮮第四代王世宗(1397-1450)によって1443年に創られ、1446年に「訓民正音」という書物の形で公布された文字体系です。
この塔に刻まれている訓民正音は、同じく世宗王が編んだ東國正韻(とうごくせいいん/* 2)に基づいた漢字音表記になっています。

東國正韻は漢字の音(読み)を訓民正音で表記した辞書のようなものですが、非常に短期間で用いられなくなってしまいました。
それが石に刻まれて日本のお寺に残っているというのは大変に珍しいことと言えるでしょう。

訓民正音は単に正音とも呼ばれ、諺文(おんもん)という呼び方もされました。
諺はことわざの意ではなく『中華(中国)を中心とする世界語(漢文)に対する地方語(土着語)としての我らの言葉』の意で、自らを卑下した言葉だとして今は使われません。

訓民正音は近代の先駆的な朝鮮語学者、周時経(チュ・シギョン、1876-1914)によって「ハングル」と名付けられました。 ハンは「偉大なる」、グル(クル)は「文字(文章)」という意味です。

「訓民正音 解例本(* 1)」の冒頭の序に世宗王自らがこう書いています。

國之語音、異乎中國、與文字不相流通、故愚民、有所欲言、而終不得伸其情者多矣。
予為此憫然、新制二十八字、欲使人人易習、便於日用耳。

『我が国の語音は中国とは異なり、漢字と互いに通じることがないので、漢字を知らない民は言いたいことがあっても、その情(こころ)を述べることもできずに終わるものが多い。予はこれを憐れに思い、新たに二十八字を作った。人々が簡単に習い、日々用いるのに便利にさせたいだけである。』

世宗王の想いは、太安万侶が「古事記」の中で、以下のように漢字を利用して日本のことがらを書き表すことの難しさを嘆いていることと、何処かで通じているような気がします。

然上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難
已因訓述者 詞不逮心 全以音連者 事趣更長

『昔は言葉もその意味も素朴で、文章で現そうとしても文字で表現するのは難しい。全てを訓(漢字の意味・解)で書こうとするとその言葉は言いたいことを現すことができず、全てを音(読み・読音)で表記すれば記述が長くなってしまう。』

それまで独自の文字を持つことのなかった朝鮮と日本ですが、日本が漢字を基にして片仮名と万葉仮名(ひらがな)を生み出したのに対して、朝鮮は漢字に基づかずに独自の発想で訓民正音を創ります。
彼我の違いに漢字への接し方と、それぞれの民族性が現れているように思えます。

世宗王は訓民正音を創るに際し、休眠状態だった集賢殿という学問研究機関を再生し、当時の朝鮮最強の頭脳集団ともいうべき次の八名を招集します。
氏名と一緒に訓民正音が創られた1443年時点のそれぞれの年齢も書いておきます。

鄭麟趾(テイ・リンシ 47歳)
崔恒(サイ・コウ 34歳)
朴彭年(パク・ホウネン 26歳)
申叔舟(シン・シュクシュウ 26歳)
成三問(セイ・サンモン 25歳)
姜希顔(キョウ・キガン 26歳)
李塏(リ・ガイ 26歳)
李善老(リ・ゼンロウ 年齢不詳)

鄭麟趾も老境の人とは言えない年齢ですが、それにしても全員が若いです。

彼らは日常使われている言葉を集め、その言葉が発音される時の音声を分析して音素(* 3)という音声の最小単位を取り出します。
取り出した音素の一つ一つが、口や舌がどのような形で発っせらているのかを観察して、それらを書き表す形(字母/* 4)を定めていきます。音声から文字が生まれる瞬間です。

訓民正音は人が発する音声を基に作られた文字だという点が、モノの形から生まれまた漢字やアルファベットとは大きな違いです。

鄭麟趾は訓民正音の後序(* 1)で、訓民正音の二十八字を用いれば書けないということがないとして、漢字では書き表せなかった例を列記して、次のように述べています。

雖風聲鶴唳、鶏鳴狗吠、皆可得而書矣。

『風の音、鶴の声、鶏の声、犬の鳴き声でも、みな書き取ることができるのである。』

2009年8月に鄭麟趾が後序で述べたことを証明するようなニュースが流れました。
それまで文字を用いていなかったインドネシアの少数民族が、彼らの言葉チアチア語を、ハングルで表記することを彼らの族長会議で決定しました。

インドネシアのスラウェシ州ブツン島バウバウ市の小学校などが取材を受けて、韓国では大きく報道されたそうです。 ハングルで書かれた教科書の民話を、韓国の取材者が意味は分からないまま朗読すると、当地の老人達は笑うべきところで笑ったそうです。

韓国におけるハングルと漢字の併用は何度かの曲折を経ながら1970年頃まで続きますが、2005年に「国語基本法第14条第1項」が制定されてから、漢字は徐々に姿を消して今日に至っています。

* 1)訓民正音(くんみんせいおん)
現在はハングルと呼ばれている朝鮮の文字体系のことを指す。世宗王によって公布された同名の書物を指す時にも使われる。字母の説明は全文、漢文で書かれている。
同書は次のような内容になっている。
 (1) 世宗御製の序文
 何故このような文字を創ったのかを世宗自らが述べている序。
 (2) 例義
 各字母の定義と文字の構成などを簡潔に解説している。
 (3) 解例
 文字の成り立ちなどを解説し、実際の単語で用例を示している。
 書物としての訓民正音には他の版もあるので、この解例を含んだ訓民正音を
 訓民正音解例本と呼んでいる。
 (4) 鄭麟趾の序文
 訓民正音の創製にあたった鄭麟趾の序文。
 世宗の序文と区別するために後序ともよばれる。

* 2)東國正韻(とうごくせいいん)
世宗王によって1448年に頒布された、漢字の音をハングルで表記した韻書。全六巻。
当時、朝鮮における漢字の読み(漢字音)が本来の読み(音)から離れてしまっていることを正そうとした世宗王によって編まれたが、十五世紀末には用いられなくなる。
編纂には訓民正音の編纂に当たったと同じ申叔舟・崔恒・成三問・朴彭年・李
・姜希顔・李善老等が当たっている。

* 3)音素
言葉の意味を区別する機能をもつ音声の最小単位。例えば「かめ(亀)kame」なら、/k/、/a/、/m/、/e/ のこと。音声学では音素を / / でくくって表記する。

* 4) 字母
ハングルを構成する文字のパーツ。目を表すハングルは L T L のような形をしたパーツを縦に重ねた一文字だが、この時のLやTが字母にあたる。

【参考資料】
『訓民正音』
 趙義成 訳註、平凡社 2010年刊
『新版 ハングルの誕生 人間にとって文字とは何か』
 野間秀樹 著、平凡社 2021年刊
『漢字世界の地平』
 齋藤希史 著、新潮社 2014年刊

タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
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ダイナコムウェア コンサルタント
ダイナコムウェア株式会社
コンサルタント
mk88氏

PROFILE●1942年東京都生まれ。1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
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