ぬらくら第122回「古墳と板碑」
北総鉄道線(京成成田空港線)に沿って整備された国道464号線(北千葉道路)は、 小室駅を過ぎてから印旛日本医大駅を過ぎるまでの十数キロメートルほどの区間、 上下線が北総鉄道線で分離された片側二車線、信号も交差点もなく、走っていると高速道路と勘違いしそうです。
実際に道路の所々に『ここは高速道路ではありません』の標識が立っています。
この道路が今のように整備される以前は、県道65号線(佐倉印西線)の瀬戸交差点を左に折れて、県道12号線に入っていました。
今は464号線を印旛日本医大駅の先を吉高の信号まで走って、そこを左折します。
左折した道は瀬戸交差点から続く県道12号線(鎌ケ谷本埜戦)です。
直ぐにY字路になるので右の細い道に入ると、右手に庚申塚が五、六本立っている四辻に出るので、その四辻を右折します。
ここからは両側に赤茶けた畑が続く車一台分の幅しかない、曲がりくねり、ゆるくアップダウンを繰り返す道を進みます。
道は黒い森に吸い込まれるので、そのまま進んで行くと左右に農家の屋根が見えてきます。
T字路にぶつかるので右折すると道は更に細くなり、左右は再び黒い木々に塞がれます。
道なりに左に大きく曲がると上りながら右へ行く分岐路が見えますが、ここは直進です。
直ぐに今度は下りながら左への分岐路があるので、そちらには入らずここも直進。
道はゆるい上りになります。道幅は少し広くなりますが左右は相変わらず黒い森で、たまに竹藪が現れます。
道が開けて明るいところに出ると、右の木陰に未だ新しい小さな祠が建っています。祠には庚申塚が二基収められていました。
祠の先に広がる小さな畑の真ん中が盛り上がりがっています。この界隈に幾つか残る羽黒古墳群の一つです。
この古墳にはそれ以上の名前は付いていないようです。
古墳のテッペンには高さ1メートルほどの石塚が据えられています。
古墳の裏側に回り込むと、石塚だと思ったのは仏像が彫り出された石仏でした。
仏像の左側に「元禄拾三歳八月弐三日」と刻んであるのが読み取れます。元禄13年というと1700年、321年前になります。
ここは嘗て印旛沼の畔だったと思われる所で、東の林の間から1キロメートルほど先に印旛沼が覗いています。
この辺りは行き交う車も人も無く、明るく青い空が妙にシンとしています。
名無しの古墳から少し走ると、道は右に向かって暗い穴倉に落ちるように急な下りになります。
その下り口にウッカリしていると通り過ぎてしまいそうな道が左手奥に向かって延びています。
道なりに穴倉に向かわずに、この左の道に入ります。
周囲の空気は更に山深くなります。
枯れ草に覆われた道の両際から生える杉木立で、かつて走り回った信州の林道を思い出しました。
杉木立から洩れる陽射しで斑に光る枯れ葉の小径をゆっくり進みます。
木立に隠れた緩いカーブを曲がると、区画整理された墓地「刈叉墓苑」の前に出ます。
墓苑の中央に立てられた黒御影石の「刈叉墓苑改修之碑」に、この墓地の由来が刻まれているので冒頭部分だけ引用してみます。
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苅叉墓苑改修之碑
日本最古の十三佛(永和四年西暦一三七八)羽黒十三佛種子板碑の南方に位置する此處吉高台地苅叉の地に共同墓地が形成されたのは詳らかではないが、菩提所迎福寺に現存する最も古い過去帳に記載されている、慶長十八年から数えて平成十年現在三百八十五年の歳月を閲しておりますが、迎福寺開創五百十年からしても、それ以前既に墓地として実存したものと思量せられるものであります。
(以下略)
平成十年霜月吉晨
天長山迎福寺廿九世 祖田耕宗 合掌
苅叉共同墓地区画整理委員会
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苅叉墓苑改修之碑によれば、この墓地は2021年の今日で408年が経過していることになります。
墓苑の裏にも古墳と思われる土盛りが残っていますが、これも羽黒古墳群の一つなのでしょう。
区画整理された新しい墓碑群の真向かいにここに移設された古い墓碑が行儀良く並んでいます。
この辺りは場所が良いのか羽黒古墳群や苅叉墓苑以外にも、古い墓地が木立の中に埋もれるように何カ所も残っています。
共同墓地からワン・アクセル、道は再び黒い森の中に入りT字路にぶつかるので右に折れると、暗い穴倉に落ちるように急な下りになります(デジャヴか? このフレーズ何処かで読んだゾ)。
落ち葉に覆われた急な下り坂の手前でバイクを下り、左の山肌の斜面に沿って下草の割れ目が上っているので、その割れ目を辿ります。
踏み固められた跡を上ると直ぐ、足元の左に崩れかけた道祖神があり、その先に木々が開けた緩い斜面が広がり、2メートル四方の小さなお堂が建っています。
このお堂が苅叉墓苑改修之碑の冒頭に記されている羽黒十三佛種子板碑を収めたお堂です。
お堂の前に立っている高札型の説明板を見てみましょう。
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印西市指定有形文化財
板石塔婆(羽黒十三仏種子板碑)
所在 印西市吉高 迎福寺
指定 昭和五十一年六月一日
南北朝後期のもので、高さ一一七センチメートル、材質は黒雲母片岩である。
上部に釈迦三尊と阿弥陀三尊、下部に七仏 (* 1) の種子 (* 2) を配している。
その下に銘文があり、永和四年(一三七八)に道妙と妙一という夫婦が逆修供養 (* 3) のために造立したものと伝える。
全国的にも貴重な板碑である。
平成六年三月
印西市教育委員会
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お堂の格子から中を覗くと、上から五色幕のような布が垂れ下がり、その奧に黒い板碑が祀ってあるのが見えます。
この板碑が供えられたのが説明板によれば永和4(1378)年ということですから、今年で643年になります。
板碑塔婆堂横の暗い急坂を後輪のスリップを気にしながら下りきって、急なカーブを左へ左へと進むと、 今は干からびている稲田が開け、その奧に京成成田空港線の高架とそこに沿うように走る464号線が見えてきます。
ポツポツ並ぶ農家を左に、道なりに進んで行くと迎福寺の参道前に出ます。迎福寺前から北須賀交差点を経て464号線を戻ります。
以上、印旛の羽黒古墳群と板碑塔婆堂の探訪ツーリングでした。
* 1) 七仏(しちぶつ)
過去七仏のこと。釈迦仏までに登場した七人の仏陀のことをいう。
七人の仏陀とは毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、倶留孫仏(くるそんぶつ)、倶那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)
* 2) 種子(しゅじ)
仏の尊名を梵字一字で表して象徴としたもの。
* 3) 逆修供養(ぎゃくしゅくよう)
年長者が死んだ若い者の冥福を祈ること。また、生存中に自身の仏事を行い冥福を祈ることも言う。
タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
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mk88氏
PROFILE●1942年東京都生まれ。1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
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