連載コラム
2021年03月10日

ぬらくら第119回「白亜の寺」

2013年8月某日。

朝9時40分、雲間から薄日が漏れる成田国際空港を出発した便は、午後1時30分に香港国際空港に到着。空港を覆っていた黒い雲は機を降りる頃、雨に変わる。

広い空港内を延々と歩いて乗り継ぎ便の搭乗口へ移動。

降り出した雨は乗り継ぎ機に搭乗する頃、さらに強くなりほぼ土砂降り。
乗り込んだ機の窓から見える翼が大きな雨粒に叩かれている。

午後3時35分、土砂降りの中、乗り継いだ機は香港を後にしてタイ北部のチェンマイへ向かう。

チェンマイ国際空港が近づいてきたのか、高度を下げる機体の窓の下を分厚い白い雲が敷き詰めている。
その厚い雲を潜り抜けると、雲の切れ間から差し込む眩しい陽射しが、翼の向こうに大きく半円の虹を描いている。

午後5時20分、チェンマイ国際空港に到着。

空港ロビーを出てタクシー乗り場にゆくと、そこに並んでいる車にはタクシーの標示をつけている車が一台も見当たらない。

タクシー・カウンターを利用することにして、空港ターミナルビルに戻る。
カウンターで行先のホテル名を告げて料金 120バーツ(384円)を払い、クーポンを受け取る。
タクシー・カウンターの係員に言われたようにターミナルビルの出入り口の外でタクシーを待つ。

待つこと5分あまり。

車体横にクーポンに書き込まれたのと同じ番号を付けた車が入ってきた。
どう見ても自家用車にしか見えない黒塗りの車から降りてきた運転手が、客を捜すそぶりをしている。近寄って手元のクーポンを見せると『乗れ』と言う。

予約してあるホテルまで空港から30分弱。

投宿したホテルは部屋からのインターネット接続が有料で1時間60バーツ(192円)、24時間100バーツ(320円)。
その都度パスワードが書き込まれたチケット(Internet Card)をフロントで購入する。

チェンマイは1296年にランナー王朝の初代王メンラーイによって、ピン川のほとりに造られた王国の首都で、今もタイ北部の文化・経済の中心都市だ。
首都バンコクを日本の東京に例えるなら、チェンマイはさしずめタイの京都だろうか。

街の中心、東西1.6キロメートル、南北1.6キロメートルの堀と壁に囲まれた旧市街地には古い寺院や街並みが今も数多く残っている。

チェンマイ滞在も一週間が過ぎ、旧市街地に建つ目ぼしい寺院や古い街並みにはあらかた足を運んでしまった。
ホテルのロビーで営業している地元の旅行代理店に声をかけると、手頃な一日バスツアーがあると言うので利用することにした。

温泉、ワット・ロンクン、ゴールデン・トライアングル、ランチ、送り迎え付きで1,200バーツ(3,840円)。

ツアー当日は早めに朝食を済ませてロビーに降りてゆく。外は雨。
ソファーに腰を下ろす間も無く、声をかけてきたのは今日のツアーのガイドくんのようだ。

車寄せに停められた灰色のミニバンには誰も乗っていない。

ミニバンに乗り込むとガイド君が『他のツアー参加者を拾うために次のホテルに移動する』といい、直ぐにミニバンを出発させる。雨は止みそうもない。

到着したホテルの前で別のバスに乗り換えてくれと言われ、ミニバンを降ろされる。
事前に説明のないことはしばしば起こる。雨宿りをしながら待つこと暫し。

やって来たミニバスに乗り込むと、車内は既にツアー参加者で一杯だった。
バスの後部座席の方から声がかかり、
けてくれた座席に収まる。
周囲の同行者達はフランス、中国、オランダ、台湾、韓国、イタリア、スペインと多彩でにぎやかだ。
このツアーに一人で参加しているのは自分だけのようだ。

激しい雨の中をチェンマイから180キロメートル余り北の街、かつてのラーナー・タイ王国の首都チェンラーイ(Chiang Rai)を目指して出発。

雨に濡れて濃さを増した緑が流れるばかりの退屈な車窓、山の中の曲がりくねった上り下りが続く道をひたすら走り、出発してから3時間半ほどで到着したメーカチャン温泉(Maekhachan Hot Spring)は間歇泉があるだけだの、日本の温泉町とは大違いの情緒のない土産物センターだった。トイレは有料で5バーツ(16円)。

メーカチャン温泉から20キロメートル、走り始めたミニバスは15分ほどで徐行を始めた。
ワット・ロンクン(Wat Rong Khun)に着いたようだ。

バスを降りる。それまで降っていた強い雨が上がり一気に雲が消えてゆく。

バスの窓からチラリと見えたワット・ロンクンが、雲が消えた真っ青な空を背景に眩しくその白い姿を晒している。その壮麗な美しさにツアーの一行から一斉に歓声が上がった。

ワット・ロンクン。

この白亜の寺はチェンラーイ県ムアンチェンラーイ郡(Amphoe Mueang Chiang Rai)にある。
チェンラーイ出身のグラフィック・アーティスト、チャルームチャイ・コーシピパット(Chalermchai Kositpipat)氏が自身でデザインして、自費で1997年に建設を始めた仏教寺院。
その姿は三層の屋根やナーガ(蛇神)の多用などに見られる古典的なタイ建築様式を踏襲しており、現在も建設が続いている。

仏教や神話をモチーフにデザインされた白亜の寺は、別名ホワイト・テンプルとも呼ばれている。真っ白な寺はまさに斬新で圧巻。チェンラーイの新たなランドマークになっている。

近づいて見ると随所にモダンな装飾が施されていて、古い寺ばかりを見てきた眼にはいささか違和感がある。“Wat” と付いてはいるが寺院とは言いがたい建物だ。
しかしその壮麗さは一見の価値がある。

本堂の前に小さな池を渡る「輪廻転生の橋」が架かっている。
橋の前には、際限のない欲望を象徴するかのような無数の白い手が、天をつかもうとしているのか、あるいは救いを求めているのか、地中からこちらに向かって伸びている。
この無数の白い手は煩悩の数と言われる百八本なのか、その周辺には何の説明もない。

池の前には、仏教神話に登場する金色の半人半獣像、歌や踊りが得意なキンリーが立っている。

本堂が白く塗られているのは仏陀の清浄さを象徴しているのだという。

本堂内はガランとしており、正面にはチャルームチャイ・コーシピパット氏の手によるという薄紅色をした仏陀の壁画が描かれている。
壁に描かれたその仏陀の胸のあたりには白色の仏陀像が金色の蓮華に坐し、その下の壇には黄金の仏陀の坐像が安置されている。

仏陀の壁画と二体の坐像の周りには何の飾りもなく、仏陀像だけが安置された様はなんとも素っ気ない。二体の仏像の前には僧侶の座像(蝋人形のように見える)が安置されているのみだ。

本堂内のこれも真っ白な壁には高層ビル群やミサイル、バットマン、スーパーマン、マイケル・ジャクソン、マトリックスのネオ、ハリー・ポッター、ハローキティなど、伝統的な寺院では見ることのない、ポップカルチャーに由来するキャラクターが仏教的文脈に納めようとしているかのように描かれている。

写真を撮ろうとしたら、本堂内は撮影禁止ですと係員に制止されてしまった。

本堂の周囲には建築途上の付属の堂屋が、剥き出しのコンクリートを曝している。

2014年5月5日。

この日の夕暮れ時、チェンラーイ県メーラーオ郡(Amphoe Mae Lao)を震源とした大地震が発生した。この地震でワット・ロンクンも大きな被害を受け、無期限の閉鎖を余儀なくされてしまったという。

チャルームチャイ・コーシピパット氏は地震発生の翌日、この寺は取り壊し、再建しないつもりだと述べたそうだが、地震発生から二日目、技術者の一団によって実施された現地調査によって、寺の全ての建造物は地震による構造的な損傷を受けていないことが確認された。

これを受けたコーシピパット氏は二年のうちに寺院を元の美しい姿に再建すると発表し、併せて5月8日の午後、境内は訪問者に解放されたそうだ。
しかし、白亜の本堂は外から写真を撮ることが許されるにとどまっているという。

2021年2月某日。

COVID-19 のお陰で何かと不自由を強いられ閉塞感ただようご時世、雨上がりの青い空を背景にスカッと建っていた白い寺の姿が思い出される。
あの白亜の寺は、今、どうなっているのだろう。

*タイバーツ・日本円換算は当時の換算レートによる。

タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
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ダイナコムウェア コンサルタント
ダイナコムウェア株式会社
コンサルタント
mk88氏

PROFILE●1942年東京都生まれ。1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
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