ぬらくら第116回「保険契約のトラブル」
そんなある日、昼休みも終わろうかという時間に職場に戻ると、年配のスーツ姿の女性が笑顔で待っていました。
彼女は生命保険の外交員でした。
ぬらくら子が勤務していた当時の会社では、昼休みに限って特定の生命保険会社の外交員の営業活動が許されていたようです。
この時、勧められるままに契約した生命保険契約は、その後、何十年も継続することになります。
結婚して都心から隣県の現住所に転入し、子供たちも中学、高校へと進む頃、すでに時代に合わなくなっていたこの生命保険を、保険会社の勧めで新しい保険に乗り換えることになりました。
乗り換えの手続きに必要な書類と一緒に添付が必要だと言われた住民票を添えて、保険会社に提出し、これで一件落着。
……と思ったのですが、数日して保険会社から電話があり、添付の住民票では本人の確認が取れないと言われ『???』。
先方の言っている意味が分かりません。
古い生命保険契約書に記載されているぬらくら子の名前と住民票の名前が違うというのがその理由でした。
名前を変えたことはないのに?
電話ではラチが明かず、その後、保険会社の営業担当者とおよそ半年にわたって『ああでもない、こうでもない』のやり取りが繰り返されます。
もともと保険会社が言い出した保険の乗り換え契約なのに、やっかいなことでした。
保険会社に、これは本人が申請して取得した住民票で、私が本人だと言っても、そこは通用しない世界でした。
ぬらくら子の名前には「彌」が使われています。
「彌」の新字(略字・俗字)に「弥」がありますが、ぬらくら子が名付けられたのはどちらを使っても好いとされた時代です。
当時の戸籍は手書きで、その抄本や謄本はアンモニア臭い「青焼き (* 1)」でした。
古い契約書には「弥」が使われていました。
本人確認のために添付した住民票には「彌」が使われています。もちろん手書きの頃から戸籍は「彌」です。
この時は半年ほどかかりましたが、無事に契約の乗り換えをすることができました。
何故こんなことが起きたのか?
「彌」でも「弥」でも好かった時期から、国語審議会による標準漢字表や当用漢字表への収録文字の変更、さらに戸籍法の改正など、重なる使用可能文字変更の影響を受けて、どちらも使えない時代があったようです。
戸籍事務にコンピューターが導入された初期の頃は「彌」の替わりに新字の「弥」が使われていました。
戸籍事務がコンピューター化されたことと、人名漢字の変遷が絡み合って生じたトラブルだったのかも知れませんが、当事者にとっては迷惑な話でした。
読者の中には他の文字でぬらくら子と似たような経験をなさった方が、少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。
「彌」と「弥」の変遷について詳しく解説しているサイトを見つけました。 WORD-WISE WEB -- Dictionaries & Beyond --(三省堂 辞書ウェブ編集部によることばの壺)です。
参考までに、以下に要旨をまとめてみました。
興味のある方は是非オリジナルのサイトをご覧になってください。記事の最後にリンク先を示しておきました。
1942(昭和17)年6月17日
国語審議会が答申した標準漢字表には、旧字の「彌」が収録されていて、新字の「弥」がカッコ書きで「彌(弥)」のように添えられていた。
1946(昭和21)年11月16日
内閣告示された当用漢字表には「彌」も「弥」も収録されていなかった。
1948(昭和23)年1月1日
戸籍法が改正された結果、旧字の「彌」も、新字の「弥」も、子供の名づけに使えなくなってしまった。
1950(昭和25)年10月19日
全国連合戸籍事務協議会の総会で、子供の名づけに使える漢字を、当用漢字以外にも増やしてもらうべく、法務府と文部省に要望することを決めた。 この時、全国連合戸籍事務協議会が要望した54字の中に、旧字の「彌」が含まれていた。
1951(昭和26)年5月14日
国語審議会は「人名漢字に関する建議」を発表した。この建議は、子供の名づけに使える漢字として、当用漢字以外に新たに92字を追加すべきだ、というもので、この92字の中に「弥」が含まれていた。
国語審議会の建議では、旧字の「彌」が新字の「弥」になっていた。翌週5月25日、この92字は人名用漢字別表として、内閣告示された。新字の「弥」は、同日から子供の名づけに使えるようになった。
旧字の「彌」は子供の名づけには使えないと思われていた。
1961(昭和36)年12月15日
当時の栃木県今市市の戸籍事務担当者は、今市市長経由で宇都宮地方法務局長に対し、旧字の「彌」や、その右下を「用」にした俗字について、それらを子供の名に含む出生届を受理してよいかどうか照会をおこなった。
1962(昭和37)年1月20日
これに対する法務省民事局長の回答は、俗字の方はダメだが、旧字の「彌」は受理してさしつかえない、というものだった。
1981(昭和56)年5月14日
民事行政審議会答申では、新字の「弥」も旧字の「彌」も、どちらも子供の名づけに使えるべきだ、ということになっていた。ただし、「彌」の右下を「用」にした俗字は使用できないとしていた。
1981(昭和56)年10月1日
戸籍法施行規則が改正され、新字の「弥」に加え、旧字の「彌」も人名用漢字になり、その状況が今日まで続いている。
* 1) 青焼き
ジアゾニウム塩が光によって起こす分解反応によって、光の明暗が青色の濃淡となって現れる現象を利用した複写法。現像にアンモニア水溶液を利用することから、現像直後の青焼きはアンモニア臭がする。
【参考】
WORD-WISE WEB -- Dictionaries & Beyond --
三省堂 辞書ウェブ編集部によることばの壺
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp
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タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
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コンサルタント
mk88氏
PROFILE●1942年東京都生まれ。1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
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