ぬらくら第111回「ジャンバティスタ・ボドニ」
それは今も根強い人気を持つ、モダン・ローマン体を代表するタイプフェイスです。
黒みがちでガッシリしたステム(* 1)、銅板に彫ったヘア・ラインのように鋭く繊細でブラケット(* 2)を付けないバー(* 3)やセリフ(* 4)、この組み合わせが生み出す強いコントラストがボドニの大きな特徴です。
ジャンバティスタ・ボドニは1740年2月26日、北イタリアのピエモンテ州サルッツオで、フランチェスコ・アゴスチーノ・ボドニとパオラ・マルゲリータ・ジオリッティの元に生まれます。
父フランチェスコも祖父のジアンドメニコも印刷業を営み、母のパオラもまた印刷業者の娘でした。
1740年はフリードリヒ二世がプロイセン王に即位し、マリア・テレジアがハプスブルク家を相続し、そしてオーストリア継承戦争が勃発した年です。日本の徳川八代将軍吉宗の時代にあたります。
ジャンバティスタは職人気質で厳格な父から、簡単な初等教育と基礎的な木版彫刻技術の訓練を受けます。
印刷業者の息子として成長したジャンバティスタは、その後、トリノのフランチェスコ・アントニオ・マイアレッセの印刷工房で金属活字版印刷全般の修業を続けます。
1758年、18歳になったジャンバティスタは父の仕事を手伝って貯めた小遣いを旅費に、自身の将来を追いかけてローマへと旅立ちます。
ローマには司祭の叔父がいるだけで他に頼れる身寄りもなく、職を求めてカトリック教会布教聖省(* 5)の印刷所を訪れます。
幸いにも活字父型彫刻師(* 6)で印刷所長のコンスタンティノ・ルッゲリにその才能を認められ、この印刷所で植字工の見習いとして働き始めます。
ジャンバティスタは布教聖省の印刷所で働くうちに布教聖省の長官スピネリの知遇を得て、彼からオリエント地方の諸言語の基礎を学びます。
布教聖省印刷所は数多くの言語でキリスト教布教のための書物やトラクトを印刷する特殊な印刷所だったのです。
長い間、乱雑に放置されていたオリエント諸言語の活字の整理と清掃にも取り組んだジャンバティスタは、この時に多様な言語の活字に対する知識を深めたものと思われます。
その後、彼はギリシャ語、アラビア語(* 7)、スラブ語(* 8)、コプト語(* 9)、チベット語(* 10)、中国語、モンゴル語(* 11)など、様々な言語の活字父型を作り、そこからイタリア有数の活字父型彫刻家としての地歩を固めていきます。
1766年、突然ルッゲリ所長が亡くなります(自殺したとも伝わっているようです)。
この年26歳になったジャンバティスタは、良き理解者で庇護者でもあったルッゲリ所長の後ろ盾を失い、職場の同僚達からの嫉妬と強い風当たりにさらされます。
ルッゲリ所長を失って居づらくなったローマを後にしたジャンバティスタは、傷心のうちに郷里サルッツオに戻ります。
しばらくの間、静養と称して生家に引きこもっていたようですが、直ぐにかつての古巣、トリノのマイアレッセの印刷工房に出向きます。
そこで活字父型彫刻や活字鋳造の仕事に従事し、さらに銅板印刷技術と木口木版印刷技術を習得していきます。
これまでに身につけた植字・組版技術に加えて父型活字彫刻技術、活字鋳造技術、銅板印刷技術、小口木版印刷技術を習得したジャンバティスタは、印刷に必要な技術をほぼ身につけたと言えるでしょう。
長靴型をしたイタリア半島の付け根にパルマ公国があります。
そのパルマ公国がパリのルーブル印刷所を手本にした王立印刷所を創設します。
パオロ・マリア・バチャウディ神父は王立印刷所から、印刷所の全てを任せることができる優れた印刷技術者を探して欲しいと依頼されます。
ローマ時代からジャンバティスタの印刷技術の才能に注目し高く評価していたバチャウディ神父は、彼を王立印刷所に推薦します。
パルマ公国王立印刷所から招聘を受けたジャンバティスタは、大喜びでパルマに赴任して王立印刷所の所長に就任します。1768年、ジャンバティスタ、弱冠28歳の時のことです。
パルマに定住したジャンパディスタはパルマ公にも愛され、市民の支持を受けて副市長にも就任し、金勲章を受けると言う栄誉まで授かります。ジャンバティスタ、絶好調ですね。
その後50歳になる1790年まで、彼はこれといって目立った業績を残していないようです。王立印刷所の所長に就任してからは印刷所の日常業務と管理に追われ、美食に浸る日々に満足していたのかもしれません。
パルマで印刷業者としての地歩を確立したジャンバティスタはスペイン、オーストリア、ミラノ、ナポリなど多方面から招聘を受けますが、彼はパルマを離れることはありませんでした。
そのうちの最大の招聘はジャンバティスタ50歳、1790年に受けたローマ教皇庁からのものでした。
パルマ公国の領主、フェルディナンド侯爵はこのローマ教皇庁からの招聘を聞いて、改めてジャンバティスタの才能を認識し、印刷工房の拡充や従業員の増員、ジャンバティスタの待遇アップなど、様々な厚遇策を弄して彼を慰留したことは言うまでもありません。
ローマ教皇庁からの招聘は受けなかったものの、このことがきっかけになったのか、ジャンバティスタはそれまでの怠惰な生活から目が覚めたかのように、活字父型彫刻師とタイポグラファとしての活動を再開します。
1790年以降になってジャンバティスタが作った王立印刷所の新しいローマン体は、冒頭にも書いたボドニの原型となるものでした。
1791年、それまで仕事一筋で独身を通してきたジャンバティスタも51歳です。この年に彼は母親と同じ名前でパルマ生まれのパオラ・マルゲリータ・ダッラリオと結婚します。
1811年、71歳になったジャンバティスタはフランスのナポレオン皇帝とその妃マリー・ルイーズとの間に生まれたナポレオン二世の誕生を祝って『現存するたったった一冊の、最も美しい本』と称賛された本を作って皇帝に献上します。
それは「ローマ国王の両親に捧げるタイポグラフィと絵画による聖遺物」と言う長い表題のついた、彼がたった一冊だけ作った超豪華本でした。
この本は現在もフランス国立図書館に大切に保管されています。
晩年のジャンバティスタは美食による痛風と難聴に苦しめられながらも、彼の印刷事業者としての集大成「マニュアル・タイポフラフィコ(タイポグラフィの手引き)」を上梓すべく最後の力を振り絞ります。
しかし、力およばず、1813年11月30日、彼はついにその完成を見ることなく73年間の生涯を閉じます。今から207年前のことです。
マニュアル・タイポフラフィコはジャンバティスタが亡くなってから五年後の1818年に、未亡人マルゲリータと職工長ルイジ・オルシ・カンパニーニ達の手によって完成され、パルマ公国のマリア・ルイジャ王妃に献呈されたそうです。
ジャンバティスタ・ボドニが生涯に作った活字書体はローマン体にとどまらず、百におよぶ外国語書体や千三百にもなる装飾活字があり、その活字父型は五万五千本以上にもなるそうです。
以上、参照した資料を元にらくら子が想像を膨らませて再構成したジャンバティスタ・ボドニの生涯でした。
* 1)ステム
文字の縦画部分。Tの二画目のような縦の部分。
* 2)ブラケット
ギャラモンのようなオールド・ローマン体で、バーとステムが接する部分に作られた小さなカーブ。
* 3)バー
文字の横画部分。Tの一画目のような横の部分。
* 4) セリフ
ステムやバーの端につける小さな飾り。
* 5) カトリック教会布教聖省
ローマ教皇庁の聖省のひとつ。非カトリック国における宣教と福音化およびそれにともなう教会の活動を司る。1967年以降の同組織の名称は福音宣教省。
* 6) 活字父型
活字の鋳型となる母型を作るために彫る原寸大の活字の原型。
* 7)アラビア語
西アジア一帯、中央アジア、インド、東南アジア、中国の一部、北アフリカ一帯、アフリカ東部海岸など広い地域で使われているアフロ・アジア語族の言語。
表記に使われるアラビア文字は右から左に向かって書き進められる。ごく一部の例外を除いて表記される文字は全て子音。
使用される国・地域によってわずかだが文字数が異なる。ラテンアルファベット(ローマ字)に次いで使用人口が多い。
* 8)スラブ語
スラヴ語と言う名前の言語が存在するわけではなく「スラヴ祖語」と呼ばれる祖先とも言える言語から枝分かれした多数の言語を含んでいる。
具体的には、ロシア語、ポーランド語、チェコ語、ブルガリア語、マケドニア語、クロアチア語など。それぞれは元となる言語の方言のような関係にある。
ロシア語やブルガリア語、マケドニア語はその表記にキリル文字を、ポーランド語やチェコ語、クロアチア語はラテン文字を使用している。表記文字は違っても音声はお互いによく似ている。
* 9)コプト語
古代エジプト時代(紀元前3000 - 紀元前30)からイスラムの征服によってエジプトがアラブ化されるまでの期間、エジプトで用いられていた言語。
表記はエジプト文字(ヒエログリフ)だがプトレマイオス朝(紀元前305 - 紀元前30)になってから著しくギリシャ化が進み、エジプト文字を捨ててギリシャ文字を利用するようになる。
これにエジプト固有の発音を表すためにヒエログリフから作られた七文字を追加したものがコプト文字。
* 10) チベット語
チベット自治区を中心に青海・甘粛・四川・雲南、さらにはパキスタン・ネパール・ブータン・インドなどの一部地域で使用されている。方言も多いがチベット諸語の話者数は約800万人と推定されている。
チベット文字は北インドで興ったグプタ朝(320 - 550)で発達したグプタ文字がその起源と言われていおり、これをチベット語の発音に合うように工夫したもの。
* 11) モンゴル語
モンゴルと中国内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区で使用されている。
モンゴル文字はアムラム文字を起源とするウイグル文字に由来する。左から右へ改行する縦書きで、一つの文字が単語の語頭、語中、語尾で形が変化する。
ただし、モンゴルだけは清朝から独立してから20年後の1941年に、自国語の表記をモンゴル文字に代えてキリル文字を採用し現在に至っている。
【人命・地名などの原語】
ボドニ(Bodoni)
ジャンバティスタ・ボドニ(Giambattista Bodoni)
サルッツオ(Suluzzo)
フランチェスコ・アゴスチーノ・ボドニ(Francesco Agostino Bodoni)
パオラ・マルゲリータ・ジオリッティ(Paola Margherita Giolitti)
ジアンドメニコ(Giandomenico)
フリードリヒ二世(Friedrich II)
マリア・テレジア(Maria Theresia)
トリノ(Torino)
フランチェスコ・アントニオ・マイアレッセ(Francesco Antonio Meine Alesse)
コンスタンティノ・ルッゲリ(Constantino Ruggeri)
スピネリ (Spineri)
パルマ公国(Ducato di Parma)
パオロ・マリア・バチャウディ(Paolo Maria Paciaudi)
パオラ・マルゲリータ・ダッラリオ(Paola Margherita Dalario)
【参考資料】
欧文書体百花事典 組版工学研究会編 朗文堂 2013年刊
ボドニ物語 田中正明著 印刷学会出版部 1998年刊
タイポグラフィの基礎 小宮山博史編 誠文堂新光社 2010年刊
世界のことば小事典 柴田武編 大衆館書店 1993年刊
世界の文字の図典 世界の文字研究会編 1993年刊
活字の玉手箱 明朝体活字の開発 小宮山博史著
・小宮山博史著「活字の玉手箱」はこちら
タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
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mk88氏
PROFILE●1942年東京都生まれ。1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
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