連載コラム
2020年06月19日

ぬらくら 第110回「言文一致体までの道のり」

中国古代、殷代後期から末期(紀元前14-11世紀)にかけて、相前後して現れた卜占の甲骨に刻まれた甲骨文字と、祭祀の青銅器に鋳込まれた金文は、未だ音声言語(話し言葉)を反映していない神聖な表記文字でした。

甲骨や青銅器のようなモノ(記録媒体)の上でのみ存在した甲骨文字や金文ですが、やがて音声言語との結びつきを獲得し、神聖域から世俗域へとそのありようが移り、甲骨や青銅器から離れて、竹簡や印章、貨幣などにも記されるようになります。

政治や経済活動の中で用いられるようになった文字は、もはや卜占や祭祀器などと共にあった神聖なものではなくなり、世俗の情報を伝える媒体としての意味と役割を持つようになります。

竹簡や木簡などに記される文字は刻まれたり彫られたりした文字とは異なり、実用を優先する故に簡略化が進みます。
特に文書行政が盛んだった秦では、書写のための実用書体が発達して隷書(秦隷)が生まれます。
他方で金文の流れを受け継ぐ儀礼的な書体としての篆書がその系譜を守ります。

この二つの書体は秦による諸国統一によって中国大陸における規範的な書体としての地位を確立します。

一方、音声言語と結びついた文字の多様化は必然でした。
中国大陸各地に伝わって行った文字は地域による分化が起こり、地域毎に異なる音声言語との対応によって混乱が生じます。
そして一つの文字が地方によって異なる意味で用いられる、逆に言えば、同じ意味を示す文字が地方によって異なるという混乱が生じます。
当然、文書行政を重視した秦にとってこれは大きな不都合です。

そこで秦の始皇帝は、各地の言語との対応によって多様化してしまった書記言語を統一します。これが小篆 (* 1) です。
始皇帝は文字の統一は行いましたが音声言語の統一は行いませんでした。これは音声言語よりも書記言語である文字を重視したことの表れでしょう。

小篆はすぐにその形を崩し始めます。
大量の事務処理を行う必要があった秦の行政吏は、複雑な形で書きにくい小篆を走り書きするようになります。
その結果小篆の形の単純化・簡素化が進み、やがて隷書が生まれることになります。

以降、大ざっぱに言えば漢代に入り隷書から草書、行書、楷書が生まれていき、今日にいたります。

中国の漢書藝文志 (* 2) に『蒼頡(そうけつ)篇』についての次のような記録が残っているそうです。

『蒼頡篇は古字が多く一般の教師にはその読み方が分からなかったが、前漢の宣帝(在位紀元前74 - 紀元前48年)の時に正しく読める人を見つけ出して、張敞(ちょうしょう)がその読み方を授かり、それを伝えられた杜林が訓故 (* 3) を作った。』

後に、出土した残簡から復原された蒼頡篇の冒頭には『蒼頡が作った書はつとめて諷誦し日夜怠ってはならない』とあるそうです。

諷誦は声を出して読むことですから、漢字は音読と共にあったことが窺えます。

さらに藝文志は、地方の郡が中央からの伝達を受けるときも『皆で声を出して読み、これにより字の読めない者にも内容を熟知させ、同時に儀式としての威厳と体裁を保って命令の徹底を図る』ともあるそうで、ここでも諷誦が重視されている様子が分かります。

中国でのこうした記録を踏まえて日本の状況を見てみましょう。

日本に漢字が入ってきた時期は定かではありませんが、一世紀頃ではないかと言われています。
日本の漢字利用は当時の中国・韓国などの漢字圏と外交関係を結ぶことで、自国の言葉を表すためではありませんでした。

やがて漢字を利用し始める日本の音声言語は、中国の書記言語である漢字とは動詞と目的語の語順が逆になるなど統語法(シンタックス)が異なるために、これを日本語として読むための工夫が発展して訓読が生まれます。また日本語を文字化するためには書記法も工夫され、古事記に見られるような変体漢文 (* 4) も生まれます。

日本語(音声)を表記するために漢字の音(読み)だけを利用して生まれたのが万葉仮名 (* 5) で、漢字をそのまま仮名として利用しますが、この仮名は漢字の草書化にともなって草仮名 (* 6) へと変化していきます。草仮名は音声表記のために生まれた漢字であると言うこともできます。

ここで注意しておかなければならないことは日本語の草仮名による表記が、書記言語(文字)と音声言語(言葉)との直接性を担保したということです。
そして草仮名が和、漢字が漢という書記の世界が生まれます。

草仮名から平仮名が生まれ漢字平仮名交じり文が誕生します。

元明天皇の時代の712年に成立したという古事記 (* 7) には『日本に最初にもたらされた書物は応神天皇の時代 (* 8)で、論語と千字文だ』と書かれているそうですが、これは伝承の域を出ない話しのようです。

しかし、論語も千字文も朗誦(声高に読むこと)された書だったとされていることから、この頃既に識字と朗誦は表裏一体だったことが推測されます。

日本において漢詩・漢籍の読み書きが盛んになったのは近世後期から近代にかけてで、当時盛んになった各地の学問所や藩校で子供たちに徹底して漢籍の素読 (* 9) を指導します。

明治以前、公的な文章は訓読体ではなく漢字平仮名交じりの候文でした。また、読み書きを習うための教本である「往来物 (* 10)」においても、候文が基本とされ漢字平仮名交じりの文が選ばれました。ということは日用から公用にいたるまで、書き言葉の標準は候文であったと言うことができます。

書記体の近代化を目指した文部省は『男女を通し同く書下しの体裁』に改めることを目指します。ここに言う書下しの体裁とは、読む(話す)順のままに字を書くということです。 候文には『以手紙致啓上候』などのような転倒語が多いのですが、これを『一筆啓上致し候』のように書き下した文章に改めるということです。

こうした動きを受けて、五箇条の御誓文が既にそうであったように、詔勅も漢文から訓読体への移行が進みます。
さらには法令を初めとして、公的性格の強い文章は新聞などのメディアも含めて、その殆どが漢字仮名交じりの訓読体を採用するようになります。
そして曲折して読む文体から直読する文体への転換が一気に進みます。

近世後期以前は様々なバリエーションがあった訓読体も近世後期に入って定型化が進み、その読み方も安定してきます。
明治期に入ると訓読体に音読語が多数採用されるようになり訓読体の定型化がさらに進みます。

こうして話す(読む)とおりの語順で書かれることが定着していきます。

そして二葉亭四迷の「浮雲」登場です。
彼が「浮雲 (* 11)」で示した言文一致体が今の話し言葉のままに記述する書記体へと続き、今日にいたります。

* 1) 小篆
中国最古の石刻「石鼓文」に用いられた書体・大篆を簡略化したものだが、小篆はすぐに吏員の手によって単純化・簡素化され隷書へと変化して行くことになる。
大篆は西周の宣王(在位紀元前828 - 782)の時代、太史の籀(ちゅう)が公式文字・籀文を定めた際に編纂した書物の名であると伝わっている。

* 2) 漢書藝文志
正史『漢書』の図書目録部分。

* 3) 訓故
古代の言語を解釈すること。

* 4) 変体漢文
日本語を漢文に倣って漢字だけで綴った文。正規の漢文にはない用字・語彙・語法を含む。平安時代以降、公私の記録や男子の日記・書簡などの文体として発達した。

* 5) 万葉仮名
日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた文字のこと。万葉集の表記が代表的であるために万葉仮名と呼ばれている。

* 6) 草仮名
万葉仮名を草書体で書いたもの。

* 7) 古事記
元明天皇の時代の712年に成立したという。万葉仮名のように漢字を無理やり和文で読ませるような文体で書かれている。

* 8) 応神天皇の時代
古事記によれば応神天皇元年 - 同41年 (270 - 312)だが、実際は四世紀から五世紀といわれている。

* 9) 素読
意味を考えないで文字だけを声を出して読むこと。

* 10) 往来物
平安後期から明治初頭にかけての往復書簡など手紙類の形式をとって作成された初等教育用教科書の総称。

* 11) 浮雲
青空文庫で読むことができます。
https://www.aozora.gr.jp/index.html

【参考資料】
漢字世界の地平 齊藤希史著 新潮社新潮選書 2014刊
日本の漢字1600年の歴史 沖森卓也著 ベレ出版 2011年刊
漢字と日本人 高橋俊男著 文藝春秋文春新書 2001年刊

タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
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ダイナコムウェア株式会社
コンサルタント
mk88氏

PROFILE●1942年東京都生まれ。1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
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