ダイナフォントストーリー
2020年04月10日

ガンブルという人物 連載第三回

著:蘇精(元台湾雲林科技大学漢学資料整理研究所教授)/日本語訳:宮坂弥代生

三、愚直な対人処世


 ガンブルの非凡な独創性は、中文印刷技術に数多くの傑出した成功をもたらし、さらには理財の才覚により、美華書館にも自分にもかなりの金銭的利益をもたらした。彼の来華から10年の1868年までに、美華書館は中国で最も大きな西洋式印刷所兼活字製造所となっていたが、ロンドン会の墨海書館は衰退し2年前に閉館、英華書院も技術的な遅れにより競争力が低下し売却が検討され、ほかの小規模な印刷所は言うに及ばず比べようもない差があった。しかし、ガンブルと美華書館がさらなる高みへ邁進していたその只中、彼は1869年に離職し中国を離れる。これは決して彼の本意ではなく、激しい好悪の感情と無骨な言行の結果であった。
 ガンブルが中国にいた間、彼が心服していた唯一の人物はアメリカのラウリーである。ラウリーこそアメリカ長老伝道会で中文印刷を始め、美華書館の前身であるマカオ華英校書房からその運営に関わり、ガンブルは彼の募集に応じて来華した。2人の文通は頻繁で、細やかな配慮にあふれ、ほかの宣教師ではありえないやりとりが交わされた。ラウリーはガンブルより年長で、46歳にして長老伝道会秘書となり伝道会の仕事を掌握し、かつてはアメリカ合衆国の上院議員を務めた人物であったが、宣教師より地位が低いガンブルと積極的に関わり、ガンブルの様々な言動に対しても支持・協力を惜しまなかった。1860年に印刷所が寧波から上海へ移転する直前に、ガンブルが上海の宣教師に不満と怒りを抱き、仕事を放棄しアメリカへ帰国しようとしたときも、ラウリーは擁護にまわり、ガンブルが故意に提出した不当に高い給与の要求を、彼を中国に引き留めるために受理した。ラウリーのこの行動に、ガンブルはいたく心を動かされ、華花聖経書房と美華書館の仕事に全身全霊を捧げて報いた。ラウリーが1865年に80歳で伝道会の秘書を辞する際、ガンブルは彼に書簡を送っている。

  「あなたが引退されると聞き、宣教師でない私は、ほかの人とは違う感情を抱きまし
  た。宣教師の務めは教会の支援により果たされるものですが、私はずっとあなた以外
  に依るべき人を知りませんでした。あなたへの尊敬と信頼が私を中国へと導き、そし
  てあなたの献身と激励が私を職務に留まらせたのです。あなたからの励ましや指示を
  受け取るまで、実を言えば私は、あのように手紙を心待ちにしたことも、嬉しく手紙
  を読んだこともありませんでした。しかしこれからは、そのようなことはもうないで
  しょう。私はあなたの長寿を神に感謝します。現在、あなたが創業し手塩にかけた美
  華書館がどれほどの隆盛を極めているかはご存じと思いますが、この印刷所はまさ
  しくあなたの庇護のもとに生まれ成長したのです!」

  ラウリーはガンブルへの返信に筆を執った。
  「あなたの私への温情は、私の心に真の響きをもたらしました。あなたは中文金属活
  字製造の成功を私に帰しますが、私は本当にわずかな役割を担っただけで、もしあな
  たがこの大事業を引き受けなければ、どれほど困難であったかは言うまでもありませ
  ん。真の天分、才智、たゆまぬ努力があなたを成功に導き、あなたが造り出した五号
  上海活字フォントの完成は、数えきれないほど多くの中国人にとって大きな成果とな
  りましたし、あなたの人生をも大いに満足させたことでしょう。」

 この2通の書簡には、ラウリーに対するガンブルの尊敬と謝恩の情と、期待に応えてくれたガンブルに対するラウリーの喜びがあふれている。美華書館が急速に成長を遂げ、中国で最も成功した最大規模の西洋式印刷所兼活字製造所になることができたのは、ガンブルの独創的な経営をアメリカでラウリーが支えた、その共同の成果であるということができるだろう。
 しかしほかの人物とガンブルは、このような温かく礼節をわきまえた関係ではなかった。彼には、言葉を選ばず激高するという2つの大きな問題があり、書簡でも対面でも常に思ったことをそのまま言い、言うべきか否か、どのように言うのが適切かは考慮しなかった。彼はラウリーにも何を言ってもよいと考えていたようで、書簡で常に人物批判を行ない、空理空論を長々と述べた。例えば彼はラウリーに宛て、独身宣教師は家族同伴の既婚宣教師よりすばらしい、なぜなら後者は費用がかかり、多くの時間と労力を家庭に割くため伝道に影響するからだ、と書いている。ガンブルは知らなかったようだが、当時欧米の各伝道会は、原則として既婚宣教師を派遣しており、独身の場合は派遣前に結婚することが推奨されていた。また彼の友人であった宣教師インスレー(Elias B. Inslee)と寧波の同僚たちの不和に関して、ガンブルは書簡でインスリーの肩を持ち、誇張した表現で、自分は寧波伝道所の歴史は「徹頭徹尾」諍いと不満の記録だと思っていると述べ、寧波伝道所の管理は一体どうなっているのか、と書いている。ラウリーは、寧波で起きている確執に対するガンブルの見解は間違いであると退け、開設当時から寧波伝道所の協調と能率は他の伝道所より勝っていたと返信した。
 上海に移ってからも、ガンブルは人物批評を続け、それは長老会と長老会宣教師やその仕事にまで及び、カトリックの宣教師を称賛することもあった。例えば彼はこう言っている。

  「本会の中国にある伝道所には大きな機械設備があり、多くの書籍を印刷し、多くの
  学校で授業をし、多くの建物を建てているが、直接民衆を教え導き福音を伝えること
  は少ない。…私が思うキリスト教伝道の障碍は2つあり、ひとつはとにかくお金がか
  かること、もうひとつは自己を律し私心を捨てた宣教師が少ないことです。」

  ガンブルはまた別の書簡でこのように主張している。
  「私は私たちの中国伝道の成功を阻む最も大きな要因は、宣教師が母国の生活様式を
  変えないために、中国人との間に大きな溝を作っていることだと考えます。そのよう
  な生活を維持している理由は、宣教師が家族を帯同しているからです。私は男性宣教
  師を単独でここによこせと言っているのではなく、宣教師の使命が困難であるがゆ
  え、
宣教師に同行するのは女性ではなく男性であるべきだと言っているのです。私は
  キリ
スト教伝道の方法が総じて女々しい(womanish)ものになっていることを本当
  に危
惧しています。克己殉公であるカトリック宣教師、進取果敢な商人に対して恥ず
  かし
さを覚えますし、私たちは彼らから見下されているのです。」

 以上はガンブルの宣教師批判のごく一部である。またラウリーに対し、伝道方法に関する10の問題を列挙し問いただした上で、最後に彼は「率直に言って、キリスト教伝道の仕事を理解すればするほど自信を失います」とはっきり失望さえ示した。たとえこれが善意に基づいた改善への願望によるものであったとしても、彼の批判の内容・言葉・語気は、分不相応なものであろう。
 ガンブルは書簡中で指摘する以外にも、直接、面と向かって他人を批判し、騒動と衝突を引き起こした。1860年に華花聖経書房が寧波から上海へ移転しようとしていた時、両地の宣教師が行なった議論の中で、上海の宣教師が移転を勝ち取るために、ガンブルなしでも印刷所を運営できると発言したことがあった。しかし後にガンブルがアメリカへ帰国しようとした時には彼らに反対されたため、彼は上海の宣教師は言うことがすぐ変わり自分勝手極まりないと批判し、辞職してアメリカへ帰ると言い放ち、上海の宣教師が彼と話し合おうとするとわざと手こずらせ、年俸を600ドルから1,800ドルに上げ、自分の身分を一般職員に変更するよう要求した。幸い上海からの緊急報告を受け、才能を惜しんだラウリーが、引き留めるためにまず彼の条件を受け入れ、ガンブルの激高がおさまるのを待つと、彼はようやく、宣教師の給与よりはるかに高い1,800ドルを受け取ることはできないと表明した。
 印刷所が上海に移転した後、ガンブルは上海伝道所に、小東門外の美華書館の工場を新しく建てるために、カルバートソンが住んでいる虹口の不動産を売却するよう強く要求した。しかし長老伝道会は太平天国の戦況の行方がわからないことから、すでに建設延期の指示を出しており、加えて上海の不動産価格が急騰していたことから、カルバートソンも虹口の不動産価格のさらなる値上がりを待つべきで、早い売却は逆に損失と考えていた。しかしガンブルは少しも待つ気はなく、カルバートソンは自分勝手で、自分の住まいの都合だけを考え、美華書館の発展を犠牲にしていると責め続けた。ガンブルの不満は相当なもので、ラウリーに訴えたほか、1,800ドルの年俸を条件として示し、この高給がかなわなければ上海伝道所から出ていくといきり立った。カルバートソンはガンブルに抗えず、彼の要求に歩み寄り満足させるほかなかった。
 ガンブルと上海伝道所のもう1人の宣教師ファーンハムとはさらに大きな衝突があった。2人は1865年頃から不仲で、ラウリー宛ての書簡には常にファーンハムに対する様々な批判が書かれ、伝道所の会議でも互いにボイコットし合った。前述した1860年の上海移転の際、ガンブルが癇癪を起こして高給と身分変更を要求し、彼の地位は上海ミッションの職員になったが、伝道所の会議に参加する資格はなかった。問題は、彼がこの点に気づかず、ほかの宣教師は気づいていたが反対せず、会議に出席し続け、討論に参加し、採決したり輪番で議長を務めたりしたことだった。ガンブルとファーンハムが敵対関係に陥ると、ファーンハムはガンブルに会議に出席しないように求めた。これはガンブルには晴天の霹靂で、存在を真っ向から否定されるような要求に激怒し、衝動的に拳を振り上げファーンハムに殴りかかるような恰好になった。ガンブルはこの状況を覆すために、ファーンハムが自分を誹謗したことを含む彼の6つの行為を教会に訴えたが、時効か、もしくはガンブルが自分の過失も認めたためか、この訴えは不成立に終わった。ガンブルは全面的に敗北し、憤りのあまり辞表を提出した。当時ラウリーはすでにこの世を去り、擁護し慰留する者はおらず、自らの衝動的で軽率な決定によって彼は美華書館を離れることになった。

 

宣教師の評価


 ガンブルが離職してしばらくの間、彼と美華書館は、彼を良く知る長老会宣教師たちの間でしばしば話題に上った。これは彼らのガンブル個人と美華書館に対する評価として、注目に値する。例えば山東のマティアー(Calvin W. Mateer)は、ガンブルは独自の方法ですばらしい仕事を完成したが、常に人に「無礼をはたらく」性質がある。ただし彼が美華書館で成しえた仕事と、それにより美華書館が中国の印刷出版分野において他をはるかに引き離したことは否定できない事実である、と書いている。
 杭州のドッド(Samuel Dodd)は、ガンブルの短気には付き合いきれないし、一貫性もない。彼はいつも、宣教師は清貧でなくてはならないと言っていたが、自分は上海で最も裕福な者の1人であり、未開の内地で仕事をする宣教師に対して大きな不満を抱いていたが、内地に入って豪華な美食をあきらめるつもりはないと言っていた。それでも彼は、美華書館を大きくし、真に価値のある仕事をし、長老会は彼の仕事を誇るべきものと認め、多くの在華外国人も高く評価している、と書いている。また1年後ドッドは、直すことができない癇癪の是非は置くが、彼は今日聖人として讃えられても、明日はまったく違う評価に転じてしまう人物だ、と書いた。しかしドッドはガンブルを正直なキリスト教徒として信頼しており、2人は会うたびにカトリックについて意見を戦わせる間柄で、議論が終われば良い友人であった。
 寧波の宣教師バトラー(John Butler)は1870年末から1871年春までの3カ月あまり、上海で一時美華書館の責任者を務めた。彼は印刷や出版については無知であったが、美華書館到着後、ガンブルの才能が最高の評価を与えられているのは不思議ではない、なぜなら美華書館の運営には、印刷の専門的な技術責任者、会計・事務の担当者、さらにすべてを統括する頭脳明晰で心優しく辣腕な宣教師の3名の監督者が必要だからであり、ガンブルが責任者を務めた美華書館は長老会の誇りで、中国を最も益する団体のひとつであると書いている。

 

結び


 独創性に満ち溢れ管理能力に長けたガンブルは、華花聖経書房と美華書館の経営で卓越した成功をおさめ、近代中国の印刷・出版技術と事業の発展に大きな足跡を残した。彼は離職当時まだ39歳であったが、すでに名を成し、その業績はあまねく高く評価されていた。しかし愚直で粗野な個性が過ぎ、突発的な事件で突然離職し、中文印刷にさらなる貢献を果たせなかったことは実に惜しまれる。

 

「ガンブルという人物」原文は中国語となります。今回、宮坂弥代生さまのお力添えにより日本語に翻訳頂きました。ご協力に一同より感謝申し上げます。

※原文では脚注で出典が示されておりますが、レイアウトの都合により今回の連載では掲載を見合わせました。

 
蘇精氏写真

著者近影

● 蘇精
ロンドン大学図書館学哲学博士課程を修了。
元台湾雲林科技大学漢学資料整理研究所教授、
清華大学、輔仁大学の非常勤講師を歴任し、退職後も引き続き近代中国とヨーロッパの文化交流史、特に19世紀における来華宣教師に関する研究を行っている。
著書に《上帝的人馬──十九世紀在華傳教士的作為》、《中國・開門!馬禮遜及相關人物研究》、《基督教與新加坡華人1819-1846》、《鑄以代刻──傳教士與中文印刷變局》、《清季同文館及其師生》、《林則徐看見的世界:澳門新聞紙的原文與譯文》、《西醫來華十記》などがある

● 宮坂弥代生
専門は近代活版印刷史。実家が活版印刷業を営んでいたため研究を志す。
テーマは美華書館をはじめとするミッション・プレスの活動と技術伝播。
現在、明治学院大学非常勤講師、中央大学政策文化総合研究所客員研究員。
趣味は風景印と切手蒐集。

ガンブルという人物
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