ダイナフォントストーリー
2020年02月10日

ガンブルという人物 連載第二回

著:蘇精(元台湾雲林科技大学漢学資料整理研究所教授)/日本語訳:宮坂弥代生

二、理財の才覚

 姜別利(ガンブル)という漢字表記は、もとは姜闢理で、1930年代に賀聖鼐が姜別利と字を当てそれが踏襲されたため、姜闢理のほうはほとんど忘れられてしまった。しかし、西洋資本主義社会出身のガンブルの思考と手段に、「別利」は似合わない。彼は公私を問わず頭脳明晰、臨機応変で、利潤を追求し、実際に多くを手に入れた。
 職務上、ガンブルは財源を開拓し支出を抑えることに注力した。しかし彼が華花聖経書房と美華書館で行なった2つの方法は、それぞれの状況に応じたものだった。寧波では職に就いたばかりということもあり、財源を開拓するような機会はなく、華花聖経書房の支出を抑えることに重きを置いた。主な対象は工賃・紙・装訂の3つである。工賃について彼が、職人の月給と印刷量に対する植字字数を分析し、木版印刷の仕事量に対する工賃と比較したところ、華花聖経書房の活版印刷は木版印刷を行なった場合に比べ、わずかな経費節減にしかなっておらず、木版に取って代わるような競争上の優位性はほとんどないことがわかった。そこでガンブルは、職人の合意を得た上で、工賃を固定給から字数に基づいて支払うように改めた。これにより生産量が上がり、職人もたくさん働いて多くの収入を得たいと思えるようになり、ほかの宣教師たちの称賛も得られた。紙は華花聖経書房の最も大きな支出で、原価の半分以上を占めていた。これは寧波が紙の生産地ではなく、仲買商を通じて購入していたことが大きな原因であったため、ガンブルは産地の福州から直接購入するように改め、価格を下げた。また、華花聖経書房は装訂を外注していたが、ガンブルは就任前年度(1858)の代金476ドルは高すぎると考え、交渉の結果1859年度には366ドルに下がり、110ドル減らした。1860年度は再び422ドルに増加したが、これは華花聖経書房の生産量が前年(1859)の約730万ページから約930万ページへと、200万ページ増加したためであろう。
 経済活動が盛んで交通至便な上海に印刷所が移転してからは、ガンブルが美華書館を経営するための財源を開拓する機会は大いに増したが、アメリカは1861年から65年まで南北戦争で、長老伝道会の収入は減少し、中国伝道の経費にもその影響があった。しかし美華書館は独自に財源調達を行なうことができ、母体の伝道会に依存する経費を大いに減らし、ガンブルも商才をいかんなく発揮した。上海伝道所経理担当の宣教師カルバートソンは1862年に「私たちは印刷に代わる大きな収入を得ていますが、これはガンブル氏の経営によるところが大きく、私は彼の成功は間違いないと考えています」と報告している。
 美華書館の大きな収益は印刷受注と活字販売の2つであった。長老伝道会、アメリカ聖書協会、トラクト協会の三者に対しては、原価かほとんど原価に近い薄利で代金を算出したため、それ以外の印刷物の代金とは異なっていた。そのほかの宣教会や宣教師が委託した宗教的な書籍の印刷も、やや高めに算出していたが原価に近かった。宣教師による中国や日本に関する著書は、それより高い代金を徴収していたが、そのような著書も間接的には伝道事業の助けとなることから、大きな割引がなされた。ガンブルが最も高い料金を徴収したのは、商業出版物や文書、広告や図表などの印刷物であった。
 美華書館の印刷受注の利潤については、カルバートソンが1862年7月の例を挙げ、ガンブルが徴収した代金1,150ドルのうち、利潤は少なくとも700ドル(60%)であると説明している。ガンブルは伝道書の印刷に影響を与えないという原則の下、慎重に印刷受注に応じていたが、次々にくる仕事に応じて職人を増やし、ラウリーには何度か印刷機を送ってほしいと伝え、顧客の様々な要求に応えるために、アメリカから英文活字と装飾活字を仕入れ書体を増やすなどした。その結果美華書館の印刷収入は大きく増加し、1862年の673ドルから1869年の5,374ドルへと、8年間で8倍になったが、これでもガンブルは伝道書の印刷に影響が及ばぬよう、商業性の高い印刷の受注を控えており、そうでなければ受注収入はさらに多くなっていたことだろう。
 印刷受注以外にもう1つ、美華書館独自の財源として挙げられるのが活字販売であるが、ガンブルは1865年にようやく活字販売を始めた。その理由は、彼がかつて電胎法で英華書院の活字2種類を複製したように、美華書館の活字が複製されることを危惧したためである。1865年7月、ガンブルはラウリーに宛て、自分は活字を販売したくない、美華書館の活字を手に入れた誰かが複製し、美華書館が母型を売り出す機会が「奪われる」(deprive of)ことだけが心配なのだ、と書いている。とはいえ英華書院がこの年、上海道台の丁日昌にまとまった数の母型を低価格で販売したことから、ガンブルも美華書館の母型を丁日昌に販売するための方策を講じ、競争力を保つため、英華書院と同額まで価格を下げた。1865年からガンブルが離職する1869年までの4年間、美華書館の活字の販売額は681ドルから一気に5,992ドルまで9倍近く増加した。これは印刷受注収入の伸びより顕著で、販売活字は中・英・日の3言語を揃え、販売先も中国から日本・アメリカ・ヨーロッパに拡大した。
 印刷受注と活字は美華書館の重要な財源となり、1868年4月にガンブルは、過去半年の美華書館の支出約6,000ドルのうち、5,000ドルが印刷受注と活字販売により賄われ、わずか1,000ドルが長老伝道会からの経費によるものと報告した。また4カ月後にガンブルは、当年の美華書館の支出のうち、約2,500ドルが長老伝道会から、8,500ドルが印刷受注と活字販売等自分たちが調達した財源によるものとした。すなわち、美華書館の経費の大部分は自力で工面したもので、これは美華書館がガンブルの経営により確実に利益を上げ、長老伝道会への依存が大幅に減少したことを示している。
 ガンブルの抜け目ない利潤の追求は、自らの財産を増やすためにもはたらいた。1860年代初頭の上海は、太平天国の乱の影響で、江南の住民が大挙して上海に避難し、土地を造成し住宅を建築したためその価格はうなぎ上りで、多くの華人や外国人が不動産投資を行なったが、ガンブルもそのうちの1人であった。彼は上海到着後すぐに上海のこの状況を理解し、1862年11月、ラウリー宛の書簡で土地投資に携わることを伝え、投資の報酬により給料が不要になれば伝道会の負担を軽減できるし、これは自分の余暇活動なので勤務時間を使うこともないと書いている。そして土地投資が前途有望であることを証明するために、上海の外国人には投資で年収が50,000銀両にもなる人がいる、という例を挙げているのは興味深い。  1863年1月、ガンブルは再び土地投資の件に言及し、すでに賃貸に出している美華書館の近くに買った土地つき建物は、毎年地価の3分の1の賃料収入があるので、土地は借金で買ったものの3年で返済でき、その後は毎年3,000銀両の賃料が得られる見込みであるが、自分の生活費には多すぎるので、その時には長老伝道会の給料は必要なくなり、「私自身と私の所有物はすべて美華書館の利益のために捧げる」ことを決めた、と書いている。ガンブルの土地商いは手広く、賃貸のほか売買も行ない、わずか1年で有言実行を果たし、1863年10月の書簡でラウリーにこのように書き送った。

  「財神は当地上海で祀られている神で、私とも縁があるわけですが、私は財神が私の
  信念を惑わせることがないようにと願っていました。私はあなたに、土地を購入し実
  入りが良いこと、それにより自分の生活を賄う収入を得られれば、伝道会からの給与
  は不要であると書きました。喜ばしいことに昨年それがかない、私はちょうど自分に
  かかる費用に十分な金額を経理担当者に渡したところです。来年もそのようにした
  いと思いますし、土地購入のために借りたお金を清算した後は、自分の生活を賄う
  だけではなく、2、3名の宣教師の費用も負担できればと考えていることをご報告い
  たします。」

 ガンブルは自分が上海の外国人と同様に富の追求を行なっていることを素直に認め、しかし自分は決して守銭奴ではなく、約束を実現するために行なっているのであり、継続して献金金額も増やしたいと考えていた。その後ガンブルは、幾人かの宣教師の費用を負担したいという希望は実現できなかったものの、少なくとも給与は受け取らず、ファーンハム(John M. W. Farnham)の清心書院へ50ドル、蘇州で伝道していたドイツ人シュミット(Charles Schmidt)に350ドルの献金している。そのほか、上海で同居していた妹の生活費を長期間負担し、自分が住んでいた長老会の宿舎を4、500ドルかけて修理した。これらはすべてガンブルの不動産事業が相当な利益を生んでいたことの証で、『上海道契』には彼が少なくとも十二筆の土地を買い、それらは17.4 ムー (1ムー =0.165エーカー=667.73平米)余り、価格にすると26,000銀両、そのうちの一筆は1862年に長老会上海伝道所から買った南門の土地で、1ムー以上あったという。彼は自分の事業以外に、友人丁韙良に売地を斡旋し、彼はそれにより毎年2,000ドル以上の収益を得た。のちに辞職し中国を離れてからも、ガンブルは生活に余裕があり、結婚後妻子とともにヨーロッパに数年滞在し、アメリカに戻り邸宅を構えることができたのは、上海時代に土地に投資し大きな利益を得た結果なのである。

連載第3回へ続く

 

「ガンブルという人物」原文は中国語となります。今回、宮坂弥代生さまのお力添えにより日本語に翻訳頂きました。ご協力に一同より感謝申し上げます。

※原文では脚注で出典が示されておりますが、レイアウトの都合により今回の連載では掲載を見合わせました。

 
蘇精氏写真

著者近影

● 蘇精
ロンドン大学図書館学哲学博士課程を修了。
元台湾雲林科技大学漢学資料整理研究所教授、
清華大学、輔仁大学の非常勤講師を歴任し、退職後も引き続き近代中国とヨーロッパの文化交流史、特に19世紀における来華宣教師に関する研究を行っている。
著書に《上帝的人馬──十九世紀在華傳教士的作為》、《中國・開門!馬禮遜及相關人物研究》、《基督教與新加坡華人1819-1846》、《鑄以代刻──傳教士與中文印刷變局》、《清季同文館及其師生》、《林則徐看見的世界:澳門新聞紙的原文與譯文》、《西醫來華十記》などがある

● 宮坂弥代生
専門は近代活版印刷史。実家が活版印刷業を営んでいたため研究を志す。
テーマは美華書館をはじめとするミッション・プレスの活動と技術伝播。
現在、明治学院大学非常勤講師、中央大学政策文化総合研究所客員研究員。
趣味は風景印と切手蒐集。

ガンブルという人物
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