ダイナフォントストーリー
2019年10月24日

ガンブルという人物 連載第一回

著:蘇精(元台湾雲林科技大学漢学資料整理研究所教授)/日本語訳:宮坂弥代生

序論
 

 ガンブル(William Gamble, 1830-1886)は華花聖経書房と美華書館を運営した、近代中国印刷史上の重要人物である。彼が所属したアメリカ長老会の档案(保存文書)には、彼が書いた直筆の書簡、印刷物、彼宛ての書簡、彼について言及した書簡等が多く残る。本論ではそれらの史料から、ガンブルの仕事とその成功に密接に関係する彼の個性・仕事の仕方・人付き合い・他者から見た評価等、どのような人物であったかを中心に論じ、彼が手掛けた中文活字の技術的な成果には重点を置かない。史料から明らかになったのは、独創性に富み、頭の回転が速く利に敏いが、対人処世に関しては愚直という彼の3つの性質で、これらにより彼は印刷業で傑出した成果を上げたが、怒りにまかせて辞職し中国を去るという結果も招いた。


一、非凡な独創性
 

 非凡な独創性はガンブルの最も顕著な性質であり、彼が中文活字技術において未曽有の成功をおさめた重要な要因であるといえる。彼は1858年の来華まで中国とは何の接点もなく、彼が中国を意識したのは、長老会海外伝道局の秘書ラウリー(Walter Lowrie)から在華伝道と中文印刷の任務を告げられてからのことだろう。しかしガンブルはすでに身につけていた印刷に関する専門性を、来華後すぐに中文印刷へ応用し、電胎母型・常用文字の調査・活字棚の考案・新たな活字製造法の発明等、これらの大きな成果をすべて短期間で実現した。このようなことは非凡な独創性がなければ到底不可能である。
 しかもガンブルは寧波で華花聖経書房の仕事に着手する前から、ひとつの新たな計画を提案し準備までしている。1858年6月15日、中国へ向かうガンブルの乗った船は香港に到着し3週間あまり停泊したが、彼はその機をとらえほぼ毎日、ロンドン伝道会が香港に開設した印刷所英華書院を視察し、英華書院の宣教師ジョン・チャーマーズ(John Chalmers)と中国人の黄勝と熱心に話し合った。そのころ英華書院は、西洋式の中文活字の生産と印刷では当代随一で、ガンブルはこの訪問により西洋式印刷術による中文印刷の実情をかなり理解し、ラウリーに宛てた長文の書簡では英華書院の活字を詳しく描写している。また彼は、英華書院の活字を購入し電気鍍金で母型(訳者注:電胎法による母型、電胎母型)をつくれば、華花聖経書房は少ないコストで英華書院の全フォントの母型を保有することができるというアイディアを出し、実際に英華書院の活字を購入し寧波に携えたのである。
 寧波到着の4カ月後、ガンブルは電気鍍金による活字製作の第一歩を踏み出し、1858年12月初めには英華書院の活字を使った電胎母型作成に成功した。実はガンブルより前、同様の実験はすでに1845年、46年に、寧波長老会伝道所の求めで華花聖経書房の印刷工コール(Richard Cole)と2名の宣教師マッカーティー(Divie B. McCartee)・カルバートソン(Michael S. Culbertson)が3人で電胎母型の実験を行なうも、失敗に終わっている。彼らは失敗の原因を材料と工具の不足に帰し、それ以上方法を改善せず実験をやめてしまった。その結果12年後、専門性と積極性を兼ね備え、独創性に富むガンブルが、中国で最も早い電胎母型を完成することになった。彼は直ちに英華書院に、漢字1つにつき1個の活字を注文し、電気鍍金で母型を作り、7、8年かけ英華書院の2つのフォントを複製した。
 そして信じられないことにガンブルは、寧波到着後ひと月足らずというまったく思いもかけない速さで2つ目の新計画に着手した。彼は1858年8月末、ラウリーに宛てて書いている。


「私はすでに私の中国語教師に頼み、授業外の時間に一冊の書籍に異なる漢字がどれだれけ出てくるかを調査してもらっています。もし何人かの教師がこれを行ない、私たちが出版したすべての本を調査することができれば、1つのフォントの各漢字をどれだけ鋳造する必要があるか、その正確な数を知ることができましょう。」


 電胎母型と同じく、最初に漢字の出現頻度を調査した人物もガンブルではない。1825年から26年にかけて、ロンドン伝道会の宣教師ダイア(Samuel Dyer)がモリソン(Robert Morrison)の中文聖書を調査し、彼はまた1827年ペナン伝道時に調査対象の書籍を13種に広げ、1834年に『重校幾書作印集字』(A Selection of Three Thousand Characters, Being the Most Important in the Chinese Language)を出版し、一揃いの活字を作るために必要な常用の漢字を3,000個挙げた。しかし、わずか3,000個では少なすぎたため、その後ダイアの活字をもとに作られた英華書院の活字は次第に増加し、1857年には5,584個に達した。ガンブルが来華し英華書院を視察したのはその翌年で、彼はダイアが調査した数と実際に使用される数には明らかに差があることを知り、各漢字の鋳造すべき数をはっきりさせるため、寧波到着からひと月足らずで漢字出現頻度調査に着手したに違いない。
 書中すべての漢字の出現回数を調査するのは時間も手間もかかり、最も多い時は3人を雇い調査していた。当初はガンブル個人が費用を負担したが、後に華花聖経書房の経費で行なえるようになった。ガンブルが編集し1861年に出版した『両種字表』(Two Lists of Selected Characters Containing All in the Bibles and Twenty Seven Other Books)は、28種のキリスト教関係の書籍、総字数116万字超に基づく調査結果である。出現回数が多い5,150字に、ロンドン伝道会の活字から850字を加えた合計6,000字が収録されている。ガンブルはこれが中文フォントに必要な漢字の数であるとし、それぞれの漢字はこの出現頻度に基づき適量を鋳造した。  
 一揃いの漢字の総数と各漢字の鋳造数の問題が解決し、次にガンブルが直面したのは、これらの活字をどのように収めたらよいかという問題だった。漢字は表音文字より桁違いに数が多く、配置が良くなければ文選・植字工は活字棚の間で奔命に疲れ、文選・植字の効率に重大な影響を及ぼすためだ。ガンブルはすでに、中国語教師に漢字調査を依頼したこと記した1858年8月末の書簡で、もし華花聖経書房の活字棚と棚に配する活字ケースをより良く並べることができれば、文選・植字の効率と印刷量を大幅に高めることができるはずだと指摘しており、またもや驚くべき独創性を示す。

 ガンブルの言う「より良い配置」はたちまち10カ月後に実現した。彼は1859年7月12日付の書簡でラウリーに、活字ケースの棚が植字工のまわり三面を囲み、職人は一歩も移動することなく、手を伸ばせば棚の十分の九の活字を拾うことができ、残りの活字も体の向きを変えればすぐに拾える、これまでとは違う棚と活字の配置をすでに設計したと伝えている。数カ月後、宣教師ランキンス(Henry V. Rankins)は新しい活字棚と活字配置を興奮気味に伝えた。


「幼い職工は立ったまま一歩も動かず、2日で1つの組版(form)を組み、またすぐ元 の位置に活字を戻すことができる。この職工は数カ月前に華花聖経書房に入り、組版も 始めたばかりだが、ほどなく彼は1日でこの作業を完成することができるようになるだろう。この幼い職工の仕事は、以前の活字棚で熟練の職工が3日かけて完成した作業量に匹敵する。」
 

 これはガンブルの3つ目の創造的な計画が成功したことを示すもので、彼の活字棚はのちに中国の印刷所の「標準」設備になり、その後も数十年使われ続け、1948年まで使っていた者さえいた。
 しかし、最も高く評価されているガンブルの独創性は、活字の製造法を金属製パンチ(punch)から木製パンチに代えたことだろう。15世紀に西洋で活版印刷が使用されて以来、製造工程はまず金属製のパンチを作り、銅製の母型を作り、それから活字を鋳造した。しかし文字数と筆画が多い漢字を金属製パンチにするのは時間ばかりかかりうまくいかない。そこでガンブルは創造性を発揮し別の方法を見出した。1860年6月のラウリー宛書簡にまず短い報告がある。「私はパンチ母型を作る新たな方法を考え出しました。原価はほとんどかからず、もし私の期待通り成功すれば、大きな出来事となるでしょう。」そして同年末に華花聖経書房が上海へ移転するまでの間に、ガンブルはこの新たな活字の製法に2回言及している。ガンブルが技術指導を行なった中国人職人が新しい一揃いの母型作成に着手し、低廉な原価に加え、小さく、外国人が彫ることのできない漢字の風雅な趣を備えた文字ができ、「柘植(黄楊)のパンチによる母型作成が実用となれば、中文活字印刷の新しい時代が始まるでしょう」と高らかに期待を表した。
 この方法による活字製造は印刷所の上海移転によりしばらく中断したが、再開後、文字の形とスタイルを全体的に整えた。活字の名称は刻工の名前からとることが多いのだが、1864年にラウリーは、すでに美華書館が保有していた香港活字、ベルリン活字、パリ活字等に倣い、「上海活字」と命名した。1865年末、5年半の歳月を費やしついに完成した上海活字は、ガンブルの創造的な仕事の中では最も時間がかかったが、もとより彼には自信があり、着手から間もない1860年に、この新たな活字製造法と活字棚は来華2年で自分が行なった技術面での二大貢献だと言っている。
 以上の電胎母型、漢字出現頻度調査、活字棚の設計、新たな活字製造法の4つのうち、3つ目まではガンブルが寧波に到着してすぐに、4つ目も到着から2年未満で始めたものだ。さらにすばらしいのは、ガンブルがその後もその創造性を発揮し続けたことで、これら4つが1867年に完成した後、彼ははやくも1868年に5つ目の計画に着手した。電気鍍金による銅版(電鍍銅版)である。実はこれも、彼が1858年7月2日に香港で来華後初めて書いた前述の(訳者注:英華書院の活字を鍍金し母型をつくるアイディアを記した)書簡の最後に、電鍍銅版を製作し聖書を印刷すれば英華書院の原価より低くできると記している。その後もガンブルは幾度も電鍍銅版について語っているが、電鍍銅版の技術と原価は活字より高く製作時間も長いため、様々な仕事で忙しく、優先すべき仕事から行なわなければならなかった彼は、前述の4つが完成した後でようやく電鍍銅版に着手し、「美華書館の歴史の中で、この一年(1868年)は電鍍銅版を開始した年となった」と述べた。電鍍銅版による最初の印刷物は1869年3月に完成した新約聖書で、数カ月のうちに14種の書籍が出版されたが、彼は完成後1869年10月1日に美華書館を離職したため、電鍍銅版は中国の印刷事業に対する最後の創造的貢献となった。
 ガンブルは来華当初から、アメリカ長老会のラウリー主導のもとで中文印刷を行ない、西洋式の活字が中国の伝統的な木版印刷と競合するにとどまらず、最終的には木版に取って代わることを目指していたが、萌芽から二十数年の西洋式中文活字が千有余年の木版の地位を脅かすなど、まったく不可能のように思われた。しかしガンブルの様々な創造性は、競争の鍵となるような、効率を上げる、原価を下げる、品質の保持とは別に、技術的優位性を生産・原価・品質等の経営的優位性へと転化することにより、不可能と思われた競合を実現した。彼の離職時、西洋式中文活字が木版に代わるにはまだ、中国社会にさらに多くの条件が加わるのを待たねばならなかったが、使用する中国人は著しく増加し木版を追い越すことはもはや明らかで、西洋式活字の優位は目前に迫っていた。このような状況をもたらした1つの重要な要因は、ガンブルの一貫した創造への志向であった。


連載第2回へ続く
 

「ガンブルという人物」原文は中国語となります。今回、宮坂弥代生さまのお力添えにより日本語に翻訳頂きました。ご協力に一同より感謝申し上げます。

※原文では脚注で出典が示されておりますが、レイアウトの都合により今回の連載では掲載を見合わせました。

 
蘇精氏写真

著者近影

● 蘇精
ロンドン大学図書館学哲学博士課程を修了。
元台湾雲林科技大学漢学資料整理研究所教授、清華大学、輔仁大学の非常勤講師を歴任し、退職後も引き続き近代中国とヨーロッパの文化交流史、特に19世紀における来華宣教師に関する研究を行っている。
著書に《上帝的人馬──十九世紀在華傳教士的作為》、《中國・開門!馬禮遜及相關人物研究》、《基督教與新加坡華人1819-1846》、《鑄以代刻──傳教士與中文印刷變局》、《清季同文館及其師生》、《林則徐看見的世界:澳門新聞紙的原文與譯文》、《西醫來華十記》などがある

● 宮坂弥代生
専門は近代活版印刷史。実家が活版印刷業を営んでいたため研究を志す。
テーマは美華書館をはじめとするミッション・プレスの活動と技術伝播。
現在、明治学院大学非常勤講師、中央大学政策文化総合研究所客員研究員。 趣味は風景印と切手蒐集。
 

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