明朝体漢字活字の開発 番外編「ウィリアム・ギャンブル 来日・離日の時期について」
石崎康子
上海で撮影されたウィリアム・ギャンブル肖像写真(米国議会図書館所蔵 ウィリアム・ギャンブル・コレクション 筆者撮影) 『和英語林集成』横浜版( 1867年)の扉 *表はNCH 1869年11月23日付 および同年11月30日付の’Shanghai shipping intelligence.’による。また〔 〕で記した情報は、Hiogo News.の"Supplement of the "Hiogo News." によった。 NCH 1870年4月12日号の出入港船リスト部分 美華書館の所長の職をギャンブルから引き継いだウィリィ(米国議会図書館所蔵ウィリアム・ギャンブル・コレクション 筆者撮影)
▼【画像1】
北米長老教会(American Presbyterian Mission)が、宣教のため中国に進出したのは、1844年でした。プロテスタントの布教にとって聖書は欠かせません。北米長老教会は、現地で聖書の印刷を行なうため印刷所を設置しました。ギャンブルは、北米長老会が寧波に設置し、華花聖経書房と名付けた印刷所に、印刷技師として1858年10月、米国から赴任しました。印刷所は、1860年の暮れに上海へ移転、美華書館と名称を変えますが、ギャンブルも上海へ移り、1869年に辞任するまで、美華書館の第6代目所長として印刷技術の発展に貢献しました。1867(慶応三)年、ヘボンが和英・英和辞書の印刷を行なうため、横浜から上海へ渡り、英語と日本語の文字を、活字を用いて印刷し、あとは製本するばかりの『和英語林集成』【画像2】に仕上げたのは、ギャンブルが所長を務める美華書館でした。
▼【画像2】
ヘボンが岸田吟香とともに上海へ行き印刷した和英・英和辞書の初版。右の英文書名頁の下部に、「SHANGHAI AMERICAN PRESBYTERIAN MISSION PRESS」(美華書館)の名がみえる。(横浜開港資料館所蔵)
1869年10月1日、ギャンブルは美華書館を辞任します。辞任後ギャンブルは、長崎の元阿蘭陀通詞で製鉄所頭取を務める本木昌造の招聘を受け、日本に約四ヶ月間滞在し、本木らに印刷と活字鋳造の技術を教えました。活版印刷が日本国内で実施され、技術を習得した本木昌造とその配下からは、後に東京で築地活版製造所を始める平野富二や、横浜で横浜活版社を創設し、『横浜毎日新聞』を刊行した陽其二(よう そのじ)らを輩出しています。
従来、ギャンブルの来日については、『教会新報』の記事などの資料をもとに、1869年11月頃に来日し、翌年の4月頃に上海へ戻ったことは知られていましたが、具体的な月日まではわかりませんでした(註1)。そこでギャンブルの来日と上海への帰還、米国への帰国について、新聞の出入国船リストと乗船名簿にあたってみたところ、つぎのようなことが判明しました。
なお出入港船リスト、乗船名簿とは、英字新聞に“Shipping Intelligence”などと記され、‘Arrivals’に入港船名、‘Departures’に出航船名、‘Passengers’に上級の船室に乗船した船客名を記した記事です。しかし新聞によって記載は様々で、出入港船リストに入港・出港の両方の船に関する記事が掲載される場合もありますが、どちらかしか掲載されない場合や、掲載されない号もあります。乗船名簿についても同様で、毎号記事が掲載されるわけではありません。
1. ギャンブル、来日する
「ノース・チャイナ・ヘラルド紙」(The North China Herald、以下NCH)は上海で刊行された週刊新聞です。NCHの1869年11月前後の出入港船リスト・乗船名簿を見てみましたが、ギャンブルの名を見つけることはできませんでした。残念ながらギャンブルがいつ、どの船で上海から来日したのかは、不明なままです。
しかしNCHの1869年11月23日付け乗船名簿に、ギャンブルがNanzing号で天津から上海に入港したこと、また同じ新聞の入港船リストには、Nanzing号が11月19日に上海に入港したことが記されています。ギャンブルは、Nanzing号で天津から11月19日に上海に戻り、その後日本へ発ったと推測されます。
そこでNCHの出港船リストに記された11月19日以降、12月1日以前に上海を出港し長崎に入港した船を見てみました(表1)。残念ながらこの時期に長崎で刊行された英字新聞が発見されておらず、それぞれの船の長崎への入港時期は分かりません(表1では、兵庫(神戸)で刊行された新聞の記事でNCHの記載を補っています)。当時上海から長崎までは、2日から4日を要しました。11月28日に上海を出港すると、到着は30日ないし12月1日になります。
▼【表1】
2. ギャンブル、上海へ戻る
一方ギャンブルは4ヶ月間の招聘を終え、4月頃に上海へ戻ったといわれています。NCHを見てみると、1870年4月12日号の出入港船リストに、ギャンブルの名が記されており(「Passengers. Arrived.-Per “Cadiz” From Japan-Messrs. Gamble, and Dalziel.」【画像3】)、カディス号(Cadiz)で上海に着いていることがわかります。前述したようにNCHは週刊の新聞で、前号は4月5日に刊行されており、ギャンブルは前号が発行された5日から次号が発行される前日の11日までの間に上海に着いていると思われます。『日本初期新聞全集』所収の「長崎エクスプレス紙」(The Nagasaki Express) の1870年4月2日号の入港船名簿 (Arrivals)には、「April 1st, Cadiz, Duudas, P. & O. Str., 861, from Yokohama and Hiogo, March 27th, General, to Glover & Co.」とあり、出港船名簿 (Departures )には「April 2nd, Cadiz, Duudas, P. & O. Str., 861, for Shanghai, General, by Glover & Co.」とあります。このことから、カディス号は横浜、神戸を経て4月1日長崎港に入港し、同2日、上海に向けて出港しており、ギャンブルは4月2日(旧暦明治3年3月2日)に上海へ向けて長崎を出港したことになります。NCHの4月12日号には、カディス号の入港日は記されていませんが、長崎から上海まで2日から4日を要したとすると、ギャンブルは4月5日か6日には上海に戻ったものと思われます。
以上からギャンブルは、日本からの招聘を受け、四ヶ月長崎に滞在し、いったん招聘が終了すると、4月2日に長崎を出港し、上海に戻ったことが判明しました。
▼【画像3】
3. ギャンブル、帰国する
そしてギャンブルは、同年アメリカに帰国しました。新聞で帰国の記事を探してみると、NCHの1870年8月4日号の乗船名簿(Passengers)には、出港した人(Departed)として、「Par “Oregonian” For San Francisco – Messes. Gamble」とあります。ギャンブルがオレゴニアン号(Oregonian)でサン・フランシスコへ向けて上海を出港したことが分かります。同年8月6日号の「長崎エクスプレス紙」(前掲書所収)の入港船名簿(Arrivals)には、「Aug. 1st, Oregonian, Dearborn, P. M. St., 1,940, from Shanghai, July 30th, General, to Geo. B. Gibbons.」とあり、出港船名簿(Departures)には、「Aug 2nd. Oregonian, Dearborn, P. M. Str., 1,940, for Hiogo and Yokohama, General, by Geo. B. Gibbons.」とあります。オレゴニアン号は、7月30日(明治3年7月3日)に上海を出港し、8月1日(明治3年7月5日)に長崎に到着、翌日の8月2日には神戸に向けて出港したことがわかります。
「兵庫ニューズ紙」(「The Hiogo News」)の1870年8月6日号の出入港船リスト(Shipping Intelligence)によると、オレゴニアン号は8月3日に神戸に着き、同5日に横浜に向けて出港しています。また入港者名簿(Arrived)には「Per str. Oregonian from Shanghai and Nagasaki- (中略)For San Francisco: Messrs. W. Gamble」とあり、神戸へ着いた乗船名簿にギャンブルの名が記されています。
横浜で刊行された週間の新聞「ジャパン・ウィークリー・メイル紙」(The Japan Weekly Mail、以下JWM)の1870年8月13日号の出入港船リスト(Shipping Intelligence)を見てみると、入港船(Arrivals)に「Aug. 7, Oregonian Am Str., Dearborn, 2,500, from Shanghai &c., General, to PMSS. Company.」とあり、8月7日(明治3年7月11日)にオレゴニアン号が横浜に入港したことが分かります。オレゴニアン号は、横浜と上海を結ぶPacific Mail Steamship Company(以下PMSS社)の船で、JWMの同年8月20日号の出港船名簿(Departures)には「Aug.16, Oregonian, Am. Str., Dearborn, 2,500, for Shanghai via Southern Ports, General, despatched by PMSS. Company.」とあり、上海へ向けて出港しています(註2) 。
ギャンブルが、PMSS社の船でサン・フランシスコへ向けて出港したと考えると、横浜からサン・フランシスコへ出航する同社の船は、8月22日発のアメリカ号(America)か、9月23日発のグレート・リパブリック号(Great Republic)に乗船することになります。残念ながら、8月22日発のアメリカ号については、JWMに出入港船リストの記載が無く、9月23日発の記事には、横浜から乗船したと思われる人のみの名前が記されており、ギャンブルの名はありません。しかしギャンブルの小伝(Sketch of the works of William Gamble, Esq., in China. 米国議会図書館所蔵 ウィリアム・ギャンブル・コレクション【画像4・5】)には、彼は1870年9月16日、美華書館の後任ウェリィ(Wherry【画像6】)に宛て、サン・フランシスコから書簡を送ったことが記されています。9月16日にサン・フランシスコにおり書簡を送るためには、8月22日(明治3年7月26日)のアメリカ号で横浜を発ったものと推測されます。
▼【画像4】【画像5】
Sketch of the works of William Gamble, Esq., in China. (米国議会図書館所蔵 ウィリアム・ギャンブル・コレクション)
▼【画像6】
以上のことから、横浜から出港した日時は不明ですが、ギャンブルは、1870年7月30日に上海を離れ、長崎・神戸を経由し、横浜から帰米したことが確かめられました。もしアメリカ号に乗船したとすると、ギャンブルは、8月7日の横浜入港から、同22日出港までの15日間、横浜周辺に滞在していたことになります。当時東京にいたフルベッキは、同年8月22日付けのニューヨークの長老教会伝道局の主事ラウリーに、ギャンブルを通じてお土産を届けますと書簡を記しています(註3)。またヘボンも、ラウリーに宛てた8月15日付の書簡で、8月1日に休暇を過ごしていた山岳地帯から横浜に戻ったと記しています(註4)。帰国の途につく前、ギャンブルはフルベッキやヘボンに会ったでしょうか。もし再会したらならば、ギャンブルは、長崎での活版伝習について、フルベッキやヘボンに語ったことでしょう。
註1:『日本語活字ものがたり 草創期の人と書体』小宮山博史著 誠文堂新光社
2009年 38頁
註2:PMSS社の上海-日本-米国間の客船については、松浦章「上海からアメリカへ
-Pacific Mail SteamShip会社の上海定期航路の開設」『東アジア文化研究科
紀要』創刊号 2012年 関西大学アジア文化研究センター)による。
註3:『フルベッキ書簡集』フルベッキ〔著〕 高谷道男編訳 1978年 新教出版社
註4:『ヘボン在日書簡全集』岡部一興編 高谷道男・有地美子訳 教文館 2009年
日本近世史専攻。2018年3月まで横浜開港資料館主任調査研究員、同年4月より横浜市歴史博物館主任学芸員。横浜開港資料館の平成30年度第1回企画展示「金属活字と明治の横浜~小宮山博史コレクションを中心に~」を担当。
○横浜市歴史博物館
〒224-0003 横浜市都筑区中川中央1-18-1
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