連載コラム
2010年09月08日

ぬらくら 第3回 どこから来たの、明朝体?

『朝に夕に秋の気配を感じるこの頃ですが…、』という書き出しがこの時期のご挨拶なのですが、今年は秋が遠いようです。  知り合いの梨園のご主人も、この陽気にため息をついていました。  皆さまはいかがお過ごしですか?  

今朝、起きて最初に目にした文字は何に書かれた文字でしたか?  
次に挙げた例の中にありますか?  
別にアンケートを採ろうって言う訳じゃありませんので、気楽に読み続けてください。  

1.新聞  
2.テレビ画面  
3.携帯電話  
4.カレンダー  
5.パソコンのニュース/メール画面  
6.読みかけの本  
7.その他  

そこで見た文字はどんな書体でしたか?  
今は、印刷物だけではなく上に挙げた道具類にもいろいろな書体が使われていますが、一番目にする機会が多いのはやはり「明朝体」ではないでしょうか。  
この明朝体、いつ・何処で・誰が作った書体なのでしょう?
 
早々に話は明朝体から離れます。  

中国の唐代初めに発明された木版による印刷術はその後ヨーロッパに渡り、金属活字を使った活版印刷へと発展していきます。
そして皆さんご存じのヨハネス・グーテンベルク(Johannes Gutenberg、1398年頃-1468年2月3日)へと続くわけです。  
グーテンベルクの名を一躍有名にしたのは、彼が1455年にドイツのマインツ  (Mainz)という街で世界で初めて聖書を印刷したことでした。  
この聖書は殆どの頁が42行で構成されていることから42行聖書と呼ばれています。  

18世紀に入ってフランス王立印刷所によって木で漢字の活字が作られ、 19世紀になるとナポレオンの命令でギーニュの辞典(中・仏・羅辞典)を印刷するために漢字の活字が作られます。  
そして、イギリスでも19世紀初頭に同じように漢字の活字が作られました。  
何故ヨーロッパで漢字の活字なのか?  
その当時ヨーロッパで発達した東洋学(中国研究)が中国語の文献を対訳・出版するために、漢字の活字が欠かせなかったという事情がありました。
 
ヨーロッパで漢字の活字が作られたもう一つの背景に、アジアに対するキリスト教の布教活動があります。 聖書を翻訳し伝道用の小冊子を印刷するために色々な言語の活字が作られましたが、その中の一つに漢字の活字があったと言うわけです。  
話は明朝体に戻ります。

ヨーロッパで作られた漢字の活字が明朝体だったのですが何故でしょう?  
欧文の基本書体がローマン体であることから、(これは推測ですが) それに似た雰囲気を持った明朝体(この頃、中国には既に木版印刷用の書体として存在していました)が選ばれたのかも知れません。 あるいは、他の書体、例えば楷書体などよりも明朝体の方が横線、縦線ともに規則性があるところから、漢字に馴染みが無いヨーロッパ人にとってデザイン しやすかったということがあったのかも知れません。
 
1869(明治2)年11月(6月という説もあります)に、上海の美華書館から時の館長ウイリアム・ギャンブル(William Gamble、1398年頃-1468年2月3日)が活版印刷に必要な機械・機材一式を携えて長崎にやって来ました。 これはギャンブルが勝手に日本に押しかけてきたのではなく、当時、長崎製鉄所(後の三菱長崎造船所)の頭取をしていた本木昌造(1824年7月5日-1875年9月3日)の招聘によるものだと言われています。  
本木昌造は坂本龍馬や勝海舟が活躍した幕末に長崎出島でオランダ通詞(通訳)をしていた人で、早くから日本の活字印刷の実現に情熱を注いだ人でした。

上海の美華書館というのは書店ではなく、北米長老教会が建てたもので正式にはアメリカン・プレスビテリアン・ミッション・プレス(American Presbyterian Mission Press)といいます。  美華書館は中国国内でキリスト教を伝道するために漢訳聖書や伝道用の小冊子を印刷・出版するために建てられた印刷所でした。  
ここで使われた漢字活字はイギリスやドイツ、フランスで作られた種字を元にギャンブルが複製したものですが、一部にギャンブル自らが中国人を指導して作った漢字活字もあったようです。  
ウイリアム・ギャンブルは本木昌造に電胎方という活字の作り方を教え、活版印刷術を伝えています。 ギャンブルが本木昌造に伝えた明朝体はその源流をヨーロッパにたどることができるというわけです。  

さてその明朝体ですが、実は中国には明朝体という書体名がありません。  
私たちが明朝体と呼んでいる書体は中国では宋体と呼ばれています。  
では一体、何時、誰がこれを明朝体と名付けたのでしょう?  
『東京日日新聞』(後の毎日新聞)の1875(明治8)年9月5日号に、それより2日前(9月3日)に没した本木昌造の追悼記事が掲載されたそうです。  
その中に「明朝風」という記述がありこれが初出ではないかという研究があります。  

さらに余談になりますが美華書館は現在も上海市内にその跡地が残されています。  

四川北路(Sichuan-beilu)が兪涇浦(Yujing-pu)という小さな川に交わるところに横浜橋(Hengbin-qiao)が架かっています(この橋は日本の横浜とは何の関係もありません)。そこから四川北路を北に150メートルほど行くと左手に 「西湖飯店(Xihu-fandian)」があります。 四川北路を挟んで西湖飯店の真向かいを見ると薄暗い路地があるのに気づくでしょう。  

その路地を奥まで入って行くと「四川北路第一小学校」と書かれた大きな表札が掛かる門に突き当たります。運良くこの門が開いていれば、そこに古い礼拝堂を見ることができます。  その礼拝堂が美華書館の跡地「旅滬広東富吉堂」で、今年の4月に私が訪ねたときは赤煉瓦の趣を残してすっかりきれいに修復されていました。
礼拝堂の左手に広がる四川北路第一小学校のグラウンドに美華書館印刷工場が建っていたそうです。  

【参考資料】  
『日本語活字ものがたり―草創期の人と書体―』   
小宮山博史著、誠文堂新光社 2009年刊  
『本と活字の歴史事典』   
印刷史研究会編、柏書房 2000年刊  
『真性活字中毒者読本』   
小宮山博史・府川充男・小池和夫著、柏書房 2001年刊  
『活字よ、本木昌造の生涯』   
桐生悠三著、印刷学会出版部 1984年刊

タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
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  著者 Information

著者
ダイナコムウェア コンサルタント
mk88氏

PROFILE●1942年東京都生まれ。
1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。
設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、
総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。
1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。
Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・
フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。
現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
Blog:mk88の独り言

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