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カテゴリー:小宮山博史「活字の玉手箱」
2019/05/23

明朝体漢字活字の開発 連載第23回 最終回

小宮山博史

10 日本での明朝体の名称  

 日本で明朝体という名称がいつ使われはじめ、また定着したのはいつであったか。手元のわずかばかりの資料を見てみます。
『東京日々新聞』明治8(1875)年9月5日号「雜報」にある本木昌造追悼記事の中に「明朝風」という言葉が使われていますので、これが最初ではないかと思っているのですが、確証はありません。以下追悼記事の全文を紹介します(記事ではルビを振っていますが、引用では当該漢字のあとに読みを入れました)。

「長崎の本木昌造ハ、一昨三日の朝六時頃死去せりとの電報を得たり。嗚呼をしむべし。未だ老人の仲間に入るほどの齡(とし)にもあらぬに、何ゆゑ早く此世を見すてたるならん。抑そも〈引用者註:原文は大返し記号〉此人ハ我ら同業の新聞紙屋、そのほか活字版を以て業とする者なら、厚くお禮を申さねバ成らぬ筯(すじ)がある。如何(いかん)となれバ、此人ハ我が日本に於て、西洋の法に傚(なら)ひ、鉛製の活字版を開(ひら)き始めたる元祖と云ふべし。今を去る十四年前、文久壬戍のとし長崎に於て社を結び、電力活字(エレキトルパイプ)の業を起したれども、時運いまだ至らず世人これを用ゆる者なきより、月〻五百餘金の損と成り、數年の間にて既に三萬兩餘を失なふに至れども、昌造もとより剛毅(ごうき)なる性質にして、能く久しきに堪ふるを以て更に其志(こゝろ)ざしを折(くぢ)けず、多くの艱難(かんなん)を忍び益(ま)す益(ま)す精神を凝(こら)し、必らず日本に此業を盛(さか)んならしめんと勉强せし功ありて、八九年の後に至り漸(やう)やく世に行(おこな)ハるるに至りしかバ、猶も勉强して國家の文運を助(たす)けんと、明治三年の秋その社中の一人たる平野富二を擇(えら)んで東京に出店せしめ、築地二丁目二十番地に活字製造所を取り立て、盛(さか)んに是を製し出したる。折から文明開化の盛運と成りて、新聞紙屋ハ一雨一雨と殖(ふえ)る。彼所(あそこ)にも此所(こヽ)にも活字の印行塲が始(はじ)まる。茶や料理屋の引札から芝居の番付まで、ミな活字版を用ゆる世の中と成り、人〻も便利を喜こび新聞紙屋も渡世ができ、製する方でもお金が設(もう)ける樣に成(なり)たる元ハと、本木に返(かへ)ツて見れバ、昌造先生が多年の辛苦を厭ハず、力を盡(つく)して仕揚(しあげ)られたる御蔭にあらずや。故に我〻の同業ハ此人に對して厚くお禮を申すべき筋ありと云ふとも、决して無理にハ非ざるべし。今そのお禮かたがた吊悼(くやみ)をも兼て築地の活版製造所へ往(い)て見ましたが、成るほど感心にいろいろの字母(じぼ)が出來て居りました。横文字(よこもじ)は何(ど)の樣なのでもミな西洋の形冩して、花文字から枠(わく)に用ゆる唐草まで揃(そろえ)ております。カタカナひらがなハ申すに及ばず、漢字は明朝風も楷書も大小いろいろ〈引用者註:原文は大返し記号〉ありて、此節できかヽりて居るのハ極〻ちいさい漢字と、二字つヾけ三字續(つヾけ)の平かなだと申す事。是が出來たらバ猶また便利に成りませう。然(そう)して大壯おほきな製造塲を新(あたら)しく立(たて)てありましたから、中へ入(はい)ツて見ましたら、大勢の職人が蒸氣の仕掛(しかけ)で仕事をして居りましたが、活字ばかりでハ無い。銅銕の細工ハ何(なん)でも出來ると見えます。夫(それ)もその筈(はづ)この本木昌造と云ふ人ハ、二十年前に長崎の製鐵所を開(ひら)いた人で五座ります」(引用者註:原文では部分的に変体仮名を使用しているが、引用では通常の仮名に直してある。句読点も引用者による) 

「電力活字」に「エレキトルパイプ」とルビを振っていますが、これは「エレキトルタイプ」の誤植でしょう。
 この記事によれば、明朝体のほかに楷書体を持っていることがわかります。活版製造所が作っている楷書体は「大小いろいろありて」とあるところから、明治10(1877)年東京築地活版製造所刊『BOOK OF SPECIMENS』収録の楷書体ではないでしょうか。この見本帳の書影は『秀英体研究』(大日本印刷株式会社、2004年)にあり、二号・三号(行書体もある)・四号・六号の楷書が載っています。
 扉には『BOOK OF SPECIMENS』の下に「MOTOGI & HIRANO」とあります。いまわたしたちは本木昌造の姓を「MOTOKI」と濁らずに読んでいますが、ここでは「GI」と濁音にしています。


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 また、ごく小さい漢字と二字三字続きの平仮名を製作中とあります。小さい漢字とは七号明朝体でしょう。続き仮名は明治9(1876)年刊『活版様式』および11年の平野活版製造所『活版総数目録全』にも収録されている四号仮名です。この仮名は平仮名だけで、同一字種を「単独仮名・脈絡を下に持つ仮名・上下に脈絡を持つ仮名・上に脈絡を持つ仮名」の4字形に作り、これらを組み合わせて連綿体に見せる工夫がなされています。脈絡の連結部は活字の左右中央でボディいっぱいに置かれ、上下の文字に繋がります。文字種は清音・濁音・半濁音・変体仮名で合計164字種、656字です。

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 この連綿体用平仮名を使って組まれた聖書は、明治初年「よこはまバイブルプレス」から数多く出版されています。図版は1879(明治12)年刊行のネイサン・ブラウン(Nathan Brown)訳『志無也久世無志與』(しむやくせむしよ。新約全書)の本文頁です(『ネイサン・ブラウン訳新約全書』新教出版社、2011年)。

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 この続き仮名は四号だけにあり、その他のサイズにはありません。日常の書き文字が連綿体で綴られていた時代であり、その歴史も長いのですが、近代活字の仮名としては定着しきれず、一部の日本語聖書を組んだだけで他に使われることはありませんでした。明朝体漢字と組み合わせたときの違和感のほかに、人びとのなかに旧様式を捨て去ることで欧米の近代化を具現化しようという強い意識があったとすれば、連綿体仮名は旧幕時代の文化そのものの象徴でありました。この続き仮名はウイーン王立印刷局が1847年には完成させていた連綿体活字に強い影響を受けて制作されていますが、すべて正方形のボディへの布字と、単一字形、同じ箇所での連結によるため単調な流動感しか生みだせず、ウイーン製のような変化に富んだ連綿組版は不可能でした。

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 横文字は「西洋の形写して」花形や罫線まで揃っていると報告していますが、これは輸入活字の模刻ではなく電胎法で複製したものだと思います。  雑報(一般記事)らしく「お金が設(もう)ける樣に成(なり)たる元ハと本木に返(かへ)ツて見れバ昌造先生が多年の辛苦を厭ハず力を盡(つく)して仕揚(しあげ)られたる御蔭にあらずや」と、お金が儲かる原因はなにかとその本木(本木昌造の本木とおおもとを意味する元の木にかけた洒落)に返ってみれば昌造先生の多年の苦労の結果であると、語呂をあわせて冗談をいっているのが面白い。

 記事に「明朝風」と記者が書いているところをみると、この書体様式が「明朝時代に使われていた印刷用書体」という認識があったのかもしれません。あるいは長崎新塾出張活版製造所を取材した記者に、案内した製造所員が話した可能性も考えられます。その場合は製造所内では「明朝」という書体名称を日常的に使っていたことになります。
 書体分類名あるいは書体名は、差別化を目的として命名されるものです。明治5年2月に本木昌造が主催する崎陽新塾で日本初の活字見本「天下太平國家安全」が印刷されますが、そこに掲載された初号から五号までの漢字6サイズの見本の書体は明朝体の様式でした(三号には他に楷書・行書がありますが、両書体とも名称はつけられていません)。この年の10月『新聞雑誌』第66号附録に同じ文字、同じサイズで(初号の字間は少し違いますが)活字見本が載ります。その広告の見出しは「崎陽新塾製造活字目錄」とあるだけで書体名は記されていません。明治5年には差別化しなければならない別書体はありませんでした。しかし明治8年にいたり雄渾な筆法が特長の楷書体活字「弘道軒清朝体」(こうどうけん・せいちようたい)が出現したことで、差別化を目的としてその書体様式を「明朝体」としたのではないでしょうか。
 手許にある数少ない見本帳類で明朝体という名称がいつ頃から使われたのかを見てみましょう。明治11(1878)年に平野活版製造所が刊行した四号明朝体の総数見本帳は『活字總數目錄 全』とあり、明朝という名称はでてきません。明治13年の弘道軒の「活版發賣廣吿」には「明朝」という名称が使われています。
 また築地活版製造所が発行した明治17年3月改正『活字版並印刷器械及製本器械其他定価』でも、初号から八号までをただ「活字」としてあり明朝体という名称は使っておりません。ただ六号だけは「新形明朝活字」と書体名を記しています。二号・五号・六号には「楷書」があり、二号には「朝鮮文字」があります。六号にだけ「明朝」を入れたのにはそれなりの理由があると思うのですが、わかりません。もしかすると美華書館から導入した一号から六号のうち、大きさの段階差を滑らかにするために既存の六号を一サイズ下げて七号とし、新たに六号を新刻していますので、わが国独自のものとして六号だけを新形明朝としたのではないかなと思うのですが、どうでしょう。それならば初号も美華書館のサイズにはなく築地活版製造所独自のものですので、ここにも新形とつけなければならないはずですがそうはなっていません。それは鋳造活字ではなく木活字であるからかもしれません。
 同じ明治17年11月改正印刷局活版部の『活字類定価表』にはただ活字としてあるだけで、明朝という名称はありません。しかし明朝体という名称が、活字・印刷にかかわるところでは普通に使われていたことは想像できます。明治20年の大阪国文社の四号総数見本帳は『明朝四號活字總數目錄』とあり、明治24年の『印刷雜誌』に出稿された東京築地活版製造所の書体広告の中には「大日本東京築地活版製造所新製明朝六號活字」と明朝が使われています。ここでは「新形」ではなく「新製」という文字になっています。明治25年には同製造所の総数見本帳『二號明朝活字書體見本 全』が刊行されていますので、このころには書体名称として定着していたと考えてもよさそうです。
 金沢の宝文堂活版製造販売所は大正5(1916)年に総数見本帳『甲號明朝風二號活字摘要錄』と『明朝風一號活字摘要錄』を出しており、『東京日々新聞』の記事の中にある「明朝風」という表現をここではまだ使っています。ただし『五號明朝活字書體見本』も同年刊行していますので「明朝風」と「明朝」を併用していることになります。宝文堂の詳細はわかりませんが、見本帳の書体は築地活版製造所のものですので、築地活版の販売代理店かもしれません。
 書体名がいつ誰によって命名され、人々の記憶の中にいつごろ定着したのか。たとえば雄渾な筆法が特長の楷書体活字である弘道軒清朝体は、明治8(1875)年神崎正誼(かんざき・まさよし)が作り、命名しましたが、神崎はこの書体を「しんちょうたい」と読ませたかったのか「せいちょうたい」と読ませたかったのか。後年の印刷・活字業界では「せいちょうたい」と漢音で読みならわしていましたが、本当のところは今ではわかりません。
 活字を巡る様々なことは新しい技術の台頭でそれが使われなくなると、今までの技術や歴史は記録されることもなく闇の中に消えていき、やがて忘れ去られてしまいます。日本の文化・技術・精神を支えている活字書体は、その歴史を含めて誰かが記録しておかなければならないものです。

 この連載は日本の明朝体活字をめぐる長い歴史の一齣を、古い資料をもとにして綴ったものです。いつも身の回りにあってほとんど意識されることのない明朝体が、どのような理由で生まれ、改良されてきたのかを探る旅でもありました。ヨーロッパでの東洋学の進展と中国へのキリスト教布教を両輪として開発され、東進し、上海に集積された明朝体活字が日本に導入されるまでを、それに関わった人々にかすかな光を当ててみましたが、明朝体活字史全体からみればささやかなことでしかありませんでした。力不足というほかありません。  
 この第23回をもって連載は最終回になります。長い間稚拙な文章をお読みいただきほんとうにありがとうございました。 

 

〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉

 
小宮山博史イラスト

illustration: Mori Eijiro

● 小宮山博史
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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