ダイナフォントストーリー

カテゴリー:小宮山博史「活字の玉手箱」
2019/04/25

明朝体漢字活字の開発 連載第22回

小宮山博史

9 号数制の誕生  

 第21回の冒頭で日本における活字の単位である号数のことを少し記しました。ここではもう少し詳しく日本の号数制について考えてみようと思います。日本の金属活字のサイズは、まず号数制があり、続いてポイント制が加わり、この二つのサイズが並行して使われて現在にいたります。しかし号数制は金属活字の衰退にあわせて使用頻度が少なくなり、いまでは歴史上のサイズとして名称だけが残っています。金属活字時代の号数は初号から八号までの9サイズでした。
 美華書館の活字販売広告「美華書館告白」(『教会新報』第16号所収。1868年12月19日発行)には一号から六号までの6サイズ7書体(二号は2種類)の明朝体が掲載されています。しかしここでいう「号」は美華書館が所有する活字の大きさの順番のようで、サイズとしての呼称とはどうしても考えられませんし、その大きさがなにに準拠しているかも示されていません。清朝時代には族譜や家譜(日本でいう家系図)を印刷するための木活字がありましたが、そのサイズにはどのような名称がつけられていたのかはわたしにはわかりません。ただ当時の清国で使われている長さの単位で作られていたことは容易に想像できます。しかし美華書館は北米長老教会が運営する印刷所ですから、欧文活字を含めて活字の大きさは独自で作ったものではなく、その当時のアメリカのいずれかの活字鋳造所のサイズであったはずです。
 連載第9回に示した1867(慶応3)年美華書館刊行の見本『SPECIMANS(MEが正しい) CHINESE, MANCHU AND JAPANESE TYPE, FROM THE TYPE FOUNDRY OF AMERICAN PRESBYTERIAN MISSION PRESS』には号数表記はありません。1872年発行の美華書館見本帳『TYPE SPECIMEN』、1895年刊行の『THE MISSION PRESS IN CHINA』収録の見本字にも号数が表記されていないのは、これらの配布対象が上海在住の欧米人であるからかもしれませんが、美華書館に印刷を依頼する人々には清国人も多いと思われます。その人々にたいする活字サイズの呼称は英文表記ではなく漢字表記の方がわかりやすいのは当然ですし、この販売広告が出稿されているのは漢字週刊誌ですから清国人が対象なのはいうまでもありません。清国人用に美華書館は自館が所有する6サイズを大きさの順に1番、2番と番号を振っただけだとわたしは考えています。
 美華書館の漢字活字の英字表記と、それに相当するポイントサイズや号数表記、大きさ(角寸法)は次のようになります。角寸法は印刷物からの測定値です。  
  Double Pica……24ポイント……一号……8.65ミリ  
  Double Small Pica……22ポイント……二号……7.61ミリ  
  Two-line Brevier……16ポイント……三号……5.60ミリ  
  Three-line Diamond……13.5ポイント……四号……4.85ミリ  
  Small Pica……11ポイント……五号……3.72ミリ  
  Ruby……5.5ポイント……六号……1.87ミリ
活字の大きさは倍数関係で成立しますが、ここでは二号・五号・六号にかろうじて倍数関係が見られるだけです。この漢字活字群は活字のシステムを念頭において編成されたものではなく、寄せ集めであったことがサイズからでもわかります。  伝習を受けた本木昌造たちは、美華書館の号数表記を活字サイズの名称として使っていることは、『新聞雑誌』第66号附録(明治5年10月)に掲載された「崎陽新塾製造活字目録」でわかります。そこでは一号の上に初号を新しく設け、美華書館では六号としていた Ruby 相当のサイズを一号下げて七号とし、新しく六号を新設して大きさの段階が滑らかになるようにしています。これによって日本で近年まで使われてきた活字サイズとしての号数制は、崎陽新塾によって作られたことがわかります。しかし崎陽新塾の後身である平野活版や築地活版は号数制がなにによっているかを公表しなかったのではないか。そのため号数制の根拠を知らずに印刷会社・活字鋳造所は長い間製造し使い続けてきました。
 その疑問を鮮やかに解決したのが活字史研究者の三谷幸吉(みたに・こうきち)でした。三谷は『本木昌造平野富二詳伝』(同詳伝頒布刊行会、昭和8年)の編者注で、本木自筆稿本の「臘形を取る文字の製法」を引用して号数制誕生の経緯を述べています。この自筆稿本とは現在長崎市立博物館が収蔵する『本木昌造活字版の記事』で、本文は本木の自筆ですが表紙の題簽は別人の手によって書かれています。


明朝体漢字活字の開発連載第22回画像1
 以下三谷の文章を引用します(『本木昌造活字版の記事』の「臘形を取る文字の製法」原文には句読点はなく、三谷が振ったもの)。

 本木昌造先生が活字に関する製法を公にしている。其の一節に「臘形を取る文字の製法」即ち種字の彫刻法なのである。左に 「黄楊を以て其欲する処の文字の大小に随て正しく四角の駒を製す。其長は好に応ずべし。但予の製する処のものは西洋に倣ひ、其長さ七歩八厘あり。其駒に彫刻す。其文字は成べく深く刻することを良とす。凡二歩五厘角の文字は其深さ五厘余、五歩角のものは、其深さ一歩余にして、左右、上下勾配を施し以て臘形を取るに及んで、能く臘より抜出る様に彫刻するなり。」 右を按ずるに本木昌造先生は最初活字を造られたのは、二号(曲尺二分五厘)活字、初号(曲尺五分)活字とで、活字の高さは曲尺七分八厘であったことが判然とするのである。  ところが、其後活字の種類を殖す関係上、各其階級を曲尺五厘にすれば大きく過ぎるから夫れを鯨尺二厘五毛とせられて、左の如く制定したのである。其の立證すべきものとしては、諏訪神社にある三号楷書(和様と称せしもの)種字の大きさは
 十本にて鯨尺一寸五分
 四号活字は十本にて鯨尺一寸二分五厘五毛
 編者所蔵の二号、一号中間種字は
 五本にて鯨尺一寸一分二厘五毛
 夫れを各活字に現はせば
 初号活字   鯨尺四分    曲尺五分
 一号       二分五厘    三分一二五  
 二号       二  分    二分五厘  
 三号       一分五厘    一分八七五
 四号       一分二厘五毛  一分五六二五  
 五号       一  分    一分二五  
 六号       六厘五毛    九厘三五  
 七号       五  厘    六厘二五
 されば本木昌造先生が活字の高さは西洋(外国)の活字の高さに倣はれたが、大きさは日本の物指に依られたのであつて、外国の活字の大きさに倣つて、五号活字をスモールパイカの中間と言ふ永い間の歴史は誤伝であつたと云ふことが判然としたのである。(編者は此研究のために費やせし時間、労力、苦心は到底他人の窮ひ知ることの出来ないことであつた。今茲に之を発表することを得たのは、本木昌造先生の加護と、編者の苦心の結晶であることを承知ありたし)。

 活字の高さは外国のものにあわせているが、活字の大きさを創案したのは三谷が敬愛してやまない本木昌造先生であり、先生のご加護と長い時間をかけた研究の成果であると誇らしげに記しています(三谷は本木昌造だけに「先生」をつけます)。
 活字の高さ(活字の文字面から活字の尻までの長さ)の曲尺七分八厘は23.634ミリで、0.930インチです。この寸法は1764年に作られたフールニエ・ポイント(Fournier Point)を使っているベルギーの活字の高さと同じであるというのが興味深い。日本工業規格 JIS Z 8305-1962『活字の基準寸法』では活字の高さは23.45ミリ、0.923インチでそれよりも少し短くなっています。
 本木稿本の「臘形を取る文字の製法」は活字の大きさをいっているのではありません。電胎母型を作るとき、凸に彫った種字を蜜臘に押しつけて凹の文字にします(これが臘形です)。そのとき彫った活字表面から底までの彫刻深度はなるべく深くしたほうがいい、たとえば二分五厘角のものならその2割程度の五厘、五分角のものならばその2割程度の一分くらいの深さに彫り、字面(じづら)の上下・左右に勾配(bevel 斜面)をつければ、蜜蝋から抜きやすいといっているだけです。
 しかし三谷の解説は鮮やかすぎました。それは反論できないくらい衝撃的であったのかもしれません。号数規格は鯨尺(くじらじゃく)によって作られているという三谷説は前出日本工業規格『活字の基準寸法』でも「号数制活字の創始者本木昌造は、鯨尺1分を基本活字の大きさとし、これを五号と名付け(以下略)」と書かれています。  鯨尺は布を測る物差しで呉服尺ともいい、一分は3.78ミリです。曲尺(かねじゃく)は金属製の直角に曲がった物差しで、矩尺や大工金(だいくかね)とも書き、一分は3.0303ミリです。
 三谷幸吉は長い時間をかけて調査研究し、日本最初の活字は鯨尺によって作られているという説を発表したにすぎません。鯨尺号数制を生き延びさせたのは、そのあとに続く研究者とその引用者です。本木昌造と活版伝習生達は、前美華書館館長ウイリアム・ギャンブルから印刷術と活字製法を習いました。それを念頭において崎陽新塾あるいは平野活版の印刷物と美華書館の印刷物の大きさを測定し、字形を比較すれば鯨尺号数制が延々と生き延びることはありませんでした。とくに三谷が書いている「編者所蔵の二号、一号中間種字」に注目すれば、それが美華書館のDouble Pica(24ポイント)であり、崎陽新塾の活字見本にある一号であることはすぐにわかったはずです。三谷のいう鯨尺号数制が正しければ、美華書館の活字サイズも鯨尺によって作られていたということになります。
 研究者が印刷物という原資料にあたることを怠ったことで、日本の近代活字史は半世紀以上にわたり号数サイズを含めて停滞を余儀なくされました。

連載第23回へ続く

〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉

 
小宮山博史イラスト

illustration: Mori Eijiro

● 小宮山博史
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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