明朝体漢字活字の開発 連載第21回
小宮山博史
連載第22回へ続く 〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉 illustration: Mori Eijiro
ここには初号・一号・二号・三号・四号・五号・七号の7サイズがあり、初号から五号までは明朝体で「天下泰平國家安全」が見本として掲載され(三号には楷書と行書もあります)、七号は「天下泰平國家安全」がなく、漢数字や片仮名、漢文用の返り点などが載っています。
美華書館の販売広告にあった「号」はサイズを示す単位ではなく、所有する活字の大きさの順番でしたが、崎陽新塾の「号」は大きさの単位として使われています。一号の上により大きなサイズを設定し初号としているのは序数では表記できないからですし、美華書館では六号であったルビ相当のサイズを一段下に移し七号という名称を新設し、あらたに六号のサイズを決めて新刻活字を作り、初号から七号までの大きさの段階を円滑に見せようとしています。活字サイズの単位としての「号数制」はこのとき誕生したのです。活字サイズは文字組版の基盤になるものですが、その根拠となる数値を崎陽新塾の後身である東京築地活版製造所は公表しなかったようです。
ギャンブルの講習は活字制作からはじまって、それを使って印刷を試みるというものです。種字の作り方についての講義はあったとしても、限られた時間を考えれば総ての文字について種字を彫って母型を作るのではなく、美華書館から購入した活字を使って電胎母型を作っていったと思います。木彫種字のかわりに鋳造活字を使ったとしても製作過程は同じことです。それから美華書館が所有している種字は新刻二号と五号だけのはずですし、その大切な種字を現職ではないギャンブルが持ってくるとは考えにくい。講習終了からおよそ2年で崎陽新塾は活字見本を出して販売を伝えています。
初号は木活字ですし、ほかのサイズも必要な字種がすべて揃っていたとは思えませんが、たとえば二号・四号・五号は当時の印刷物を見るとある程度揃っていたようです。仮名は美華書館では五号の平仮名、片仮名は持っていましたが、そのほかのサイズにはなく新刻が必要です。そして中国にはない国字の新刻も不可欠です。しかし一日でも早く活字の整備と活字印刷を軌道に乗せたい本木昌造が、漢字を含めたすべての字種を新刻するという時間のかかる選択をこの時点ではたしてしただろうか。わたしはそのような悠長なことをせず、美華書館から導入した活字を種字として電胎法で複製したのだろうと推測しています。
そこで崎陽新塾の活字見本「天下泰平國家安全」の8字と、1869年までに印刷された美華書館の印刷物から同じ字を抽出して比較したところ、いくつかの字をのぞいて同じ書体でした。
一号……「泰」の「氺」の左下ハネアゲと右のテンの位置が異なる。「全」は別字形。
(アウトラインは崎陽新塾の活字、グレーは美華書館の活字)。
二号……すべて同じ。
三号……すべて同じ。
四号……「國」の「或」の「口」の大きさと位置が異なる
(アウトラインは崎陽新塾の活字、グレーは美華書館の活字)
五号……「下」の縦線の長さとテンの位置が異なる。崎陽新塾では縦線を延ばして他の字との大きさを揃え、テンを少し右に寄せて縦線とテンの空きを広くしている。(アウトラインは崎陽新塾の活字、グレーは美華書館の活字)
この一号・四号・五号の違いは崎陽新塾での改刻の結果なのか、美華書館活字が一字種一字形ではなく複数の字形を持っていたのかどうか。ただし五号の違いはその結果を見ると崎陽新塾の改刻ということができます。
また明治5年以降の日本の活字印刷物と美華書館の印刷物を測ってみましたが、活字サイズも美華書館のものとまったく同じでした。崎陽新塾は美華書館の活字を種字として電胎法で複製したことに間違いはなかったことになります。
連載第9回に示した1867(慶応3)年美華書館刊行の見本帳「SPECIMANS(SPECIMENSの間違い)OF CHINESE, MANCHU AND JAPANESE TYPE, FROM THE TYPE FOUNDRY OF AMERICAN PRESBYTERIAN MISSION PRESS」で、Small Picaサイズの変体仮名と単体仮名・片仮名、Brevierサイズの平仮名と片仮名、Rubyサイズの片仮名があることが確認できます。
東京日日新聞(毎日新聞の前身)は金属活字を使って刊行するはずでしたが、活字が足りずやむを得ず木版に切り替え創刊号を出します(明治5年2月21日)。そして2号から金属活字になり11号までを印刷しますが「太ぜう官(太政官)」「大蔵せう(大蔵省)」などと組む始末で、「ちんぷんかんぷん」をもじった「珍聞漢聞」と揶揄されます。
明治37年11月10日付第1万号記念特集に、創立者の一人である西田伝助が当時の思い出を語っていますので引用してみます(『毎日新聞百年史』毎日新聞社、1972年)。カッコ内の読みは引用者による。
「夫(それ)にしても活版といふものが入(い)る、所が其の時分何所(どこ)にも活字がない、ただ照降町(てりふりちょう)に蛭子屋(えびすや。恵比寿屋ともいう)といふ絵草紙屋があつて、其蛭子屋が、上海から支那の活字を買入れて来て之から活版屋をはじめるといふことを聞きましたから其蛭子屋へ行て新聞発行の話をした所が、そりや面白い、やりませうと主人が云って呉れたので先づ活版の方は出来たが、さて刷る器械が何所かありさうなものだと、のんきなものです、夫から詮策すると本町二丁目の瑞穂屋卯三郎(みずほや・うさぶろう)といふ人が外国から買て来たフート器械があることを聞込んでから早速瑞穂屋へ行つて相談に及んだ所が、家に刷る者がないからお前の方から来て刷るなれば器械は貸そうと此ういふ話でそこで活版も組んで呉れる所ができたし、器械も貸してくれる所が出来たから、何しろ早くやらなければならないといふので、不十分も不十分、えらい不十分ではありますけれども、明治五年の二月廿一日を初号と定め……(中略)……条野(創立者の一人の条野伝平)が原稿を書く、夫を蛭子屋へ持つて行て組んで貰ひ、組み上がつたものを瑞穂屋の店へ持つて行て刷る、所が器械を初めて見た位ゐだから刷ることを知らない、瑞穂屋の番頭に熊蔵といふ人があつて此人は器械を買つて来る時試験したので、幾分か刷ることを知つて居る、之はこう刷らなくては往(いけ)ないといふので、此熊蔵といふ人がお師匠番で教へかたがた当分刷つて呉た、此ういふ塩梅で、どうかこうか廿一日の日に初号を発行し、一枚百四十文で売出しました。」
この談話から東京日日新聞創刊時の活字印刷の苦労がわかり興味深い。西田は探しまわって、上海から活字を買ってきた蛭子屋と外国から印刷機を買ってきた瑞穂屋卯三郎を見つけます。瑞穂屋卯三郎とは清水卯三郎のことで、連載第17回に書きましたが徳川昭武とパリ万国博覧会への参加者の一人として、吟香が上海滞在中アスターハウスホテルでばったりとあった友人です。清水卯三郎はこのときパリで印刷機を買ったのかもしれません。西田伝助の思い出にある瑞穂屋の番頭熊蔵もこのとき同道していたのかどうか。
蛭子屋の活字は上海美華書館製の五号ですが、どのような活字セット、つまり書籍を印刷するものか簡単な冊子や広告を印刷するセットなのかわからずに買ってきたかもしれません。
12号からは木版印刷にもどり、7月2日の第118号から第303号までを木活字で紙面を組みます。翌6(1873)年3月2日付304号から勧工寮(後の大蔵省印刷局)の金属活字で両面刷りになり、11月24日の第540号から平野活版の活字に切り替えます。540号の紙面は漢字片仮名交り文で、翌541号は漢字平仮名交り文になります。この片仮名と平仮名は美華書館が持っている仮名ですので、東京日々新聞のすべては美華書館の書体で組まれていることがわかります。本文は五号二分空きで、その2分の1の七号(美華書館では六号)片仮名でルビが組まれています。
美華書館の活字の複製から始まった日本の明朝体活字の制作は、多くの職人や書体設計者・デザイナーの不断の努力をへて今見るような整備された姿に成長してきたのです。
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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