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カテゴリー:小宮山博史「活字の玉手箱」
2019/02/21

明朝体漢字活字の開発 連載第20回

小宮山博史

8 上海活字の日本への伝播  

 ギャンブルが北米長老教会清心堂の牧師ファーンナム(J.M.W.Farnham)との確執がもとで11年間勤めた美華書館を辞任したのが1869(明治2)年10月1日(旧暦8月26日)ですが、翌11月には長崎に姿を現します。
 出島の写真は1863年に来日した写真家フェリックス・ベアト(Felix Beato)が1864年に撮影したものです。出島は1636(寛永13)年にポルトガル人の宿舎として作られましたが、ポルトガル人追放後の1641(寛永18)年オランダ人がここに移転を命ぜられて入居します。扇面の形をした人工島の出島の大きさは、南側(海側)が約232メートル、北側(陸側)が約190メートル、東側と西側は約70メートルで、中央に幅約2.9メートル長さ約218メートルの道が1本あります(片桐一男著『出島――異文化交流の舞台』集英社新書、2000年)。復元された現在の出島を端から端までゆっくり歩いても、5分ほどしかかからないほど狭い。
 1865年に出島は外国人居留地に編入され、一番から二六番まで細かく区分し欧米人に賃貸されたことで木造洋館が建ち並び、それまでの景色とは一変したと片桐一男さんは同書に書いていますので、ギャンブルが船上から見た出島とその周辺の景色は、この写真とはすこし違っているかもしれません。しかし初めて見る長崎でこれから始まる活版伝習にどのような感慨を持ったのか。


明朝体漢字活字の開発連載第20回画像1
 欧米の近代的な活字製法と印刷技術の習得に悪戦苦闘しながらも、思うような成果をあげられない長崎製鉄所頭取本木昌造(もとき・しょうぞう)は、人を介してギャンブルに長崎での講習を懇請します。この要請にたいするギャンブルの反応は上海の漢字週刊誌『教会新報』第52号(1869年9月11日発行)の「中国東洋信息大畧」で知ることができます。それによればギャンブルは日本の一役人(本木昌造のこと)の招請によって西暦の11月長崎に行くことを決め、漢字活字・欧文活字・仮名活字、さらには印刷に関する総ての機材を帯同し、4ヵ月滞在して活字印刷や電胎法などを教えるとしています。これは長崎に行く2ヵ月前に掲載された記事ですので、ギャンブルは要請をもとに講習内容を組み立て、日本側にすでに伝えたものを記者に話したのでしょう。長崎での講習を了承したことは、ギャンブルがすでに美華書館の辞任を決めていたことを示しています。 

(『教会新報』第52号「中国東洋信息大畧」原文。「美国姜先生於外国十一月致東洋長崎因東洋有一官請去也長崎住四月設立印書舘帯去中国鉛字及外国鉛字及東洋字一切器具教東洋人排字印書及電気鋳銅版諸法東洋人軽財重学已仿照外国設立新報又遠請姜先生教以諸法専心学之無患無成東洋又已設同文館多所延師教又東洋人亦成字典一書去年東洋人至上海住姜先生處請刷印蓋價廉而字工云」)

 日本ではその講習内容の詳細な資料は未発掘ですが、同じ『教会新報』第82号(1870年4月16日発行)にはギャンブルの講習内容の一部が書かれています。
「アメリカ人ギャンブル先生日本から上海に戻る アメリカ人ギャンブル先生は、日本の一官吏の要請で電胎母型の製作と活字組版、および印刷法を教授するために日本に渡った。ギャンブル先生は、日本滞在四ヵ月ですでに講習を終えた。活字の母型三セットを作ったが、一つは漢字、一つは欧文、もう一つは仮名で大小の文字が全部揃っている。まず活版で英和辞典の印刷を試みた。日本各地ではこれらの模倣が試みられている。仕事はすでに完了し先生は上海に戻っている。」


(『教会新報』第82号原文「美国姜先生由日本回上海 美国姜先生前往日本因日本有一官請其用電鋳銅版及排鉛字活版印書姜先生在日本四月已事竣凡造字模三副一中国字一西国字一日本字大小字咸備先試排印之書西国字東洋字合訳之字典日本各處皆欲仿行茲事成而回上海」)

 長崎に渡ったギャンブルは、漢字・欧文・仮名の活字母型3セットを作り、その活字で「西国字東洋字合訳之字典」を組み印刷を試みたとありますので、対訳辞書を実習教材に使ったことがわかります。活字母型を作り、活字を鋳造し、それを組んで印刷という講習のプロセスはまことにわかりやすいし、対訳辞書は多言語の混植という複雑な組版を求められますので、一日でも早く技術を習得したい日本側にとって実践本位の実習であったと思われます。目の前に展開するさまざまな先進技術を見る本木昌造の喜びはいかばかりであったか。
 下の写真は長崎で撮影されたギャンブルと活版伝習生達です。ここには中央のギャンブルを囲んで17名の日本人が写っており、前列左から3人目が招聘者の本木昌造で、その左の丸顔が平野富二のようです。活版伝習に誰が参加したのかは今もわかりませんが、少なくとも17名が参加していたことが証明されたといえます。この写真はアメリカ議会図書館ギャンブル・コレクションの中から横浜市歴史博物館の主任学芸員石崎康子さんが発見したものです。撮影は上野彦馬(うえの・ひこま)。


明朝体漢字活字の開発連載第20回画像2
 これは宮坂弥代生さんに教えていただいたことですが、ギャンブルの1870年4月の手紙によれば、実習は12月1日から開始されたとのことです。『教会新報』には実習教材は書かれておりませんが、「東洋字」とありますので英字と日本字の対訳辞書を組んで印刷したのでしょうか。ふつう「東洋」は「日本」を指す言葉です。
 しかしギャンブルは同じ手紙のなかで「Medhurst’s English Chinese Dictionary」と書いています。ワイリー(Alexander Wylie)が1867年に出版した『MEMORIALS OF PROTESTANT MISSIONARIES TO THE CHINESE』(上海美華書館印刷。台湾の成文出版社の影印本、1967年)を調べてみますと、メドハースト(Walter Henry Medhurst)の英中辞典として次の1冊があげられています。
 『English and Chinese Dictionary』1847-1848 Shanghae
 明治学院大学図書館収蔵本を見ますと、印刷はただMISSION PRESSとなっていますが美華書館の前身華花聖経書房によるものです。北米長老会印刷所は1845年マカオから寧波に移っています。
 たぶんこの中英辞典を教材に使ったと思われます。そして仮名を使って註か解説を加えたとも書いているそうです。仮名は片仮名でしょう。この註か解説というのは、もしかすると英語と漢字にルビ風に読み仮名を入れたということではないでしょうか。ギャンブルが美華書館在任中に印刷した薩摩学生の『和訳英辞書』(1869年1月)では、英語と漢字に片仮名で読み仮名を入れていますので、それにならった可能性もあります。あるいは中国語部分を日本語に翻訳して片仮名で組んだかもしれません。これだと『教会新報』第82号の記事「西国字東洋字合訳之字典」になります。


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明朝体漢字活字の開発連載第20回画像4
 メドハーストの英中辞典は上下2巻本で、版型は218×303ミリ、1,436頁の大冊ですから、実習でその総てを組んで印刷するはずはなく、何折り分かを組んで印刷したのではないでしょうか。ただ試作印刷物が発見されておらずその規模は残念ながらわかりません。  講習は予定通りに4ヵ月で終わり、ギャンブルは上海に戻っています。
 ギャンブルが上海にいつ戻ったのかは『教会新報』には書かれていませんが、上記4月16日号に帰滬の報道がありますのでその前であることがわかります。ただしそれが3月なのか4月なのかはわからない。北米長老会の宣教師である恵志道(John Wherry)の紹介で美華書館に入った許維滲は、帰米するギャンブルへの送別の詩の中で「上海に戻られたのはすでに今年の晩春であった」(原文「回滬已是今春之末」)とありますのでわたしは3月末かと思っていました(『教会新報』第98号、1870年8月18日)。
 ところが横浜市歴史博物館の主任学芸員石崎康子さんは上海で発行されていた週刊新聞ノース・チャイナ・デイリー・ニューズ・アンド・ヘラルド紙(The North China Daily News & Herald, Ltd. 字林西報)に掲載されている出入港船舶リストを調べられ、1870(明治3)年4月2日(旧暦3月2日)長崎出航のキャディズ号(Cadiz、P&O汽船)で上海に向ったことを発見されました。旧暦の3月上旬ならたしかに晩春です。
 ギャンブルが帰国のため上海を発ったのは7月30日(旧暦7月3日)で、上海と横浜を結ぶ太平洋郵船(Pacific Mail Steamship Company)のオレゴニア号(Oregonian)に乗船し横浜で下船。横浜からはサン・フランシスコ行き8月22日出航のアメリカ号(America)か、9月23日出航のグレート・リパブリック号(Great Republic)に乗船したのではないかと、石崎さんは横浜開港資料館館報『開港のひろば』138号(2017年10月25日発行)に書いています。ただ活版講習のために上海から長崎についた日は11月のいつであったかはわからなかったとのことです。
 『毎日新聞百年史』の技術編を執筆した古川恒さんは外国人の長崎上陸者名簿を調べられたことがあり、それにはギャンブルの名前はなかったと亡師佐藤敬之輔に話しているのを記憶しています。ギャンブルの出入港記録はいままでほとんど調べられたことがなく、石崎さんの調査で事実がはじめて明らかになりました。
 帰米はギャンブル39歳のときです。ギャンブルの帰米にさいして美華書館館員の許維滲が贈った詩には、「ヒシとハスが馥郁と香るころ帰る」(原文「菱荷正馥趁帰」)とありますので、中国人館員との送別会は旧暦6月であったのでしょう。  

連載第21回へ続く

〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉

 
小宮山博史イラスト

illustration: Mori Eijiro

● 小宮山博史
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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