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カテゴリー:小宮山博史「活字の玉手箱」
2019/01/24

明朝体漢字活字の開発 連載第19回

小宮山博史

ヘボンよりラウリー博士宛書簡 1867年5月23日(慶応3年4月20日)
「ミッション図書館に寄贈として拙著「和英語林集成」一部、ハッパー博士(引用者註:Andrew Patton Happer)に託してお送りいたします。上海からわたしが持ち帰った僅か二部のうち、まだ製本してないままのものです。
 わたしは本月十七日午後五時、私の仕事を終え、同夜、香港から横浜に向うコロラド号に乗り移るため汽船で上海を出発しました。ここで製本したものを送るよりも、御地でもっと立派に製本出来ると思います。これは日本における約八年間の成果の一部です。それが完全なものであるとは考えていません。完全どころではありませんが、上記の年月においてなし得た最善のものであると、わたしは考えています。これは英語の辞書としては、はじめてのものです。もっと立派なものを作る人に役立つものでしょう。現在の事情の下では日本のためになし得た最上の宣教事業の一つとわたしは考えています。」
 1867年5月17日(慶応3年4月14日)、上海を汽船で出発し、黄浦江が揚子江と合流する地点でコロラド号(Colorado)に乗り移っています。吃水の深い大きな船は黄浦江をのぼって上海まで航行できなかったからです。
 コロラド号はアメリカの太平洋郵船会社の船です。太平洋郵船会社は1867年1月サンフランシスコ―横浜―香港を結ぶ太平洋航路の定期便運行を開始しています。ヘボンと吟香はこの太平洋航路のコロラド号に乗り横浜にむかいました。1866年10月18日横浜を出航してから7ヵ月目のことでした。


 現存する『呉淞日記』と『ヘボン書簡集』の中でヘボンと吟香の宿舎などに関する記述はこれだけです。
 少ない資料から推測すると、旧アメリカ租界で虹口クリークに架かる虹橋を東へ渡ったところで、天井が高く外にはベランダがついている2階建ての、外国人の長期滞在者用アパートにヘボン夫妻と吟香は滞在していたようです。しかしはっきりした住所がわからないのが心残りです。
 『和英語林集成』初版1,200部は1冊18両で販売され、早い時期に完売したようです。ヘボンからラウリー博士宛1867年8月書簡(発信日不明)には「わたしの辞書は、日本人に非常に受け入れられています。発行部数の半数をすでに売りましたが、その四分の三は日本人に売ったものです。政府だけでも、三〇〇冊を買い上げました。」とあります。政府とは幕府と先進的な藩のことかもしれません。
 上海から日本に戻って3ヵ月で600部ほどを売ったとこの手紙はいっており、その4分の3の450冊ほどを日本人が買ったようです。このような本格的な和英辞典は日本では始めてのことで、待ち望まれていたことがわかります。これ以前に出版された英語の辞典は堀逹之助が嘉永6(1853)年に編纂した『英和対訳袖珍辞書』(200部刊行)と、慶応2(1866)年改訂増補版として刊行された堀逹之助編・堀越亀之助補『改正増補英和対訳袖珍辞書』(1,000部刊行)の2冊しかありませんでした(『改正増補英和対訳袖珍辞書』は慶応3年と明治2(1869)年に増刷)。


明朝体漢字活字の開発連載第19回画像1
明朝体漢字活字の開発連載第19回画像2
 高村光雲の思い出では、慶応4年頃親子5人でひと月1両2分あれば心配なく暮らすことができ、寝酒の1合も飲めたとあります。18両は庶民の1年分の生活費に相当しますので、この辞書がいかに高価であったかがわかります。 

  ヘボンよりラウリー博士宛書簡 1871(明治4)年6月16日
「わたしが辞書を再版したいと前にも申し上げておきましたが、これを実行するためには、もう一度上海に行って数ヵ月とどまらなければなりません。ミッション本部から、その許可をお願いしたいのです。来る十月か、十一月に上海にわたりたいと思っています。(略)
 積極的な宣教活動に関する限りにおいて、この辞書の出版の事業は将来やるよりも今の方が都合がよいのです。前の場合と同様に今度も、ミッション本部はこの書物に関して、わたしの俸給以外何らの支出をも要しないでしょう。わたしの旅費と出版費ならびにそれに関する一切の費用はわたし自身が負担いたします。
 辞書の第一版を出版する前に儀礼的な申込みをいたしましたが、ことわられました。それで横浜在住の一商人の援助がなかったら、たぶん出版ができなかったかもわかりません。その時は金銭的な成功をするなどは全く考えも及ばなかったので、その友人もどんな結果になろうとも、喜んで損失を負担する覚悟でありました。ところがすばらしい成果を収めました。そしてその利益金で出来る範囲内にて、第二版を出版したいと思っています。今その書物の出版の援助の依頼をミッション本部にいたしません。それは第一版のときに拒絶されましたので、今回も同様だろうと予想したからです。ただ次のことを主張したいと思います。わたしが本の出版費の責任を全部負担しますので、利益が生じた場合には、その利益はわたしの思うままに処分したいと思います。それでミッション本部もこれを御承認下さることと信じます。(略)」
 この書簡からヘボンは『和英語林集成』の第1版を印刷出版するにあたり、ミッション本部に出版費用の援助を求めたが拒絶されたことがわかります。援助依頼を「儀礼的」と穏やかに書いているところにヘボンの人柄がでているようです。連載第15回に記したように、第1版の出版費用のすべては横浜で商社を営むトーマス・ウォルシュが損得を度外視して負担しましたが、幸いなことに辞書は完売し負債は生じませんでした。第2版の出版費用の援助は第1版と同様拒絶されると考え、すべて自費でまかない利益が生じた場合はヘボン自身が自由に処分すると伝えています。ミッション本部は第1版出版についての判断の甘さによる負い目もあり、この申し出を断ることはできなかったと思われます。

ヘボンよりラウリー博士宛書簡 1871年12月8日
「わたしどもは三週間前に至極元気で上海に着きました。スコットランド人の医者で信仰の厚いジョンストン博士というわたしの友人の家に同居しております。この人の家は「倫敦会」の敷地内にあって倫敦会の宣教師二人と隣りあっており、教会の隣にあります。御承知のようにたいへん仲良くおつきあいをしております。
 上海にきて三週間は印刷の準備に過ごしました。やっと昨日から印刷に着手しました。一日八ページばかり進めるとすれば大体四ヵ月ここに滞在していなければなりませんが、わたしには喜ばしいことです。
 ミッション印刷所は現在、大勢の職人を使って非常に多忙を極めております。そして、わたしが数年前持って来た電気製版の活字で立派に日本字を入れた英和辞書を印刷し終わったばかりです。この辞書は八百ページ以上の大作です。ウイリアムス博士もまた氏の著作『英華分韻撮要』も出版しております。それは、ほぼ千五百ページの大冊でしょう。非常に必要な書物です。」
 ヘボンが滞在している倫敦会の敷地内のジョンストン博士の家は、わたしの調査不足で残念ながらわかっていません。
 この手紙の中に「わたしが数年前持って来た電気製版の活字で立派に日本字を入れた英和辞書を印刷し終わったばかりです」という記述があります。これはどの辞書をいっているのか。手紙は1871年12月8日の日付ですから「電気製版の活字で立派に日本字を入れた英和辞書を印刷し終わったばかり」で、それは「八百ページ以上の大作」であれば『大正増補和訳英辞林』のことだと思われます。薩摩学生が編集して1869(明治2)年に美華書館で印刷した『和訳英辞書』の増補版が『大正増補和訳英辞林』です。
 英文扉に「FOURTH EDITION REVISED」(改訂第4版)とあるのは、文久2年堀達之助等が出版した『英和対訳袖珍辞書』が第1版、慶応2年堀越亀之助等による『改正増補英和対訳袖珍辞書』を第2版、明治2年の薩摩学生による『和訳英辞書』を第3版、その増補版として薩摩学生前田正穀・高橋良昭編の『大正増補和訳英辞林』を第4版としているからです。
 本文組は英字横書、和文縦書で、これが明治中頃までの一般的な対訳辞書の組版で、『和英語林集成』の和欧横組は当時としては画期的な組み方ということができます。  


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 『大正増補和訳英辞林』は806頁ありますのでこの辞書のことに間違いはないと思いますが、「数年前持って来た電気製版の活字」とはどういうことか。これが「数年前に作った電気製版の活字」ならわかります。電気製版の活字とは電胎法で母型を作り、そこから鋳造した活字のことです。『和英語林集成』を印刷するとき漢字はすでに美華書館では電胎法で母型を作って持っていましたが、前述の1868年12月7日の手紙では片仮名やイタリック、アクセント付き母音、スモールキャップなどはないので美華書館館長ギャンブルが新しく作ったと書いています。『和英語林集成』を印刷するのに必要な活字群を美華書館は作りましたが、それは美華書館のものであってヘボンに渡されたとは考えられません。
 この文章はヘボンの記述が間違っているのか、翻訳が間違っているのかわかりません。 
 「ウイリアムス博士もまた氏の著作『英華分韻撮要』も出版しております」とあるウイリアムス博士は、アメリカンボード中国ミッションプレスの印刷技術者であり宣教師のサミュエル・ウエルズ・ウイリアムス(Samuel Wells Williams) で、『英華分韻撮要』(A Tonic Dictionary of the Chinese Language in the Canton Dialect)は1856年広東で出版されています。頁数は832です。
 

連載第20回へ続く

〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉

 
小宮山博史イラスト

illustration: Mori Eijiro

● 小宮山博史
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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