小宮山博史「活字の玉手箱」
2018年12月20日

明朝体漢字活字の開発 連載第18回

小宮山博史

 田辺太一の『幕末外交談』にはこの一行に在日英国公使館の通訳官アレキサンダー・フォン・シーボルト(Alexander von Siebold)も乗船していると書かれています。アレキサンダーは長崎出島のオランダ商館の医師であったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold)の長男です。シーボルト事件によって国外退去させられてから30年、1859年8月シーボルトは長男アレキサンダーを連れて再来日をはたしました。アレキサンダー13歳6ヵ月。
 田辺太一は『幕末外交談』のなかでシーボルト事件を記録しています。帰国にあたってシーボルトの積荷の中から国外持ち出し禁止の品が発見されたことが、日本の蘭学界を震撼させたシーボルト事件の発端です。田辺は帰国のため船が出島沖を出航したが、暴風雨を避けるために戻ったことを再入港とし、荷物改めをした結果禁制品が発見されたとしています。出航には荷物改めはしませんが、入港にはかならず積荷の検査をする決まりでした。しかしこの説明はなにやら公表できない苦しい事情があるのではないかと思われてなりません。暴風が迫っているのに出航するかどうか。たとえ出航しても暴風を避けるために出島沖に戻ったのが入港となるのか。船は漂流し対岸の稲佐浜(いなさはま。現在の三菱長崎造船所)に乗り上げるほどの暴風です。長崎の鳴滝塾(なるたきじゅく)あとに建つシーボルト記念館の解説も再入港説をとっていますが、どうでしょうか。

 シーボルトが帰国のため長崎で汽船セントルイス号に乗船したのが1862年1月14日(旧暦12月15日)。アレキサンダーは船まで送っていますが、これが最後の別れになりました。シーボルトは1866年10月18日ミュンヘンで死去(『シーボルト日記 再来日時の幕末見聞記』。八坂書房、2005年)。

「ゆふめしハあすとはうすでくふ よるうささんとうちへかへる うささん日本のかねをヘボンにだらととりかへてもらふ 扨仙さんくれまへにかへりきていたからおまへどこへいたといへばどこかしらぬがむやミとあるきまはツた 城内へもはいツた 漳川とかいてある門からはいツて城皇廟へいて湖心亭へもあがツて茶をのんだりなにかしてそのいろいろの處を見物した 料理屋へもあがツて酒をのんだ しばゐも見た 姜先生の處へいて活字板をするのも見たといふからそいツはおほはたらきものだ おどろきいりました あんまりかへらないからどこぞまぐれこんでこまツてハゐないかとおもふておほきにしんぱいしたと云てわらふ」 
 上海県城は嘉靖32(1553)年に築城され、城壁には小東門、大東門、小南門、大南門、西門、北門の6門があります。1860年太平天国の乱で城壁の一部が壊されたとき、そこに新しい門として「新北門」が作られます。この門は「障川門」とも称されていますが、吟香の日記では「漳川」と書かれています。新北門ができたためもとからある北門は老北門と呼ばれるようになります。新北門は老北門の東、豫園の北側150メートルのところです。
 仙さん(本間俊三郎)は新北門から入り、一人で歩き回り料理屋で酒も飲み、湖心亭では茶を飲んでいます。武士たちは藩校や漢学塾で白文(はくぶん。訓点のついていない漢文)で四書五経を学習していますので、中国語が話せなくても筆談でなんとか通じたと思われます。
 湖心亭は乾隆年間に創建され、1855年茶館となった2階建ての屋根の先が大きく反り返っている江南風な建築で、いまも茶館として営業中です。小東門外の美華書館では活版印刷も見ています。

二十七日「おいらハかねハないけれども此のとほりおほきなひろいてんじやうたかいよいへ屋をかりてまいにちさうじをしてゐるからまあけツこうさ(略)○よる瑞興號でめしをくふてかへる 燈籠を持て洪口まで送らせてくれる(略)さて蘇州橋畔でわかれる うちへかへツて今此日記をかいてしまツてねる」
 吟香の宿舎は2階建ての建物で天井の高い広い部屋です。この日瑞興号で夕食を食べ、店の男が虹口まで送ってくれ、蘇州橋のたもとで別れて家に帰っています。蘇州橋は外白渡橋のことでしょう。瑞興号はのちに吟香が製造した目薬「精錡水」の中国での販売代理店となります。

二十九日(引用者註 二十九を二本線で消してある。三十日の間違い)「辞書が四百張の餘できあがる 今情死(シンヂウ)といふことバまで板になツてきたのを校合する」  
 「情死」は『和英語林集成』408頁の最後にあり「Shin-Jō, シンヂウ, 情死, (aitaijini). Committing suicide together. ―szru.」となっています。本書のローマ字表記では「す」を sz としていますので、szru は「する」と読みます。「情死」は第2版では削除されました。


明朝体漢字活字の開発連載第18回画像1
第五之冊 2月6日(1867年3月11日)「○七ツ半ごろ美華書館へいく 是ハ詩韻合璧の事についてなり○よるよい月夜なり○けふ英語をさきにして和語をひく方の字書がはじめて版になツてくる」  
 七ツ半(午後5時頃)美華書館にいきます。この日和英の部が終わり、英和の部に入ったことがわかります。

十一日「こんばん郝娘々(ヘツ‥ニヤン・ニヤン)ふねにのりこんで明朝出帆して日本へかへるといふてあさからそのしたくをしてゐる(略)○よるおぼろ月夜なり へぼんのおかみさんにわかれにいく 手をにぎツてさいならごきげんよろしく やがてあとからわたくしもかへりますとてわかれる」  郝娘々にミス・ヘボンとルビを振っています。

十二日「○けふハよいてんきだ けさへぼんのおかみさん出帆したがおだやかな日でまことによいあんばいだ○なゝつ時分からいつもよくいくいなかみちをぶらぶらあるいて百姓屋へたちよツてゐるとへぼんもあとからくる 則いツしよにあるく 日本里数壱里ばかりいてかえる うちへかへツた時ハはやくらくなツてゐる」
 七ツ(午後4時)頃からいつもよくいく田舎道を歩いているとヘボンも後からきて、いっしょに4キロほど散歩しています。

十四日「よいおてんきになる 風がふく へぼんのおかみさんがふねによふだらう しかしけふハ日本のうみへいくだらう」

十五日「けふへぼんデクシオナリイの序をかく」
 『和英語林集成』の序文は2頁で「Shanghai, May, 1867」と印刷されています。

十六日「けさハへぼんのおかみさんがよこはまのうちへもうかへツておいらのてがみをミんなの處へくばらせてくれるだらう」  
 12日上海を出発していますので横浜まで5日の航海であることがわかります。

二十二日「けふ和英辞書のうちへいれる為に日本の假名。万葉假名。カタカナ。ひらがな。いろは。の假字五體の版下をかく」  
 これは序文の次に載っている「A TABLE OF THE JAPANESE KANA」2頁です。まず発音をイタリック活字で組み、その下にカタカナ、ひらがな、万葉がな、漢字でいろは二段(伊呂波……、膽路葉……)となっています。 


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明朝体漢字活字の開発連載第18回画像3
 前日の21日吟香はイギリス領事館に寄っており、翌22日の日記に「東洋先生橫行之圖」という絵を描いています。黄浦江を背にして河岸に立つ吟香は、洋装に羽織を着て杖を右手に持っています。その右後ろには弓なりの橋があり、その左に「※」と見える旗を翻す二階建ての家があります。橋は蘇州河に架かる外白渡橋であり、「※」の旗はイギリス国旗でしょう。外白渡橋と建物の位置関係、旗の絵からみて2階建ての家はイギリス領事館と思われます。イギリス領事館の建物は現在上海市政府が使っていますが、場所は創建当時から同じ場所にあります。
 イギリス領事館のさき(画面の左端)にもう一本旗竿がたっており旗が翻っています。小さくてどのような図案かはわかりませんが、これは江海関かもしれません。江海関は上海税関で、管理権はイギリス・フランス・アメリカなどの列強が握っています。


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二十三日「けふへぼん對譯辞書にあたらしく名をつけてくだされ ほんのとびらがみにかくやうによい名をといふから和英詞林集成とつける 昨日日本人を二三人みた あすとルはうすにとまツてゐるやうすだとへぼんはなす だれかまた新來の客とおもはれる あひたいもんだ○もうぢきにかへるんだ うれしいね」  
 辞書は最初『和英詞林集成』と名付けられたことがわかります。

二十五日「雨ふる 和英語林集成のとびらがみのはんしたをかく 雙・鈎でかいたがよくできた 詞の字を語に改めていちりんねあげをした へぼんだら五十枚くれる これまで久しくほねを折て此ほんを手伝てこしらへたからおれいにくれるなり」  
 雙鈎はアウトラインで書くことです。「詞林」を「語林」にかえたので「一林(一厘)」値上げしたと冗談をいっています。吟香は辞書編纂の礼として50ドルをもらいました。


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二十六日「來月二十三日にハたぶんかへるつもりだと平文がいふ さうして見れバもう二十三日すれバ出帆するのだ」

第六之冊 4月初1日(新暦5月4日)
  「小東門外から虹口までに橋ハ四つか五ツあるけれどもミなちいさいはしでこすにほねのおれるやうな橋ハなし」
 上海県城から黄浦江に流れこむ2本の水路(現在は道になっている方浜路と新開河)に架かる橋、洋涇浜(もと水路で現在の延安路)に架かる外洋涇橋、蘇州河に架かる外白渡橋、虹口クリークに架かる虹橋とすれば、小東門外から宿舎まで橋は五つです。小東門から城内に入って新北門を抜けても堀を渡りますので橋の数は五つで変わりありません。このうちもっとも長いのは蘇州河に架かる外白渡橋で、長さは100メートルほどでしょうか。吟香は深川や上野に住んでいたこともありますので、大川(隅田川)に架かる橋とくらべればいずれも小さいと思っているようです。
 『呉淞日記』は4月初4日の6行で終っています。ヘボンと吟香は新暦5月17日上海を出発していますので、この日以降は荷物の整理梱包などで日々を過ごしたのでしょう。

連載第19回へ続く

〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉

 
小宮山博史イラスト

illustration: Mori Eijiro

● 小宮山博史
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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