ダイナフォントストーリー

カテゴリー:小宮山博史「活字の玉手箱」
2018/11/29

明朝体漢字活字の開発 連載第17回

小宮山博史

ヘボンよりラウリー博士宛書簡 1867年1月25日
「(略)辞書は目下、一日六ページの割で印刷中です。誤植の多い校正刷の訂正をするほかに、最初計画していなかった「英和」の第二編を書き上げなければならないのです。第一編「和英」の部の約二百五十ページ分が印刷出版されました。和英の第一編は大体六百ページで、第二編(英和の部)は多分、二百五十か三百ページになります。六月一日までに全部を完成したい希望です。経費がいくらかかったか、申し上げにくいのです。植字だけで一ページ二ドル払っております。(略)」
 ヘボンは1日6ページの割で印刷が進行していると報告しています。組版代は1ページ2ドルです。和英の部は558ページありますので1,116ドルになります。
 ヘボンの書簡発信日1867年1月25日は慶応2年12月20日で、250頁が印刷完了しています。吟香日記12月13日に200頁目の校正刷りがでていますので、7日間で50頁進んだことになります。

第三之冊 慶応3年1月元旦(1867年2月5日) 「小・東・門・外 美華書館へいくに黄廷元 涂子巣 高鶴亭等をはじめとしておよそ二十人ばかりもあつまりて年始の宴を催してゐる處なり(略)老北門にて子巣とわかれてさてやどりにかへりぬ」
 下の地図は大修館書店刊行の『上海歴史ガイドマップ』(2011年第3版)収録の南市の北側部分です。上海県城の城壁は1912年から1914年にかけて撤去され、北側が民国路、南側が中華路となりました。


明朝体漢字活字の開発連載第17回画像1
 上海県城は6つの城門と3つの水門を備えていました。小東門(宝帯門)は大東門(朝宗門)の北側にある城門で水門もありました。老北門(晏海門)は上海県城の北側の城門。城皇廟は上海県の土地の神を祀る廟で明の永楽年間の創建で、豫園の南に隣接しています。
 図中の民国路にかかっている破線はフランス租界の境界線で、その東端のフランス租界十六舖巡捕房(警察)と記された台形の土地の中に美華書館が建っていました。


十日「ひるからへぼんとえんがはをあしならしをしながらはなしをするに……」
 この日は宿舎で手紙を書いたり訪ねてきた上海人と話しをしたりして、そのあとヘボンと「えんがは」で足慣らしをしています。「えんがは」はベランダのことでしょうか。この記事からもヘボンと吟香は同じ家に住んでいるようです。12月20日の日記で2階から見た絵を描いていますので吟香の部屋は2階にあったのかもしれません。

十三日「けふよつすぎからでかけていくとあすとルはうすのまえに弘光にあふ それからいツしよに小東門外へいて瑞興の學松にあふ(略)扨こゝをもでて美華書館へいて見るにだれもゐず 城内へはいるに曹素功でも詹大有でもミなミせのものがなにかいふてあいさつする 城内へいてぶらぶらあるいてゐると許小亭がふときて湖心亭のまへのなんとかいふ茶亭にのぼる。」
 出かけたのが四ツ過ぎですから午前10時頃でしょう。「あすとルはうす」は1860年創業の上海初の本格的なホテル「アスターハウス 」(Astor House、後の浦江飯店、2017年廃業)で、蘇州河にかかる木橋 Garden Bridge(外白渡橋)北詰にありました。現在のロシア総領事館の前で、共同租界の虹口地区のなかです。ここには各国領事館が建ち並んでおり、ロシア領事館から東にドイツ領事館、アメリカ領事館、日本総領事館があります。


明朝体漢字活字の開発連載第17回画像2
 虹橋近辺にある家を出た吟香は百老匯路(Broadway Road、現在の大名路)を歩き、アスターハウスホテルの近くで知人に会い、そのあと小東門外に行きそこから美華書館に回っています。

十五日「○七ツすぎに琼記 (引用者註:「」と「瓊」は同字、音は「けい」。玉のように美しいの意)へいかふとおもふてかしの方へ出て見るにあすとルはうすのうちにひのまるの旗が立てゐるからはてふしぎだな日本の人がきたそうだ(略) それからかへりがけにミれバあすとルはうすのまえのかしに人がおほぜいたツてゐるからおしわけてそばへよツて見れバ日本人が八九人小船からさんばしへあがる ひよいと顔を見やわせたのハかふらき立本又あとからあがるのハ高橋怡之介 これハめづらしい どういふわけでこゝへハおいでなされましたといふにいやいろいろのわけありさまああとでゆつくりとはなしませうといふ たかはし云霞谷がよろしく申ました たいさうきたがりましたとそのうちミなミな船からあがる あすとルはうすのひのまるの旗を見て一人云この旅館にハ公儀の人がとまツてゐるからさしつかへるによツて外の旅亭へとまらねバなるまいといふから さようならバあなたがたハあすとルはうすにとまツてゐる人とハ別の組でございますかといへバさやうです あれハふらんす船の乗て来た組で私等ハいぎりすの船できましたといふ その時ふりかへりて あすとはうすの方を見れバ本間俊三郎でハない 今の名ハ仙さん立てゐるから あ あすこにも私のともだちがゐるといふてそこをすてゝおいてあすとはうすの内へいくになんだかおほぜい日本人がごやごやしてゐる 仙さんと逢た時なんといツたか たゞこれハこれハとばかり からでよしの山で有た うささんとおくの方から出てくる季六さんもゐる まことにうれしき事たとへん物なし 山のうち六三郎さんもゐる(略)ミつくりの貞さんがきてゐるがるうまちすであばいがわるくてひこでいるといふからそれハへぼん先生にミてもらふがよい わたしそういふてあげようとてうちへかへる 卯三さんも仙さんもいツしよにつれて寓居にかへりてヘボンの處へいて見れバるすなり(略)うささんかへりがけにへぼんにてあツてその事をはなしてミつくりを見てもらツたさうでへぼんかへりきてその事をはなす 扨文字書の活字を新にうゑた處のしたずりがきてゐたから校合してそれから又あすとはうすへいてうささんきろくさんなど五六人つれだして洪口のまちまちをみせてあるく」
 七ツですから午後4時ころに出かけて河岸のほう(黄浦江に沿った現在の黄浦路でしょうか)にでてみると、アスターハウスに日の丸があがっています。これは将軍徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)の名代徳川昭武(とくがわ・あきたけ)たちパリ万国博覧会に参加する一行の宿舎となっていたからです。吟香の日記にでてくる「霞谷」は島霞谷(しま・かこく)、「うささん・卯三さん」は清水卯三郎(しみず・うさぶろう)でしょう。この引用の中にはありませんが川上冬崖(かわかみ・とうがい)という名前もでてきますので彼も友人の一人であることがわかります。本間俊三郎(潜蔵。ほんま・しゅんざぶろう))は吟香がジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵。はまだ・ひこぞう)と『新聞誌』を発刊したときのメンバーです。
 「ミつくりの貞さん」が「るうまちす」(リューマチ。オランダ語 Rheumatiscch)で苦しんでいるのを聞き、ヘボンに見てもらうために「寓居にかへりてヘボンの處へいて見れバるすなり」とありますので、ヘボンと吟香は同じ建物のなかに住んでいることがわかります。このあとヘボンは卯三郎から「ミつくりの貞さん」のことを聞き治療したとあとで吟香に話しています。「ミつくりの貞さん」は箕作麟祥(貞一郎。みつくり・りんしょう)と思われます。
 引用の最後に5、6人をつれて「洪口」の街を見せて歩くとあります。「洪口」は明の万暦年間に使われだした名称で蘇州河以北のいまの「虹口」のことです。
 この日吟香は届いていた『和英語林集成』のゲラ刷りを校正しています。

十六日「山内さんうささん(引用者註:卯三)きろくさん(引用者註:季六)ひゞのさん(引用者註:日比野)ほかにもしらぬ人々をつれて呉淞のかしを西南へ小東門外までいて姜先生の宅へよる 酒などをごちそうになりてそれから城皇廟へいてあちこちけんぶつして新北門から出てかへる」
 おうぜいで「呉淞のかしを西南へ小東門外までいて」とありますので、アスターハウスで山内さんたちに会い、みんなで蘇州河にかかる Garden Bridge を渡り、黄浦江沿いに歩いて小東門外の「姜先生」の家へ行っています。この黄浦江沿いの道は、今の中山東二路ですから「西南」ではなく「東南」の間違いかもしれません。
 「姜先生」は美華書館館長ウイリアム・ギャンブル(William Gamble)のことで、ギャンブルの発音に近い漢字で姜別利と書きます。日記では美華書館にいって姜先生にあったのではなく、小東門外の「姜先生の宅」でごちそうになるとあります。姜先生の家は美華書館の敷地の中に建っていた外国人館長用の宿舎だと思われます。
 みんなをつれて見学してアスターハウスに帰ったのは九ツですから昼の12時頃です。

 「あすとはうすにきていろいろはなしてゐるうち向山隼人正といふおぶぎやうさまと石見守さまといふ人と田邊大一といふおやくにんさまなど六七人どうぞ東洋先生上海のあんないをしてくだされといふ それから今度ハまツすぐに新北門へさしていて城皇廟の裏門からはいツて曲橋をわたりおもて門へ出て曹素功で筆をかひ小東門へ出てかしとほりからかへる でる時四点鐘よりすこしまへなり かえツた時五点鐘すこしすぎてゐるぐらゐにてまことにおほいそぎでけんぶつしてかえりしなり」
 午前中は小東門から新北門(老北門の東)のルートで、午後は反対に新北門から小東門のルートでみんなを案内しています。とくに午後は1時間強で見て回るせわしなさですが、これは徳川昭武が夕方に在上海フランス領事館での晩餐会に招待されており、向山・石見守・田辺の三人も随伴しなければならなかったことによります。
 東洋先生は吟香、向山隼人正(むこうやま・はやとのしょう)は外国奉行でこのパリ万国博覧会のためにフランス駐剳公使に任ぜられています。石見守は山高石見守(やまたか・いわみのかみ)のことで幼い徳川昭武の傅(守役)となり、あわせて目付に任ぜられた人物です。案内した人の中の「田邊大一」という人は幕府の外交方として活躍し、明治31年に『幕末外交談』を著した田辺太一(たなべ・たいち)で、向山隼人正の推薦によって組頭、公使館書記官の肩書きで参加しています。
 田辺太一の長女は竜子(たつこ)といい、三宅雪嶺(みやけ・せつれい)に嫁して三宅花圃(かほ)と号し、明治女性作家の草分けとなった人です。彼女は歌人中島歌子が主催する「萩の舎」(はぎのや)の門人となり、小説『薮の鶯』(やぶのうぐいす)を著していますが、同門の樋口一葉を励まし続けたことでもよく知られています。
 ちょんまげを結い太刀をさした大勢の日本人が城内を見学する姿は、上海人にはどのように映ったのか。きっと黒山の人だかりであったかもしれません。これより5年前の文久2(1862)年幕府は開府以来初めてとなる貿易船千歳丸(ちとせまる)を上海に派遣します。乗組みの日比野輝寛(ひびの・てるひろ)は日記の中で上海人の物見高さを「暫クシテ唐船頻リニ我船ニ近ヨリ、我輩ノ頭ヲ指點シテ絶倒ス。余彼ヲ看ルニ、頭ニ数尺ノ尾ヲタレ、ソノ姿容實ニ抱腹ニ絶ヘズ。彼此相笑フ、ソノ愚ナルヲ擧ゲン。」(『文久二年上海日記』。全国書房、1946年)と、ちょんまげと弁髪を互いに笑ってる愚かしさを記しています。
 千歳丸には攘夷の頭目高杉晋作、佐賀の中牟田倉之助が従者の資格で、薩摩の五代才助(友厚)は準備にてまどり水夫として乗組んでいます。五代は薩摩藩の軍艦購入計画を抱いていたといいます。 

連載第18回へ続く

〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉

 
小宮山博史イラスト

illustration: Mori Eijiro

● 小宮山博史
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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