ダイナフォントストーリー

カテゴリー:連載コラム「ぬらくら」
2018/10/29

ぬらくら第91回 「廟廟廟……ときどき宮」

【8月XX日 晴れ】

到着した台南車站は台北車站を元に想像してきた駅とは大きく違っていた。
上り線用と下り線用それぞれのプラットホームが一つずつ並ぶだけのローカル臭たっぷりの駅だった。
二つのホームを横切る地下道が、西側の台南車站改札口と東側の成功大学側に出る台南火車站後站改札口を繋いでいる。

01_台南車站:台南車站プラット・ホーム。台南車站プラット・ホーム。

台南車站を出ると駅前のロータリーの向こう側に、ロータリーのカーブに沿うようにファサードが湾曲した14階建ての黒い建物が、南国の青い空を背景に異様だ。
この建物には鉄道大飯店と高玉商務飯店、国賓大楼が入っている。

さて我が投宿先はどの辺りだろうと地図を眺めるが、着いたばかりでは土地勘も働かない。
キョロキョロしていると駅舎の外れに観光案内所を見つけたので飛び込んだ。
ホテルのバウチャーを見せると、一緒に来いと案内所のドアの外に立って『あそこがあなたの捜しているホテルですよ』。心優しい台南レディーの指先を見ると、目指すべきホテルは駅前ロータリーの角、観光案内所から徒歩3分の距離だった。

【8月XX日 晴れ】

台南車站前を南北に走る北門路を300メートルほど北上、檳榔と大王椰子で鬱蒼とする台南公園の前に出る。
広い公園内では大きなラジカセを真ん中に、ダンスに興じるグループや太極拳を楽しむグループが、大王椰子の間に点在する空き地で汗を流している。

公園に沿って西に延びる公園南路を600メートル、道の北側で早朝5時から昼過ぎの2時まで営業している西羅殿は、地元の人達が通う牛肉湯の店。一口サイズに切った牛肉をサッと熱湯に通し、細長く切った生姜に自家製の甘辛タレでいただく。
牛肉湯と小椀の肉燥飯(魯肉飯の同類)のセットメニュー(110元/396円)が名物で、店に明かりが点くと同時に客が姿を現す。

牛肉湯と小椀の肉燥飯(魯肉飯の同類)のセットメニュー牛肉湯と小椀の肉燥飯のセットメニュー。

腹拵えもできたし、さて出かけよう。
辺りはすっかり明るくなり店の前の公園南路を走り抜けるスクーターの数が一気に増えてきた。その公園南路を更に西へ。

西門路との交差点の手前に「檳榔」と大書した看板が立っている。看板の裏で檳榔を巻いている小父さんに声をかける。

『コンニチハ』
『ドコカラキタ? ニホンジンカ? オキナワカ?』

と檳榔を巻く手を休めて椅子を勧めて来る。
勧められた椅子に腰を下ろすと、巻き立ての檳榔を一つつまんで、

『ドウダ?』
『イエ、ヤラナイモンデ』
『ソウカ、ジャ、コレデモナメルカ?』

出されたのはキャンディーのようだが、これも丁寧にお断りする。
手を動かしながら『沖縄じゃなければ、日本のどこから来たんだ?』とか『台南には何度来ているんだい?』
と話しかけてくるのだが、汗も退いたしそろそろ道を進めたい。
仕事の邪魔をしたことをお詫びしながら、檳榔屋さんを後にする。

05_檳榔屋緑色のトレーの中が完成した檳榔。

西門路を左折、南下。
走ってくる車に煽られながら歩いていると、そこだけポカッと空が広い空き地の前に出る。
奥には、軒先に黄色い提灯を吊り下げた慎ましやかな小さなお寺がポツン。
提灯に書かれている字を繋げると『恭祝三山國王聖誕』と読める。
この小さな寺院は清・乾隆7(1742)年に建てられた「三山國王廟」で、正しくは「國定古蹟府城開基三山國王廟」と言う。
道教の寺院で、ここには台湾でも広く信仰されている「三山國王」が祀られている。
発祥は中国の広東省で、現在の廟は1996年に改修された建物。

三山国王廟:三山国王廟。三山国王廟。

西門路を挟んで三山國王廟の向かい側には、黄褐色の煉瓦に赤い瓦屋根を載せた二階建ての長い建物が、周囲を大王椰子に囲まれて建っている。日本統治時代の代表的な学校建築の立人国民小学(「校」は付かない)でその歴史は1898年まで遡ると言う。

成功路との交差点の辺りから粽の美味そうな匂いが流れてくる。匂いにつられて交差点を渡ると劉家粽子店の真ん前だ。
椎茸、卵黄、赤身肉、脂肉、栗が入った特製肉粽(55元/198円)で休憩。

小皿に載って出てきた粽がデカイ。
こぶし大のテトラパック形をした粽にはキナ粉と細かく砕いたピーナツがたっぷりかかっている。
竹串で割って頬張ると八角と椎茸が複雑に絡んだ香りに、ジワッと染み出る肉汁が嬉しい。
肉汁を吸い込んだモチ米は茶色になっている。
粽の上にかかっている黄色い粉はキナ粉ではなく、砂糖ほどではないが甘い粉だった。

牛肉湯と小椀の肉燥飯(魯肉飯の同類)のセットメニュー特製肉粽。

ポケットの小銭をカウターに並べたら54元しかない。他は1000元札と500元札だ。
500元札を出すと劉家のお姐さん、手を左右に振って小銭を出せと言い1元は負けてくれた。
西門路をさらに南へ。

西門円環で民族路に入り東に150メートルほど進むと、左手に見えてくるのが赤い瓦屋根の
赤崁楼、入園料50元(180円)。
1652年に起きたオランダ人と漢人の衝突事件「郭懷一事件」の後にオランダ人によって築かれた城跡で、元の名はProvintia(プロヴィンティア/普羅民遮城)、紅毛楼と呼ばれることもある。
鄭成功 (* 1) が1662年に台湾を占拠すると、プロヴィンティアは東都承天府と改められ、台湾全島の最高行政機関になった。
現在は国定古跡に指定されている。


赤崁楼内には鄭成功義和團の像を始め御贔屓碑(亀の背に乗せた石碑群)、海神廟、文昌閣、蓬壺書院などがあり、一番奥にはプロヴィンティア城跡も残されている。
牛肉湯と小椀の肉燥飯(魯肉飯の同類)のセットメニュー海神廟。

蓬壺書院の壁には小さな書架が数架並んでいたが、その一つに酷く傷んだ小学館の日本国語大辞典全十八巻が並んでいた。

賑やかに入園してきた15人程の小学生達とすれ違い、
赤崁楼を後にする。

赤崁楼の真向かいに建つ祀典武廟は、周囲を白い帆布で覆われて修復工事中だ。
中に入ることは叶わないのかと諦め半分で正面に回ると、そこは帆布がかかっておらず、中から線香の濃い匂いが流れていた。
祀典武廟前の僅かな空き地にはスクーターが所狭しと駐車している。

祀典武廟祀典武廟。

祀典武廟は関羽を祀る関帝廟で、ここは台湾の関帝廟の総本山。
明の永暦年間(十七世紀中頃)の建立と伝わる台湾最古の関帝廟だ。
軍神・関羽は財神としても祀られており台湾の人々から「商業の神」としても崇められている。

門を入り『人倫之至』と『大丈夫』の大きな扁額の下を本殿に向かう。
冥銭(紙銭)や赤色、白色、黄色、紫色の花々が祭壇からこぼれそうに供えられ、正面の赤ら顔の関帝がこちらを睨んでいる。
線香から昇る青い煙を長々と引きながら関帝にお参りする人は引きも切らず、その年齢層も幅広い。

廟の最奥、太祭殿の片隅に立派な髭に両眼から手が飛び出している小さな像を見つけた。
甲子太歳全辨大将軍の像で、成都の三星堆博物館で見た銅縦目面具を思い出した。
太祭殿に並ぶこれも小さな祠、月老祠には恋の神「月老公(月下老人)」が祀られており、 女学生が何時までも熱心に頭を垂れていた。

祀典武廟を出て直ぐ右手の細い小径、通っても好いのかと訝しむほど生活臭が溢れている路地は永福路二段227巷。
ここを遠慮せずに入ってゆくと直ぐに空が開けて廟の横手に出る。

二層の赤い瓦屋根を載せた大天后宮だ。
宮の前の空き地はここも駐車場然として、車とスクーターが我がもの顔に並んでいる。

大天后宮大天后宮。

広場の片隅には赤く大天后宮と刻まれた未だ新しい石碑が、大きな石彫りの亀の背に載っている。

大天后宮の天后とは海路の安全を守る道教の女神・媽祖のこと。
大天后宮は媽祖廟としては台湾最古とされ、国家一級古跡の指定を受けている。

中国・明王朝の末裔、寧靖王・朱術桂の府邸が前身で、鄭氏 (* 1) 政権崩壊後の1664年に創建され、1684年に媽祖廟として改築、同時に大天后宮と改称された。1818年に火災で焼失。
現在の建物は1830年に再建されたもので、台南大媽祖廟とも呼ばれている。

三川門や正殿の壁や梁に施された装飾、300 年以上も前に作られた媽祖像が見事。
後殿には媽祖の両親や月老公も祀られている。

大天后宮を背に永福路二段227巷を西進すると直ぐにT字路になる。新美街だ。
ここを左折して50メートルも行かないうちに開基武廟の前に出る。
門前から西門路に向かって真っ直ぐ伸びる小径は正門路二段300巷で、両側に民家が建ち並んでいるが、参道だろう。
90メートル程の参道を西門路に抜けて振り返ると関帝巷開基武廟と赤書された金属製の山門が参道の入り口を跨いでいる。

1669年に台湾で最初に建てられた関帝廟であるところから開基武廟と呼ばれている。
祀典武廟もその建立を十七世紀中頃としているので開基武廟と同じ頃に建てられていることになる。
開基武廟よりも広い祀典武廟を大関帝廟、規模の小さな開基武廟を小関帝廟と呼んで区別しているようだ。

開基武廟は第二次大戦中に連合国軍の爆撃で破壊されたが、大戦後、地元の手によって元の場所に再建され、その後数回改装されている。現在の建物は1976年に改装されたもの。
正殿の主要部分は嘗ての様子を残しており、1985年に台湾古蹟の指定を受けている。

開基武廟開基武廟​。

開基武廟の右(南)隣が花屋でその花屋の右にある細い露地を左折。
この細い露地にも永福路二段197巷と名前が付いている。塀の中に洗濯物が干してあったり、青く塗られた洒落た扉の郵便受けには、入りきれない広告やダイレクトメールが詰め込まれたままになっている。
こちらに怪訝な視線を向ける郵便配達員とすれ違う。

永福路二段197巷を抜けると永福路で、左手に先ほど立ち寄った祀典武廟が見える。
永福路を祀典武廟とは反対方向に20メートルも進むと民権路との交差点に出る。
うっかりしていると見過ごしてしまう交差点のマンホールが大井頭。
交差点傍のビルとビルの隙間の奥にもポンプで汲み上げている大井頭がある。

大井頭は台南市の指定古蹟で、嘗て台南が台湾の首都だった時代に、この界隈が重要な交通の要所で大きな井戸があったという所。
大井頭という名前はもともと井戸の隣にある埠頭という意味を表す地名だったとも伝わっている。

この井戸が何時開鑿されたのかその時期は不明だが、據高拱の台湾府史に明代・宣徳年間(1426 - 1435)に 鄭和と王景弘がここで水を汲んだと記されているそうだ。

民権路を渡って永福路を進むと左手に路地を挟んで華南銀行と台新銀行が並んでいる。
この路地が永福路二段152巷で、この路地に入って行くと陳徳聚堂の前に出る。

陳徳聚堂陳徳聚堂。

創設は明・永暦15年 - 37年(1661 - 1683)の間。鄭成功 (* 1) の右先鋒・陳澤が承天府に建てた邸宅「統領府」が前身。
陳氏の子孫が統領府を改築して宗祠とし「徳聚堂」と呼んだ。堂屋は日本統治時代末の戦火で焼失したが、台湾復興時に再建されている。2000年に修復工事が完了し現在に至っている。
陳氏宗祠とも呼ばれ、明朝・鄭東寧の総制斯使・陳永華の邸宅が前身という説もある。

永福路二段152巷を抜け忠義路を突っ切り、忠義路二段84巷に入ってゆくと台湾首廟天壇の前に出る。

台南天壇台湾首廟天壇。

地元の人には天公廟として知られる台湾首廟天壇は台南天壇とも呼ばれる道教寺院で、首廟とあるように台湾初の廟と言うことになっている。主祭神は玉皇上帝。
台湾主廟天壇が建つこの場所は、嘗て府城で最も尊い場所とされた鷲嶺で、元々、鄭王朝 (* 1) の吏員・明正朔が祭祀を行った空き地があった所らしい。

清・咸豊4(1854)年の創建、1893年に行われた大改修で現在の姿になる。
以来、現在の名称で市民に親しまれ、国定三級古蹟に指定されている。
廟に掲げられている「一」一文字の扁額は大変に珍しいが、台湾のことわざ「千算万算、天の一算に如かず」から来ている。
台南市三大扁額の一つとしてその存在は広く知られている。

台南天壇の右隣に接している武聖殿の本殿は階段を上った二階にある。
こぢんまりした廟で正殿は文衡聖帝(関聖帝君)を祀っている。文衡聖帝とは、文人としての関羽に付けられた神名。

さらにその右隣に太
殿があるが省略。

忠義路二段84巷から台南天壇の裏に回り鍵の手に進むと周囲に溶け込めない黒門に出会う。黒瓦を乗せた日本家屋の門だ。
門に下げられた大きな木札に「原鶯料理屋」とある。「原」は「元」の意で、日本統治時代の高級料亭「鶯料理屋」跡だ。
門をくぐると綺麗に手入れされた日本風の庭の奥に、二棟の二階建てが鍵の手に建っている。
2013年に台南市によってその一部が復元され、台南の新しい観光名所になったというのがここ。
門の外で通りかかる人に声をかけている、赤い上っ張りを着たこの屋のスタッフに尋ねると、今は台南料理が供されているとのこと。

原鶯料理屋:原鶯料理屋の門​。原鶯料理屋の門​。

「鶯料理屋」を通り過ぎると道は公園路にぶつかる。ぶつかる際の右角が正十八角形の建物とその中心から白い塔が伸びている旧台南測候所。その形から「胡椒管」とも呼ばれる。
1898年落成、日本統治時代初期に作られた大型建築物の一つで、台湾における現代気象観測の普及の地でもある。
1998年に台南市市定古跡に、2003年に国定古跡になっている。

元台南測候所の角を右折、元台南測候所に接して台湾南区気象中心が建っている。
台湾南区気象中心の真向かいに建つ端正な白い姿の教会が眼を惹く。
英国長老教会が1902年に建てた太平境馬雅各紀念長老教會(太平境基督教会)で、1865年に最初に台南に来たという宣教師マクスウェル(馬雅各)を記念して「馬雅各記念教会」と名づけたそうだ。

太平境基督教会太平境基督教会

公園路から民生緑園(湯徳章紀念公園)のロータリーを経由して中正路に入り度小月で休憩。
入り口を入ると、ぶつかりそうな所に据えられた釜から盛大に湯気が出ている。
釜の側に低く腰掛けた店員が麺を茹でては小鉢に放り込んでいる。
この光景、台北の度小月忠孝店でも出会っている。
カウンター席に座って頼んだ台湾ビール60元(216円)は缶ビールだった。
他に担仔麺50元(180円)、腸詰め120元(432円)、牡蠣フライ160元(576円)が歩きづめで空になった腹に収まる。

中正路が民生緑園のロータリーにぶつかる角に建つ古い大きな建物は国立台湾文学館。
日本人建築家・森山松之助が設計した旧台南州庁舎で、国定古蹟に指定されている。
日本統治時代には台南庁庁舎、後に台南州の行政組織が置かれたほか、州轄市としての台南市庁も兼ねていた。
戦後は台南市政府庁舎として1997年まで使われ、1998年に市定古蹟の指定を受けて、修復・拡張工事が始まり、2003年に国定古蹟に昇格。
現在は国立文化資産保存研究センターと国立台湾文学館として運営されている。

国立台湾文学館:国立台湾文学館。​<国立台湾文学館。​

民生緑園のロータリーから中山路に入ると台南車站に向かう車線が全て規制され、赤白の幔幕テントが道を覆っている。
テントの下には鞍を付けた白馬と栗毛の馬が一頭ずつ。この界隈、お祭りらしい。
手綱を持つお兄さんから『馬に乗らないか』と聞かれたが、ここで馬に乗っても面白くもない。
何のお祭りなのか、馬の手綱を持っているお兄さんに訊いてみた。
開隆宮の「七星娘娘」の聖誕祭なのだという。

なるほど赤白天幕の横の、あでやかな色で飾られた廟の門に「開隆宮做16歳開始報名了」と書かれた、これも赤い横断幕が下がっている。開隆宮の入り口だ。
この宮の主祭神は七星娘媽(七星娘娘のことらしい)といわれる七柱の女神たち。

開隆宮祭開隆宮の主祭神・七星娘媽。

七星娘媽は中国の七夕伝説の織女(正確には織女とその姉六名ということらしい)にあたる。
中国の織女は地上の牛郎と恋におちたが、相手の牛郎は恋ボケで仕事をさぼってしまう。
これが天帝の怒りをかい、織女に一年に一度しか逢えなくなってしまう。

中国版の七夕伝説ではこの二人の間に子どもがいたことになっている。その子どもは織女達が引き取って育てたという、何とも人間臭い天界の話だ。そんな彼女達を人々は子どもを護る神として信仰するようになり今日の「做16歳」に繋がっているようだ。

1732(雍正10)年創建の廟で浙江省(山東省という説もある)に繋がりを持つらしい。創建当初は七娘媽廟と呼ばれたという。

廟の門にあった横断幕の「做16歳」とは台湾旧暦の七夕に行う16歳の成人式のことで、七夕祭りにバレンタインデーも重なっているという。

中山路を真っ直ぐ北上、台南車站前に戻って来た。

* 1) 鄭成功(1624 - 1662)
中国明代の軍人で政治家。福建省泉州市出身。清に滅ぼされようとしている明を擁護して抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭一族政権の祖となった。オランダ軍を討ち払ったことから孫文、蒋介石と並び「三人の国神」として尊敬されている。

タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
ぬらくらは、ダイナフォント News Letter(ダイナコムウェア メールマガジン)にて連載中です。
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PROFILE●1942年東京都生まれ。1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
Blog:mk88の独り言

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