明朝体漢字活字の開発 連載第15回
小宮山博史
連載第16回へ続く 〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉 illustration: Mori Eijiro
幕末に美華書館と深い関係があったのは北米長老会宣教医のヘボン(James Curtis Hepburn)と岸田吟香(きしだ・ぎんこう)です。本木昌造(もとき・しょうぞう)が美華書館の技術を導入するために前館長ウイリアム・ギャンブル(William Gamble)を長崎に招聘するのはもうすこしあとになります。
岸田吟香とヘボンの出会いとその後の交わりは、吟香が目を病み横浜谷戸橋(やとばし)際の施療所でヘボンの治療を受けたことに始まります。ヘボンが眼病の名医だと話したのは友人の箕作秋坪(みつくり・しゅうへい。蘭学者)で、吟香はさっそく江戸をたち、横浜外国人居留地39番のヘボンの施療所を訪ね治療をうけました。長いあいだ吟香を悩ました眼病も1週間ほどで完治します。
岸田吟香はのちに口語文を駆使し東京日日新聞の名物記者として名を馳せますが、その新聞記者時代と新聞の変遷を記したのが毎日新聞社社史編集室の杉浦正(すぎうら・ただし)さんの『新聞事始め』(毎日新聞社、1961年)で、このエピソードは本書の冒頭に記されています。
吟香は「予始めてヘボン先生に逢いて其徳高く、行い正しく靄然(あいぜん。穏やかなさまの意)として君子の風あるに感じ、深く敬慕の意(こころ)あり」とヘボンを見、ヘボンもまた吟香の豊かな学識に驚き、和英辞典の編纂に力を貸してくれるよう頼みます。ヘボンの日本初の本格的な和英辞典『和英語林集成』は吟香の協力もあって完成を見ます。印刷は上海美華書館です。
写真は居留地39番のヘボン邸。手前の橋は谷戸橋(やとばし)で、渡った左角の寺院風の屋根を載せた家がヘボン邸です。写真には写ってはいませんが橋の手前は今の元町になります。撮影はベアト(Felix Beato)。横浜港に停泊する艦船は、長州下関砲台を攻撃するための4ヵ国艦隊といわれています。
岸田吟香が上海滞在中に綴った記録が『呉淞(ウースン)日記』です。全6冊のうち第一、二、四之冊は失われ、第三、五、六の3冊が現存しています。
岸田吟香、本名は辰之治のちに太郎。慶応2年12月29日の日記に吟香という名前の由来を次のように書いています。
「そののちにだいミやうの處へかゝへられて、そのだいミやうのむすこに辰といふのがあるから辰といふ字をとりのけて太郎ばかりにして、きしたのたらうとよびしを四五年まへにそのだいミやうのやしきをもにげだして、きまゝにくらす方が一生のとくとおもひついて、それからまゝよのぎんと名をかへたが、ぜんたい吟香といふ名ハ陸放羽の吟至梅花句亦香といふ句から取つたのでハなし。やしきを出てからあんまりあそびすぎて、かみも何もなく成てしまつて、深川のかりたくへ奉公にはいツた時、そのだんな様が名ハなんといふときいたから、口から出まかせに銀次と申しますといふたのがはじめなり。扨そのほうばいのものが銀公ぎんこうといふから、そのぎんこうで今までゐるなり」
いいかげんに銀次と名乗ったところ朋輩が銀公とよびならわしたため、その「ぎんこう」を使ったといっています。
『和英語林集成』(1867年刊)を上海県城小東門外の美華書館で印刷するためにヘボンと岸田吟香は上海に渡りました。しかし二人が上海のどこに滞在していたかはわかっていません。わたしは『日本語活字ものがたり』(誠文堂新光社、2009年)で美華書館の中にあると思われる外国人用宿舎、あるいは南門外の長老教会清心堂に滞在していたのではないかと、ただの想像で書きました。『呉淞日記』の第一之冊の始めには滞在先が書かれていたと思うのですが、その冊は失われています。
しかし宿舎がどこにあったのか気になりますので、残されている『呉淞日記』(『岸田吟香『呉淞日記』影印と翻刻』山口豊編、武蔵野書院、2010年)の記述を頼りにヘボンと吟香が滞在していたと思われる場所を探ってみようと思います。本書には現在行方がわからない第二之冊の翻刻も載っています。これは昭和6年に『社会及国家』に掲載された原本図版からおこしたものだそうです。
『呉淞日記』原本には句読点がなく改行や字間をあけることで文章を切っています。『社会及国家』から翻刻された第二之冊は句読点を加えていますので、引用は翻刻原文通りにしてあります。
以下は『呉淞日記』のなかで『和英語林集成』の印刷にかんする記述と、宿舎を想像できる記述、そしてヘボンの長老会海外伝道部宛の書簡を引用したものです。ヘボンの書簡は『ヘボン書簡集』(高谷道男編訳、岩波書店。1979年第4刷)、『ヘボン在日書簡全集』(岡部一興編、高谷道男・有地美子訳、教文館。2009年)によりました。
ヘボンよりラウリー(Walter Lowrie)博士宛書簡 1866年9月4日(慶応2年7月26日)
「わたしは辞書の印刷のため、来月上海に行く予定です。来年の夏頃まで、そこに留まるかもわかりません。アメリカの友人の一人で、ウォルシ・ホール商会のウォルシ氏から、親切にも辞書の印刷出版に必要な一切の資金を立替えてくれました。そしてもし収支つぐなえない場合に、あらゆる金銭上の損失を負担してもよいとの申し出がありました」
ウォルシュ・ホール商会( Walsh, Hall & Co.) は横浜に設立されたアメリカ系総合商社です。横浜開港資料館が編纂した『図説横浜外国人居留地』(有隣堂、1998年)にはウォルシュ・ホール商会を次のように紹介しています。
「ウォルシュ兄弟はニューヨークの出身、上海のラッセル商会で貿易に従事していた。まず弟のジョン(Walsh, John)が開港直後の長崎にウォルシュ商会を設立し、横浜では兄のトーマス(Walsh, Thomas)がフランシス・ホール(Hall, Francis)と組んで、1862年4月19日にウォルシュ・ホール商会を設立した。居留地の二番に位置するが、日本人には国籍別商館番号の「アメリカ一番」の名で知られた。明治初期には吉田新田の埋立てや外米の輸入を行った。184番に茶の再製工場を持ち、その輸出に従事している。また1875年に神戸製紙所(のち三菱製紙)を設立、洋紙製造の先駆者となった。これには弟のロバート(Walsh, Robert)が経営に参加している。1890年トーマスがイタリアのフィレンツェに引退し、1897年にジョン、1901年には幹部社員のゲイ(Gay, Arthur Otis)が死去、1902年に清算された。」
ヘボンの手紙からトーマス・ウォルシュが『和英語林集成』の出版費用のすべてを立替えたことがわかります。そして販売が不調であって金銭上の損失がでてもそれを負担するという申し出は、ヘボンをどれだけ力づけたか想像にかたくありません。横浜市歴史博物館学芸員の石崎康子さんのお話では、トーマス・ウォルシュは元宣教師であったそうです。
『呉淞日記』第二之册 慶応2年丙寅12月8日(1867年1月13日)
「虹橋のうへまでかへり来て、遥かに淞江を見渡せば、甚よいけしきなり。ひろい川のうへに、うすけむりがたちこめて、船の火があちこちに見えかくれして、月かげがほのぐらくて、風はさむくもなくて、春の夜のやうなり。さて寓居にかへりて、いろいろの事をして、此日記をいまかいてしまうときに、十二點鐘なり。やれやれねやうねやう」
いま読むことのできる『呉淞日記』で、宿舎の場所を記した最初のものです。
この日昼から小東門外の美華書館に行き、そのあと大馬路(ダマロ)に住む人を訪ねて酒を飲み宿舎に帰ります。就寝は12時です。第二之冊の翻刻のこの「此日記をいまかいてしまうときに、十二點鐘なり」は「此日記をいまかいてしまう。ときに十二點鐘なり」ではないかと思われますが、原本が失われているために対照できないのが残念です。
大馬路は南京路の通称です。蘇州河の南、外灘(ワイタン。バンド、Bund)から西へ延びる道は、まず北京路、次に上海のメインロードである南京路となります。そこから南に二馬路の九江路、三馬路の漢口路、そして「夢のスマロかホンキュウの街か」と歌謡曲で歌われた四馬路(スマロ)は南京路から4本目の福州路をさしています。解放前の福州路は歌にあるように日本人にとって歓楽街のイメージが強いのですが、実際は書店と薬屋が建ちならぶ文化街でした(『福州路文化街』上海市黄浦区档案局編著、主編胡遠杰。文匯出版社、2001年)。
この地図は昭和7(1932)年発行の「最新上海地図」の部分を拡大したものです。
蘇州河と黄浦江が合流する地点にかかる木橋が Garden Bridge(外白渡橋。後に鉄骨橋になるが現在は撤去されている)です。北流する黄浦江はここで向きを東に変えます。北岸には各国領事館がならび、その右が日本郵船会社碼頭があります。外白渡橋北詰から東へ500メートルほどのところに南流する虹口(ホンキュウ)港(虹口クリーク。黄浦江に合流する川)があり、その川に「虹橋」(ホンチャオ)という橋がかかっていたようです(いまの大名路橋。租界時代この道は百老匯路(Broadway Road)とよばれていました。
現在の虹口クリーク下流の黄浦江寄りには、外虹橋、中虹橋、裏虹橋の3つの橋が架かっています。『上海掌故辞典』(上海辞書出版社、1999年。「掌故」は故実の意)によれば、1880年代に工部局が百老匯路に橋を架けて百老匯橋あるいは虹口港橋と名付け、引き続いて熙華徳路(いまの長治路、Seward Road)橋、漢壁礼路(いまの漢陽路、Hanbury Road)橋を架け、外虹橋、中虹橋、裏虹橋と呼ばれるようになったとあります。上海語の習慣用語で「外」は下流、「裏」は上流にあたるそうです。吟香の日記は1867年ですからまだ3つの橋は架かっていませんでしたし、「虹橋」とだけ書いていますので、虹口クリーク下流にはこの橋しかなかったのでしょう。
確認のためにヘボンと吟香が滞在していたころの虹橋あたりの地図がないか探したところ、『上海歴史地图集』(上海人民出版社、1999年)がありました。
この本には1864年から1866年の黄浦江北岸の地図が載っており、それを見ると川は南流する虹口クリークだけでなく、その西隣りに並行して流れる川が描かかれています。この二本の川に挟まれた中洲がありそれをわたる百老匯路(大名路)には二つの橋が架けられていますので、吟香はこの二つの橋を渡ったのでしょう。名前がかかれていない細い川は虹橋のすぐ南で虹口クリークに合流しています。この細い川は埋めたてられたらしく現存していません。
吟香は虹橋のうえまで帰ってきたら淞江(黄浦江)が見えていい景色だと書いています。橋から黄浦江まで150メートルほどです。
東流する蘇州河をはさんで南がイギリス租界、北がアメリカ租界で、1863年二つの租界は合併し共同租界になります。この日記の記述から吟香の宿舎は虹口地区の旧アメリカ租界で、虹口クリークに架かる虹橋を渡ったどこかにあったと思われます。
虹口は蘇州河と黄浦江以北の地域をさし、戦前は日本人が多く住んでいたところです。
1900年初頭には美華書館の印刷工場も北四川路と交差する虹口クリークに架かる横浜橋の北に建てられました。
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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