小宮山博史「活字の玉手箱」
2018年08月30日

明朝体漢字活字の開発 連載第14回

小宮山博史

1875年北京路18号に移転。
『ミッションプレス50年史』には “18 Peking Road” と移転先を記述していますが、それが現在の地番でどこに相当するのかはわからないでいました。若い地番であり、北京東路の中山路側入口に近いところ、現友誼商店あたりであろうと考え、また書いていましたが、上海市档案館の薛理勇先生は友誼商店に出向かれ店史を調べられ、また1898年の石版地図『新絵上海城廂租界全図』の中に美華書館の表示を見つけられました。
 上海図書館編『老上海地図』(上海画報出版社、2001年)に収録されている同全図で確認したところ、江西中路以西の靖遠里(靖遠里は北京路から蘇州河に抜ける小道に面した町名。現北京東路288弄)の東隣に確かに「美華書館」と表示された建物があります。


明朝体漢字活字の開発連載第14回画像1
明朝体漢字活字の開発連載第14回画像2

 同書収録の1866年の『上海英租界図』でこの場所を見ると「北京路147号」で、建物の名称は表記されていませんが北京路に面して広い庭があり、その奥にL型を90度左に倒した形の大きな建物が描かれています。この建物は黄浦江から西へのびる北京路と並行に建てられており、その右(東側)に南北に長い一棟がつながっています。前出宮坂さんは論考の中で北京路の美華書館の規模を次のように書いています。

「本館は全長89フィート、奥行き47フィートの3階建て。建物の右側は後方へ47フィートのウイングが延びている。本館のすぐ後ろは、幅12フィートの通路で隔てて、72×46フィートの2階建ての建物がある。ビルは12年前に商人の家として建てられたもの」。「本館は南向きで道路から80フィート後ろに立っているので、前方には広い土地がある。右側は広く舗装された路が蘇州河まで延びており重いものはそこで陸揚げされる」

「右側」とは建物から北京路を見て右側で、舗装された路は靖遠里横町のことです。写真で見ても美華書館はこの建物をそのまま使っているようです。北京路に面した門柱の左に「美華書館」とあり、その上のアーチには OFFICES &/ SALES ROOM /PRESBYTERIAN MISSION PRESS と書かれています。門の向こうには3階建ての本館が見えます。門と本館の間には広い空間があります。アーチの左(西側)にレンガ作りの鐘楼と教会が建っており、写真下の説明には LOWRIE MEMORIAL CHURCH(ラウリー記念教会)と書かれています。本館の写真は鐘楼か教会の2階から撮影されたようです。
 美華書館本館の写真と美華書館入口の写真は撮影時期が異なり、本館の写真が先に写されたものです。たぶん19世紀後半で、入口の写真は20世紀に入ってから撮影されたものだと思います。


明朝体漢字活字の開発連載第14回画像3
明朝体漢字活字の開発連載第14回画像4


 同じ場所でありながら1895年刊行の50年史がいう「北京路18号」と、1866年刊行の地図が記す「147号」の関係はどうなっているのだろうか。1947年の住宅・商業地図で見るとここは塩業銀行です。1924年刊『上海案内』では塩業銀行の地番は「北京路16号」となっています。

明朝体漢字活字の開発連載第14画像5


 北京路の美華書館の内部写真が少しあります。ここには活字鋳造室や欧文文選室、印刷室、製本室などが写っています。最初の一枚が活字鋳造室で、窓側に排気筒をつけた手回しの鋳造機が見えます。中央には左手でヤスリを立てている4人がいますが、これは鋳造した活字の尻に飛び出しているゼイ片(ジェット・ピース  jet piece)を折ったあとをヤスリできれいにしているものと思われます。窓の形から北京路の建物であることがわかります。

明朝体漢字活字の開発連載第14回画像6
明朝体漢字活字の開発連載第14回画像7
明朝体漢字活字の開発連載第14回画像8
明朝体漢字活字の開発連載第14回画像9
明朝体漢字活字の開発連載第14回画像10
明朝体漢字活字の開発連載第14回画像11

1902年北四川路135号に印刷工場を建設。
 1902年から3年にかけて収益で購入しておいた北四川路の土地に印刷工場を建設します。印刷工場の場所は20世紀初頭の各種上海案内によって「北四川路135号」であることがわかります。では北四川路135号は現在の地番ではどこに相当するのか。前出の李恒春は「北四川路横浜橋(富吉堂北)」といい、『晨報』記者柯恩声は「永安電影院の北側のすぐそばで、日本人小学校の跡」といいます。この証言を頼りに上海図書館と上海市档案館で資料を探し、現地調査を何回かしてみました。
 下図は『上海歴史ガイドマップ』(大修館書店、2011年第3版)の虹口の横浜橋周辺の地図です。


明朝体漢字活字の開発連載第14回画像12
明朝体漢字活字の開発連載第13回画像1

 旅滬広東教会富吉堂の資料は上海市档案館にあり、その中に1917年の創建時と正面を改修したあとの写真が収録されています。2人の証言と調査からここは北四川路旧ワトソン清涼飲料水工場、のちの上海歌舞伎座(解放後は永安電影院。現在は海虹永安商厦)の北側、北部日本人小学校に隣接しているところ、現在の虹口区教育学院実験中学の校庭とその東隣の四川北路小学のサッカー場がその場所であることがわかりました(図中赤い丸で囲んだところ)。
 海虹永安商厦の北側の狭い道を東に向うと四川北路小学の通用門と守衛所があり、その前に使われていない教会の建物がありました。档案館の資料で見た改修後の富吉堂であることはすぐわかりました。
 西面する教会の前はそれほど広くはない広場になっており、その前にレンガ造りの2階建ての牧師館がそのままの外観で残っています。現在の牧師館の1階の外観は改修されていますが、わたしが初めて富吉堂に行ったときは、2階と同じようにレンガの壁面でした。牧師館の右が四川北路小学の通用門と守衛所です。


明朝体漢字活字の開発連載第14回画像14
明朝体漢字活字の開発連載第14回画像15
明朝体漢字活字の開発連載第14回画像16

 守衛所で許可を取り富吉堂の内部を見学したときは、まったく使われておらず廃虚そのものでしたが、2階正面には少し高くなった祭壇らしきものをぼんやりですが見ることができました。現在は写真に見るように四川北路小学のバドミントン場として使われており、少し高い祭壇のあとがそのまま残されているのがはっきりわかります。1階の後ろは四川北路小学の給食調理室として使われています。

明朝体漢字活字の開発連載第14回画像17

 印刷工場の建設当初は北四川路から東に2階建の外人用宿舎、中国人用宿舎5棟、印刷工場、教会と並んでいました。印刷工場の周辺には人家はなく荒涼とした景色が広がっています。1917年頃の写真では中国人用宿舎はなく、そこに2階建の宿舎が作られ、東に向って教会、守衛所、印刷工場、そして牧師館が見えます。敷地全体は2メートル程度の高さの生垣や塀で囲まれているようです。印刷工場の建物は南面しており、西側面は広東教会富吉堂の牧師館(東面している)の前面と同じ位置にあります。

明朝体漢字活字の開発連載第14回画像18
明朝体漢字活字の開発連載第14回画像19
明朝体漢字活字の開発連載第14回画像20

 北四川路に面した南の角にアーチを持つ入り口があり、そのアーチは上下3行で「美華書館印刷所/PRINTING HOUSE/PRESBYTERIAN MISSION PRESS」と印刷所名を表示しています。アーチから先は印刷所入口への私道で印刷工場の守衛所の前に出ます。この私道は現在の四川北路から四川北路小学の守衛所につながる小道らしい。印刷工場の間口は50メートル奥行21メートルで、この後ろに間口46メートル奥行7メートルの製本工場の建物が近接して建っています。
 印刷工場の後ろには初代北部小学校が建っていました。初代校舎を設計したのは東京築地活版製造所の経営を軌道に乗せた平野富二の養子となった平野勇造です(平野は日本の上海総領事館も設計。現在は人民解放軍の施設)。現存する建物(教育学院実験中学。下図)は二代目で、ノルウェー人の設計で1917年に現在の場所に建てられましたから、建築時点ではその前面に印刷工場の付属施設が並んでいたことになり、富吉堂は建設途中か竣工直後でした。北京路の建物は編集所・倉庫として使っています。


明朝体漢字活字の開発連載第14回画像21

 1930年前後の出版と思われる上海美術風景片公司製の絵はがきに、日本人北部小学校を北四川路側(現在の校門あたり)から撮影した1枚があり、印刷工場を囲んでいる北側の塀と高い生垣が写っています。それは校舎と四川北路小学の守衛所に続く小道のほぼ中間で、校舎と並行して東西に延びています。この絵はがきでは、塀と生垣の奥にあるはずの奥行き7メートルの2階建ての製本工場は見えません。塀と生垣が切れた少し先(現在の実験中学と四川北路小学の境あたりか)まで校庭が続いています。
 1923年美華書館と華美書局は合併し、協和書局 Mission Book Co. を設立し北京路の建物を総局とします。華美書局は1902年上海のメソジスト管理会と福州美以美会が協力して、呉淞路10号崑山路角に作った印刷所です。
 美華書館印刷所の南、海寧路300号には芦沢民治、駿之助父子が経営する芦沢印刷所がありました。芦沢印刷所は上海の日本人経営の印刷所の中で最も優れた印刷技術を持っていたといいます。また宋朝体と漢文正楷書体を日本の活字メーカーが導入するにあたって、力を貸した印刷所として活字史に名を残しています。芦沢印刷所は日本の敗戦によって上海市に接収され、市の印刷廠となりました。


明朝体漢字活字の開発連載第14回画像22
明朝体漢字活字の開発連載第14回画像23

 10年ほど前に旧芦沢印刷所を探しに行ったことがあります。当時の海寧路300号は道に面して小さな商店が建っており、旧芦沢印刷所の建物は表通りからは見えませんが、その奥に当時のままの煉瓦造2階建ての建物が現存していました。玄関もたぶん昔のままで、硝子の入った両開きのドアをあけると4段ほどの階段があり、その奥は広い部屋で事務室であったかもしれません。芦沢印刷所の北隣には旧本圀寺上海別院、旧西本願寺別院が現存していました。

1930年12月31日経営不振により閉鎖。
 上海に上陸して以来、優れた印刷技術と機材で印刷界を主導してきた美華書館も、20世紀初頭から台頭してきた商務印書館などの中国人経営の印刷所に価格などで押されはじめ、経営に翳りが出てきました。上海における中国人による印刷業への参入については、現在西安の西北大学美術学院准教授孫明遠さんの精緻な博士論文で知ることができます。それによれば1910年代から30年代にかけて235社が参入しています。中国人経営の最大の印刷・出版企業が商務印書館です。商務印書館は教会清心堂が経営する学校清心書院の卒業生4人が1897年に設立したもので、順調に業績を伸ばし1907年には北四川路の美華書館印刷工場の西の宝山路に壮大な総廠を建設するまでになっていました。
 美華書館はその性質上採算の取れない宗教書を印刷販売しなければならない役目があります。安い賃金で工員を雇い採算だけを考えればよい中国人経営の印刷所や、日本人経営の印刷所にかなうはずはありません。時代は遥かに先を進んでいます。美華書館が担ってきた宗教書の印刷は、商務印書館や中国人印刷所で安く印刷できることがわかり、教団は館の閉鎖を決め、1931年土地・建物・設備を売りに出します。設備を購入したのは美華書館で働いていた中国人クリスチャンでした。
 廃業して3年後の1934(民国23)年に刊行された『小朋友作文指導』の奥付には「排印者美華書館」とあります。新聞出版署特別顧問王益先生の記憶では、これは旧共同租界愛而近路(Elgin Road、現安慶路)にあった美華書館で、中国近代印刷史研究の何歩雲先生が1935年から36年にかけて書籍を印刷していたことがあり、王益先生が1949年に上海に行ったときにはすでになかったといいます。こちらの美華書館は1930年に閉鎖された北米長老会印刷所の機材を中国人が購入し、名前を継承したのではないかと王益先生はおっしゃっていました。中国人クリスチャンというのがこれにあたるのでしょうか。
 同じ1934年に上海伯特利(DETHEL)出版から刊行された雑誌『聖潔指南』の印刷所は「新美華書館」ですがが、住所の記載はありません。また青年協会書局が刊行した『城市道運動的原理和方法』も新美華書館の印刷ですが、住所は上海蓬路A1号15弄10号となっています。蓬路は現在の塘沽路です。
 これらの書籍資料は上海市档案館(公文書館)が収蔵しているものですが、わたしが档案館に通っていたときは複写のサービスはありませんでしたので、図版を見せられないのが残念です。

 北米長老会印刷所の中国での稼働期間は88年でした。


 

連載第15回へ続く

〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜開港資料館収蔵本による〉

 
小宮山博史イラスト

illustration: Mori Eijiro

● 小宮山博史
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
小宮山博史「活字の玉手箱」 記事一覧
連載にあたって
第1回はこちら
第2回はこちら
第3回はこちら
第4回はこちら

第5回はこちら
第6回はこちら
第7回はこちら
第8回はこちら
第9回はこちら
第10回はこちら
第11回はこちら
第12回はこちら
第13回はこちら
 

次 : 明朝体漢字活字の開発 連載第20回   
前 : 明朝体漢字活字の開発 連載第18回