黄、オレンジ、赤、茶・・・・・、カラフルで種類も豊富な香辛料は
そのどれもが魅力的だ。
インドの文化も香辛料のように多様性に富み、各地域で
独自の文化を発展させてきた。
活気に満ちあふれた市場では、金色や真っ赤に輝く香辛料が香りを放ち、
訪れる人々の心を刺激し、掴んで離さない。
南アジアの熱帯地域に位置するインドは香辛料が豊富に存在している事で知られており、現地の料理は幾種類もの香辛料で味付けされています。インドを訪れる旅行者は、混ざり合った香辛料が放つ鮮烈な香りに五感を刺激され、惹きつけられることでしょう。現地の人たちは、こうした様々な香辛料を混ぜ合わせた調味料を「マサラ」と呼んで使用してきました。
この「マサラ」同様にインドという国もまた、多民族や多言語、多宗教といった様々な要因が混じり合い重なり合って発展してきた国家といえるでしょう。
多面性を持った国 インド
インドといえば、「カレー」「ボリウッド」「神秘的な神々」などをイメージする人が多いかもしれませんが、それらはインドの一面に過ぎません。インドという国の文化は深く掘り下げる程に多様で複雑な一面を見せ、各地域の歴史に基づいた言語と習慣を知れば、これまでインドに持っていた固定観念が砕かれてしまう事になります。
▲英語とタミル語の2か国語が使用されているシンガポールの道路標識
インドには地域毎にそれぞれ異なる文化が複雑に存在しています。
言語を例に挙げると、インドには公的に認められている指定言語でも22種類あり、そこに方言も含めると実に1,600余りの言語が存在しています。言語の種類の多さに驚かされてしまいますが、インドの紙幣も複雑で、一般的に使用されているヒンディー語と英語以外に裏面には各地域で使用されている15種類の言語が記されています。
またインドには全ての地域で通用するような言語は存在せず、使用人口が最も多いヒンディー語ですら全体の40%に満たない人にしか母語として使用されていません。政府や学校など公的な場所においても複数の言語の併用か英語でコミュニケーションを取っている状況です。その複雑さを示す例として世界的に有名な某炭酸飲料水の広告でも南インドとインド北部地域では異なるイメージキャラクターが採用され、それぞれ別々の言語でPRを行った程です。
また、南インドはインド洋とベンガル湾に面しており、人々が航海技術に精通していたことと外交的な民族性から、言語もまた外の世界に向かって伝わることになりました。そのため現在では30余りの国々で使用されるようになり、シンガポールでもタミル語を公用語の1つとして採用しています。
タミル語を研究する言語学者の間では、タミル語は「世界の言語」と認識されています
▲古代インドやミャンマーなどの地域ではコウリバヤシの葉に仏教の経典を書いていたことから「貝葉経」と呼ばれています。
熱帯地域に生息するシュロの葉が丸い文字を生み出した
古い歴史を有するタミル文字は、大小様々な丸い形の文字の組み合わせでできているので、思わず「これは落書きですか?それとも文字ですか?」と質問したくなってしまうほどです。しかし実はこうしたタミル文字の特徴には、れっきとした由来があります。もともと南インドとスリランカは熱帯に属しており、ヤシの一種であるコウリバヤシが数多く生息していることから巨大な葉を筆記媒体として活用していました。
横向きに流れる葉脈に合わせて、文字を書く際に葉が破れないように丸い形の文字へと変化したのです。隣国のミャンマーでも早期の頃は葉に文字を書いていたため、同じように文字が丸くなるなどの影響がありました。
タミル文字の構造は、現在わずかに残る「貝葉経」からも分かる通り、気候が大きく影響しています。近代において、伝統的なタミル語を改革したいという意見が出ましたが、タミル語を母語とする人々にとって文字の存在自体が誇らしいものであり、完璧なまでに滑らかな弧線や文字全体が織りなす何とも言えない美しさを有する言語を容易に変更することは許されませんでした。
「貝葉経(ばいようきょう)」とは?
早期のインドとミャンマーでは、仏教を布教しやすくするために宗教の教義を葉に記していました。そして貝葉経は仏教が広まるにつれてアジア各地で作られるようになり、唐代の玄奘(げんじょう)が白馬寺に持ち帰ったものこそが、この貝葉経です!
ミャンマーや雲南などの地域では現地の言語で書かれた貝葉経が現在も残っていますが、この貝葉経の制作は実はとても手間がかかります。
巨大な葉を切り取り、煮沸、乾燥、研磨、裁断、穴あけ、書写、インクの塗り込みなどを経て、最後に何枚もの葉を重ねて冊子化します。側面には防虫効果を高めるために漆を塗り、金粉もまぶされています。 |
*タミル語の改革
以前、タミル語の改革を行い、より書きやすく学びやすい文字にしたいという意見が出たことがありました。しかし改革を行えば、タミル語の伝統文化が終わりを告げることになります。歴代の指導者達も伝統を壊して批難を浴びせられることを恐れ、誰一人としてこの厄介な問題に手を付ける事はしませんでしたが、1979年になりようやくE.V.ラーマサーミの提案によってタミル語の改革が行われました。このとき発案から既に40年余りの時が経過しており、タミル語の改革が容易ではなかったことを改めて垣間見れます。 |