明朝体漢字活字の開発 連載第13回
小宮山博史
連載第14回へ続く 〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉 illustration: Mori Eijiro
アメリカ長老会印刷所 American Presbyterian Mission Press は東アジアの活字印刷の進歩に大きく寄与しましたが、影響の大きさにくらべその知名度は最近まで高くありませんでした。ここで美華書館についてわかっていることを書いておこうと思います。
中国に展開する長老会印刷所が最初に中国語で紹介されたのは、1931(昭和6)年の商務印書館創立35周年記念出版『最近三十五年之中国教育』の中の「三十五年来中国之印刷術」で、執筆は賀聖鼐(がせいだい)という女性です。この記事は昭和16(1941)年『印刷雑誌』1月号に華中印書局の杉山憲一によって翻訳掲載されます。これが美華書館が日本に紹介された最初でした。賀聖鼐の文章は1895年刊行の『MISSION PRESS IN CHINA』(ミッションプレス50年史)を引用したものです。この引用は短いものでしたが、近代漢字活字印刷史にとってきわめて重要な内容を含んでいました(引用は原文のまま。ただし旧字体は新字体に改めた)。
「道光二十四年(西暦一八四四年)アメリカ長老会は、花華聖経書房を澳門に起し、アメリカ人リチャード・コール(Richard Cole)担当し、印書の必要上ダイアーの字母を引き継ぎ刻字し、書籍印刷に当りたり。この時完成された字の大いさは現今の四号であって、香港にて製造されたるため、一名「香港字」とも称するのである。
新法に依る字母 翌年花華聖経書房は寧波に移り、美華書館と改め、一八五八年アメリカ長老会は、ウイリアム・ガンブル氏(William Gamble)を来寧せしめ美華書館の印刷事務に当たらせた。」
(賀聖鼐執筆「三十五年来中国之印刷術」の該当部分の原文。「道光二十四年(即西暦一八四四年)美国長老会設花華聖経書房於澳門, 以美人谷玄(Richard Cole)主其事, 谷玄以印書之需要, 乃以台約爾(引用者註:台約爾、サミュエル・ダイア Samuel Dyer)之字模継続鐫刻, 広印書籍, 更作小学及数目等共数種。是時他處印書購用華文鉛字, 悉於此取給。当時刻成之字, 其大小與今之四号字等。因其製於香港, 故又称之謂「香港字」。新法字模 翌年, 花華聖経書房遷至寧波, 並改名美華書館。一八五八年美国長老会遣姜別利氏(William Gamble)来華主持寧波美華書館印刷事務, (以下略)」)
「花華聖経書房」は「華花聖経書房」の間違い、寧波に移転して美華書館と名乗ったのも間違いです。「花華」と順序が逆になっているのは、この印刷所が印刷した聖書や書籍の扉に縦組で「聖経書房」、その上に双行(横組1字2行)で「花華」と組むものがあり、ついうっかりして右から読むことを忘れ、左から読んでしまったからではないかと思っています。
また印刷史家川田久長さんは昭和24(1949)年刊行の『活版印刷史』(印刷学会出版部)と、昭和37(1962)年発行の『季刊プリント』(印刷出版研究所)第1号所収「邦文活字小史」の中で、中国におけるアメリカ長老会印刷所について欧米の資料をもとにしてわずかですが記しています。『活版印刷史』の「本編の二」の「上海の美華書館」では海外の漢字活字の開発に言及していますが、この記事を重要視した人はいなかったようです。川田さんはこの文章の最後に「日本の活版印刷の歴史を語る者は、その鼻祖と称せられている本木昌造の背後にガンブルの巨像をクローズアップする事を忘れてはならない。」と書いています。しかし川田さんが指摘する美華書館と日本・中国の関係を、近代活字印刷史の出発点に置くようになったのは、はるか後の1990年代になってからでした。この印刷所が上海で活動していなければ、その後の日本や中国の漢字活字や印刷技術の進歩はもっと遅れていたといってもいい過ぎではないと思っています。
ここでは美華書館が上海のどこにあり、どのような移転を繰り返したのかを追ってみようと思います。
1844年1月23日北米長老会は中国に進出し、6月17日澳門(マカオ)に印刷所を創設、華英校書房(かえいこうしょぼう)と名乗り宗教書の印刷を開始します。印刷所の責任者としてリチャード・コール(Richard Cole、在任期間1844~1846年)が着任しました。
1845年寧波に移転し華花聖経書房(華花印書房も併用)と改名。移転場所は姚江・甬江・奉化江が合流する三江口北岸の盧氏宗祠であると陳定萼編『鄞県宗教志』(団結出版社、1993年)は記しています。
(『鄞県宗教志』「二、長老会」の原文「道光二十五年(1845)二月, 美長老会将上年一月始設立于澳門的印書館遷移至鄞城江北岸盧氏宗祠内, 定名 “華花印書館” 。」
寧波の謝振声先生によれば盧氏宗祠は槐樹路にあり、姚江に面した現在の槐樹公園で、向いに盧家巷(巷は横丁)があるということです。下図は1924年の「民国時期鄞県城厢 街道图」で、図中➡印の「崇信学堂」あたりが盧氏宗祠。
印刷所ではコールの後任としてA.W.ルーミス(Augustus Ward Loomis)とD.Bマッカーティ(Divie Bethune McCartee、在任期間1847-1848年)が就任。そのあとM.S.コウルター(Moses Stanley Coulter、1849-1852年)、R.Q.ウエイ(Richard Quarterman Way、1853-1857)と引き継がれ、ウイリアム・ギャンブル(William Gamble、1858-1869年)が着任します。
華花聖経書房刊行の書籍は日本では多くは見られませんが、確認できた中で興味深いものが1856年に刊行されたR.Q.ウエイ著『地球説畧』です。
この本は日本に輸入され万延元(1860)年江戸の書肆老皂舘(ろうそうかん)から覆刻刊行されています。
刊行にあたっては、日本はキリスト教禁教でしたから、キリスト教に関係のある語句を削除して文章をつないだうえで被せ彫りをおこなっています。たとえば寧波版『地球説畧』と江戸老皂舘版『地球説畧』の扉下の刊行所名を見てください。寧波版は「寧波華花聖経書房刊」とありますが、江戸老皂舘版では「聖経」の2字を削除しています。また序文最後の「耶穌降世千八百五十六年」も江戸老皂舘版では「耶穌降世」を削除しており、キリスト教に関係する語句の削除はいたるところに見られます。
世界地理書である『地球説畧』を苦労して木版印刷で刊行させたのは、幕府が欧米諸国のアジアへの進出に危機感を抱いていたからでしょう。とくにアヘン戦争をきっかけとするイギリスやフランスの清国への侵略は、日本の知識人を震え上がらせたといいます。鎖国下であってもそのニュースはオランダの貿易船や清国の船を通して細々ではありますが入ってきていました。
1860年12月、将来発展が期待される上海に移転し、美華書館と再度改称します。
では上海のどこに最初の一歩を印したのか。
黄韵珊は「南門外に美華書館を開いた」といい、教会清心堂の牧師ファーンナム(John Marshall Willoughby Farnham)は「はじめ一時的に虹口(ほんきゅう)のカルバートソンの家に隣接するいくつかの中国風の建物におかれた」という。川田久長さんは「最初はホンキュウ地区の中国風の家屋を転用しこれに宛てた」と書いています。これはファーンナムの証言を資料とした発言かもしれません。また『上海出版志』(上海社会科学院出版社、2000年12月)の「大事記一八六〇年」では「上海北四川路に移ってきた」とあります。南門外をのぞいていずれも虹口地区です。黄韵珊のいう南門外とは、北米長老会が1860年3月に陸家浜に建てた教会清心堂近辺を意味しているかもしれません。しかし清心堂の責任者であったファーンナムの証言は記憶違いとは思えず、虹口に設立されたことは間違いないと思います。しかし虹口のカルバートソン(Michael Simpson Culbertson)の家がどこにあったかはわからず、場所の特定はできていません。『上海出版志』は北四川路と範囲を限定した記述をしていますが、蘇州河から現在の魯迅公園までを縦断する道路のどの辺にあったかは書いていません。
虹口は蘇州河以北の地で、はじめアメリカ租界、後にイギリス租界と合併し共同租界となります。戦前は日本人がたくさん住んだところとして、歌謡曲にも唄われていますし、1945年以前に作られた建物がまだ多く残っているはずです。
1862年小東門外に移転。
最初の移転先が狭かったので広い場所を求めて小東門外に移転します。上海県城小東門から東に黄浦江に向う水路――後の方浜東路――のはずれで、中山東二路と黄浦江に沿った外馬路に挟まれたフランス租界東端の台形の土地で、1947年刊行の住宅・商業地図『上海市行號路図録』には3棟の大きな建物が描かれています。北側にある1棟は水上警察分局とありますが、以前はフランス租界巡捕房十六舖分房(南面している。フランス租界警察十六舖警察署)であり、その前に名前の書かれていない2棟の大きな建物が東と西にそれぞれ1棟ずつあります(図中●印の部分)。この台形の土地は周囲を塀で囲まれており、東西にそれぞれ一箇所の門が描かれています。
1940年代に清心堂の牧師であった李恒春は「フランス租界巡捕房十六舖分房の左」が美華書館であったといいます。李恒春の発言が正しければ、この「左」という発言が、十六舖分房の正面が北(租界側)に向っているのか南面(中国人街側)しているのか、分房を背にして見ているのか、分房を正面に見ているのかで違ってきます。普通は建物を背にして右左を示すと考え、わたくしは黄浦江側(東側)の建物を美華書館であろうと考えていましたが、上海での美華書館の活動を調査している宮坂弥代生さんは、資料から黄浦江側の建物が虹口から移転したカルバートソンの家で、中山東二路側が美華書館であったとしています。十六舖分房を正面に見て左と李恒春はいったのでしょう。
美華書館と思われる建物は1950年代に壊され、水上警察の建物は1990年代中頃に中山路を拡張するために撤去されたといいます。現在は市街地整備によって、美華書館の西に広がっていた小東門街、東門路を含めた十六舖旧市街も完全に失われ、緑地となっています。かつての小東門街は木造の2、3階建が密集し、狭くて迷路のような路地でつながっており、「老上海」(Old Shanghai)を楽しむわたしにとってなくてはならない場所でした。昔の水路であった方浜東路の左右はフカヒレを扱う問屋が軒をならべていました。
寧波の華花聖経書房と上海美華書館で11年間館長を務め、清心堂の牧師ファーンナムとの確執によって1869(明治2)年10月1日に退職したウイリアム・ギャンブルは、長崎製鉄所頭取本木昌造の招聘によって翌11月長崎に渡り、翌年3月までの4ヵ月にわたって活字制作・活版印刷の技術を教授します。これが日本の近代活版印刷術の始まりです。
ギャンブルの後任はJ.ウエリー(John Wherry、1869年)、J.バトラーとC.W.マーティア(J.Butler、Calvin W. Mateer、1870年)、J.L.マーティア(1871-1875年)となります。ギャンブルの在任期間は群を抜いて長い。上海における美華書館の基礎作りと発展のためには、余人をもって替えがたいほどの有能な技術者・運営者であったからでしょう。
1867(慶応3)年、ヘボンは岸田吟香を伴い美華書館に行き『和英語林集成』を、1969(明治2)年には薩摩学生が上海に渡り同館で『和訳英辞書』を印刷しています。いずれもギャンブルの助力があって完成されたものです。ヘボンと吟香の上海滞在中の場所については章をあらためて書くつもりです。
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
小宮山博史「活字の玉手箱」 記事一覧
連載にあたって
第1回はこちら
第2回はこちら
第3回はこちら
第4回はこちら
第5回はこちら
第6回はこちら
第7回はこちら
第8回はこちら
第9回はこちら
第10回はこちら
第11回はこちら
第12回はこちら
第14回はこちら
第15回はこちら
第16回はこちら
第17回はこちら
第18回はこちら
第19回はこちら
第20回はこちら
第21回はこちら
第22回はこちら
第23回はこちら
番外編はこちら
「活字の玉手箱」が開く未来はこちら