明朝体漢字活字の開発 連載第11回
小宮山博史
連載第12回へ続く 〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉 小宮山博史氏監修による企画展が開催! illustration: Mori Eijiro 小宮山博史氏イベント情報
103字の組見本で紹介されているのが三号・16ポイントです。この活字は前にお話ししたフランス王立印刷所のマルスラン・ルグランが1837年に完成させた分合活字です。美華書館の前身であるマカオの華英校書房にこの活字と母型が届いたのは1844年ですが、中国伝道を意図していたアメリカ長老会海外伝道部は、早くからこの活字を使って印刷活動ができないかと試験していたようです。この準備に「数年」をかけたといわれていますが、いつ長老会が購入したか正確な年はわかりません。中国印刷史家張秀民先生は出典を明記していませんが、「1836年に一組3,000字を5,000元で購入し、澳門(マカオ)の長老会印刷所に送られた」と書いています。活字彫刻を依頼したポティエの著書『大学』が1837年10月以降の刊行ですし、ディドーの印刷所から活字が売り出されたのも同じ年ですから、36年購入は少し早いかなと思います。「数年」という記述が正しければ、それは1840年頃の購入ではないでしょうか。
組見本の中の漢字で分合とわかるものは、偏旁の組み合わせで「願・臨・地・糧・賜・諸・誘・拯・權・創・清・潔・矜・恤」の14字、冠脚の組み合わせでは「需・導・悪・蓋」の4字で、見本漢字の二割弱の17.5%が分合活字です。いずれもバランスの悪い姿形になっていますが、中でも「需」や「蓋」の上下合成のバランスの悪さが目につきます。
アメリカンボードの宣教師サミュエル・W・ウイリアムス(Samuel Wells Williams)は分合活字の欠点を次のように指摘しています。
「外国人技術者が苦労して作ったものですから、中国人の好みに合わなかったとしても驚くにあたりません。(略)例えば「材」のように偏と同じ大きさの3画の旁を組み合わせた場合、文字各部のバランスの崩れが生じますし、19画の「欏」などではその姿形は心地よくなく、あまり使われませんでした。合成による姿形の崩れは「笐」や「籣」など上下合成の文字ではさらにひどくなりました。このようなバランスの崩れた文字が多いと、ページ全体の美しさが損なわれてしまいます。しかし、条件付きではありますが、この合成による方法は便利でした。」
合成に使われる偏旁・冠脚の文字は、ともに3分の1と3分の2で作られています。見本帳で見てみると、たしかに竹冠の上下合成文字は冠が右にずれて見えるものが多いようです。それは1画目と4画目の左ハライの傾きが強すぎるのが原因で、もっと立てて作ってあればそれほど気にならなかったかもしれません。しかし下にくる部分の画数が多くなれば、上下の大きさのバランスも崩れてきますから、姿形の悪さは救いようがなくなります。前にもお話ししましたように、部分の固定化・単一化が分合活字の大きな欠点であることがわかります。
この反省もあって、この後に開発されたバイエルハウスの二号・22ポイント活字では、左右の分合はあっても上下の分合は採用していないのです。
中国で使われたヨーロッパ製の明朝体活字はバイエルハウスの二号・22ポイント分合活字と、このフランス製三号・16ポイント分合活字の2書体だけでした。三号分合活字はアメリカ長老会印刷所だけでのみ使われ、ロンドン伝道会印刷所では使っていません。そしてアメリカ長老会印刷所でも1860年から使用が急速に減少していきます。
三号・16ポイントの印刷物からの測定値は、1字あたり5.6ミリです。
5.6ミリは、16.1フールニエポイント、14.9ディドーポイント、15.9アメリカンポイントに相当します。
四号・13.5ポイント
丁の裏の右下にある四号・13.5ポイントは、24ポイント同様サミュエル・ダイアが1841年頃から開発を進めていたものです。ダイアの遺志は、1847年に香港英華書院に移ったリチャード・コールに受け継がれます。ダイア制作の父型は完成度に問題があり、使えるものはわずかであったようです。しかしコールの献身的な努力によって、1851年には4,700字まで制作が進んでいます(一号もほぼ同じ字数です)。この年サミュエル・W・ウイリアムスは、「今までに中国人や外国人が開発した活字書体の中で群を抜く美しさである」とコールの彫刻技術と造形力を賞讃する記事を書いています。今まで作られた活字では最も小さいサイズでありながら、明朝体としての完成度は飛び抜けています。軟鉄への直刻という困難さをよくぞ乗り越えたと感心します。
この活字はロンドン伝道会が開発したものですから、ここが運営する印刷所で使われています。ただあまり資料が見つけられず正確なことはいえないのですが、確認できた範囲でいえば1850年上海の墨海書館が刊行した『馬太伝福音書』の表紙裏の序文に使われたのが早い例です。
『馬太伝福音書』の本文は一号・24ポイントで組まれていますから、ダイアとコールの苦心の成果をここで見ることができます。少し時代が先になりますが、1855年墨海書館が刊行した『新約全書』は本文をこの四号で組んでいます。
『教会新報』に活字販売広告を出稿した美華書館は、このころ華花聖経書房を名乗って寧波にあり、そこでの使用書体は三号・16ポイントだけでした。ではこの四号が美華書館で使われるようになったのはいつなのか。
墨海書館は太平天国の乱(1851~55年)の大義名分を誤解して、印刷の大量受注を計画実行します。しかし英国へ発注した印刷機は調子が悪く、また太平天国の教義はキリスト教とは無関係であることがわかり、経営が悪化してしまいます。そんなとき長老会印刷所が寧波から上海に進出し聖書の翻訳出版や伝道活動を行うことを知り、墨海書館を解散して機材を処分することを決めました。美華書館の上海進出は1860年12月ですから、四号活字を含めた機材の譲渡は1861年以降です。美華書館がこの四号活字を使い出したのは1864年頃で、この年『路加伝』を印刷刊行していることは確認しています。墨海書館の正確な閉鎖時期はわかりませんが、1861年から遅くとも1864年を超えない4年間のいずれかの年だと思います。
この四号活字は広く世界に販売されたようです。
ヨーロッパでの日本語学を牽引・確立したオランダのヨハン・J・ホフマン(Johann Joseph Hoffmann)は、中国学・日本学を推進するために漢字活字の制作を日本へ直接依頼する方針をオランダ王立アカデミー文学部会の会議で提案します。しかし日本から送られてきた15本のサンプル父型は満足のいく品質ではありませんでした。下がそのサンプル文字ですが、これを見ると分合活字のシステムで発注したようです。たしかにできが悪く、これではホフマンを満足させなかったと思います。
サンプルの画像は板倉雅宣(いたくら・まさのぶ)さんの論文集『タイポグラフィ論攷』(朗文堂、2017年)所収「史料 中国の母型と活字に関するホフマンの報告」から引用させていただきました。
ホフマンは王立アカデミーに提案し香港英華書院からダイアとコール制作の四号・13.5ポイント活字を購入することを決めます。活字は1858年12月にオランダに到着、翌59年1月には早くも康熙字典部首配列にのっとって組んだうえ、校正のため印刷されました。
校正刷りは康熙字典の部首順に組まれていますが、最終頁の最後の部首が216になっています。康熙字典の部首は214ですからこれは間違い。ホフマンはこの年の11月にすべての校正を終え、60年に5,581字を載せた正式な『漢字の母型と活字の見本』が刊行されます。
このタイトルから判断するとオランダは活字だけでなく母型も買っているようです。あるいは活字だけを買ってそこから母型をおこした可能性も考えられないことではありません。活字から母型を作る技術は、打ち込み法(パンチ母型)が一般的ですが、複製技術としての電胎法も一般的な技術として確立していたかもしれません。このあと話に出るウイリアム・ギャンブルは上海で電胎法で母型を作っていますので、印刷関係者にとって新しい複製技術であったことはたしかです。
活字数はしだいに増加し、1891年には9,016字にまで拡大しています。追加漢字は英華書院に発注したのではなく、オランダで作ったと思われるずいぶんひどい姿形のものもあります。オランダに渡った四号活字は、16ディドーポイント(約6ミリ角)と14ディドーポイント(約5.3ミリ角)の2種類にサイズを替えて鋳造されています。変更の理由は残念ながらわかりません。
ホフマンは漢字を読めない文選・植字工が原稿通りに採字できるように、活字の背に2種類の番号を鋳造させています。はじめの数字が康熙字典の部首番号、うしろの数字が部首を除いた画数です。学者達は漢字とこの2種類の番号を原稿に書いておけば、文選・植字工は手元の見本帳でこの番号のところを探して、該当する漢字を見つけることができます。活字もこの2種類の番号でケース内に分類挿架してあれば、確実に当該漢字を拾うことができるという仕組みです。しかし文字の多い部首では文選はたいへんであったと思われます。
図版の活字「118 12」は部首番号118で「竹」冠、12は部首をのぞいた「喬」の画数。「115 5」は部首番号が115の「禾」偏、5は部首をのぞいた「必」の画数。
活字の背に番号を鋳造してあることで、上下がわかり文字の転倒も防ぐことができますのでとてもよく考えられています。ヨーロッパの中国学・日本学の学者にとって目的の漢字を間違いなく拾わせ、組ませることに苦労したことは想像に難くありません。他の国で開発された漢字活字は、どのような方法で文選、植字させていたのか知りたいところです。
オランダの16ディドーポイント漢字活字は、1970年のE.J.ブリル社(E.J.Brill)の見本帳に依然として掲載されていますので、購入から1世紀以上を生き抜いてきたことになります。そしてこののち廃棄処分寸前に偶然が重なり、京都の古書肆によって800本ほどが日本に回収されて現存。図版の活字は日本に回収されたものです。ブリル社は大阪のモトヤの活字を導入しており、1970年の見本帳には両者が載っています。
四号活字はイギリスにも渡っています。エジンバラの印刷インキ会社A.B.フレミング・アンド・カンパニー(A.B.Fleming & Co.)が、1876年フィラデルフィアで開かれた独立百周年記念博覧会でのお土産として販売した、大型の一枚ものの活字見本(763×528ミリ)にこの四号活字が載っています。印刷はやはりロンドンにある東洋語印刷所ギルバート・アンド・リビングトン(Gilbert & Rivington)です。
この世界初の国際的漢字活字である四号・13.5ポイントの印刷物からの測定値は、1字あたり4.85ミリです。
4.85ミリは、13.9フールニエポイント、12.9ディドーポイント、13.8アメリカンポイントに相当します。
当コラムを担当していただいている小宮山博史氏監修による横浜開港資料館の平成30年度第1回企画展示として「金属活字と明治の横浜 ~小宮山博史コレクションを中心に ~」が2018年4月27日(金)~7月16日(月・祝)まで開催されます。
「金属活字と明治の横浜 ~小宮山博史コレクションを中心に~」では、活版印刷で用いられる日本語の金属活字は、ヨーロッパで作られ、キリスト教のアジア伝道の中心であった中国を経て、長崎に伝えられました。活字と活版印刷術の導入は、日本の近代化に大きな役割を果たしましたが、本展示では金属活字の誕生から日本への伝播、そして横浜における普及の歴史を活字書体史研究家・小宮山博史氏のコレクションを中心にたどります。
「金属活字と明治の横浜 ~小宮山博史コレクションを中心に~」の詳細はこちら
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
2018年4月27日から7月16日まで小宮山博史氏監修による横浜開港資料館の平成30年度第1回企画展示として「金属活字と明治の横浜 ~小宮山博史コレクションを中心に~」が開催されます。 詳細はこちら
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