ぬらくら第85回 「余白の "C"」
その後、ずっと放っておいたのですが、思い立って引っ張り出しパラパラと眺めています。
その本とはオリバー・サイモン (Oliver Simon) の自伝 (* 1) で、活版刷りです(Photo-1、Photo-2)。
▼Photo-1(画像をクリックいただくと拡大画像が表示されます)
▼Photo-2(画像をクリックいただくと拡大画像が表示されます)
この本の著者オリバー・サイモンは1920年代以降、ロンドンの出版・印刷業界において、 編集・組版・印刷を業として活躍した人です。
日本では印刷業を工業に分類し、この時期、既に組版や印刷など分業が進んでいます。
一方、ヨーロッパではこれが工芸に分類されており、組版や印刷を一人の職人がこなします。
これは印刷物だけでなく、印刷の仕事にも文化的な価値が認められていることの現れでしょう。
この本によれば、オリバー・サイモンは1895年4月29日、英国・マンチェスター(Manchester)に近いセール(Sale)という小さな街で、代々、綿花貿易商を 生業とした家に生まれています。
少年期は何度も休学を繰り返すほどの神経障害(明記されていませんが、躁鬱病だったのでしょうか?)に悩まされたオリバーでしたが、成長と共に豊かな感性を持つ青年へと脱皮していったようです。
彼が印刷の世界に入ったのは全くの偶然であったと書いています。
彼が24歳の時、職探しのために二週間の予定でロンドンに滞在します。
そして偶然ピカデリー(Piccadilly)のサザーラン書店(Sotheran's Bookshop)の前を通りかかり、ショーウインドウの中で豪華に眩しく飾られて並ぶ本に釘付けになってしまったそうです。
店に入りそれらの本について尋ねると、ウィリアム・モリス(Wiliam Moris * 2)が 設立したケルムスコット・プレス(Kelmscott Press * 3)による 「ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer * 4)著作集」(* 5/Photo-3)だったと述べています。
▼Photo-3(画像をクリックいただくと拡大画像が表示されます)
この本との出会いは人生初と言える衝撃的なもので、その後の彼の人生を 決定づけるものだったとも回想しています。
『家代々の綿花貿易商でも林業でもなく、ましてや銀行員になることでもなく、 私は印刷職人(Printer)にならなければならない』と直感したそうです。
この本を取りあげたのはオリバー・サイモンの自伝を紹介するためではありませんでした。
この本のページを眺めていて気になった点があります。
あるページ下の余白のノド(* 6)側に、本文よりも小さなサイズで一文字だけ "C" が印刷されているのを見つけました(Photo-4)。
▼Photo-4(画像をクリックいただくと拡大画像が表示されます)
これが何を意味し、何を表しているのかが分かりません。
『教えて Siri』ならぬ『検索 google!』なのですが、いくら検索しても その疑問に対する答もヒントも見つかりません。
そこで嘉瑞工房(* 7)の社長で、自ら活字を組み印刷機を回し、 さらに「欧文組版 組版の基礎とマナー(* 8)」などの著作をお持ちの高岡昌生さんに教えを請いました。
高岡さんによれば「これはおそらく印刷機あるいは印刷者を表す符号ではないかと思われます。 印刷職人自身が自分の仕事を識別したり、成果の証拠にしたと言われています。
また、経営者が印刷職人の仕事を確定し、賃金などの判断や粗悪な仕事をした場合の目印にし、 減給の根拠にしたとも言われています。他にも用法はあるようです。」
これを教えて頂いた後で、改めてこの本をじっくり見てみました。
すると他にも同じような位置に一文字ずつD、E、F、G、Hとあるページが見つかりました(Photo-5、Photo-6)。
▼Photo-5(画像をクリックいただくと拡大画像が表示されます)
▼Photo-6(画像をクリックいただくと拡大画像が表示されます)
これらの小さなアルファベットが印刷されているページを、綴じ目で確かめると折り丁(* 9)の最初のページになっていることが分かりました。
そして、これらの小さなアルファベットはCから始まって16ページ毎に順に D、E、F、G、Hと 現れることも確認できました("A" と "B" が刷られているページはありません)。
これらのアルファベットが各折り丁の最初のページに現れるということから、 高岡さんが言う「別の用法」であることも想像できます。
もしかしたらこの小さなアルファベットは、高岡さんが教えてくださった識別記号としての役割のほかに、背丁(* 10)の役割も果たしているのかもしれません。もちろん、これはぬらくら子の勝手な想像です。
小さく刷られたたった一文字のアルファベットが組版・印刷という仕事の奥深さを、 チラリと覗かせてくれた気がします。
* 1)自伝
"Printer and Playground, An Autobiography" London, Faber & Faber, 1956.
* 2)ウィリアム・モリス(Wiliam Moris 1834-1896)
19世紀イギリスの詩人でデザイナー、マルクス主義者。「モダン・デザインの父」と呼ばれる。
モリス商会(Morris & Co.)を設立し、インテリア製品や美しい書籍を作り出した。
生活と芸術を一致させようとするモリスのデザイン思想とその実践(アーツ・アンド・クラフツ運動)は 各国に大きな影響を与え、20世紀のモダン・デザインの源流になったといわれている(ウィキペディアより)。
* 3)ケルムスコット・プレス(Kelmscott Press)
ウィリアム・モリスが1891年に設立した豪華・限定本の出版・印刷会社。
その仕事の中でも特に「ジェフリー・チョーサー著作集」は有名。
* 4)ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer 1340-1400)
イギリスの詩人。
*5)ジェフリー・チョーサー著作集
"William Morris - The Works of Geoffrey Chaucer (The Kelmscott Chaucer)"(Google Art Project より)。
ケルムスコット・プレスのジェフリー・チョーサー著作集の中でもこの一冊は特に有名。
* 6)ノド
本を開いた時、綴じ目側を言う。
* 7)有限会社 嘉瑞工房
昔ながらの金属活字を使用した活版印刷の会社。 海外の活字鋳造会社から直接輸入した品質の高い欧文活字を多数保有し、 端物印刷物を主に制作している(同社のホームページより引用)。
有限会社 嘉瑞工房
住所:〒162-0812 東京都新宿区西五軒町11-1
URL:http://kazuipress.com
* 8)「欧文組版 組版の基礎とマナー(タイポグラフィの基本BOOK)」
高岡 昌生:著、高岡 重蔵:監修、美術出版社、2010年刊
* 9)折り丁
印刷された直後の折る前の紙を刷り本と言い、刷り本を製本するために何ページかに折ったものを折り丁という。 刷り本を二つに折ったものを二つ折り(四ページ)、これをもう一度折ったものを四つ折り(八ページ)、 更にもう一度折って八つ折り(16ページ)という。
* 10)背丁
折り丁をページ順に従って一冊分を重ねる時に、重ね順を間違えないようにするための目印。 各折り丁の綴じ目外側に印刷される書名や数字。
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著者 Information
mk88氏
PROFILE●1942年東京都生まれ。
1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。
設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、
総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。
1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。
Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・
フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。
現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
Blog:mk88の独り言