明朝体漢字活字の開発 連載第10回
小宮山博史
連載第11回へ続く 〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉 小宮山博史氏監修による企画展が開催! illustration: Mori Eijiro 小宮山博史氏イベント情報
一号・24ポイント明朝体
最も大きいサイズが右下にある一号です。
これはロンドン伝道会のサミュエル・ダイア(Samuel Dyer)によって開発が進められた
ものです。ダイアは印刷工ではありませんでしたし、種字も軟鉄に凸刻し焼きを入れて硬度を上げるパンチ父型でしたので、その制作にはずいぶん苦労をしたようです。制作開始時期は諸説あり特定できませんが、1833年頃から研究を進めていたことはわかっています。まず必要な漢字の字種を確定するために14種の書籍を使って使用頻度を調査した結果、これらの書籍に出現する漢字は3,240字であることをつきとめ、34年に3,000字の重要な漢字のリスト『A SELECTION OF THREE THOUSAND CHARACTERS BEING THE MOST IMPORTANT IN THE CHINESE LANGUAGE』(中国名『重校幾書作印集字』)を出版しています。
このリストができたとき父型彫刻の準備が整ったと思われます。1835年ペナンからマラッカに拠点を移し、本格的に漢字活字の開発を開始したのでしょう。
この小さな活字見本には誰の筆跡かはわかりませんが「Metal type from Rev S Dyer Malacca 1837」とペン書きされています。重複する文字「本・布・汚・法」の4字を較べてみますと、これが彫刻活字ではなく鋳造活字であることがわかります。「1837」はこの一枚ものの見本が作られた年なのか、送られてきた年なのか、あるいはこの活字の制作を開始した年なのかはわかりません。しかし少なくとも1837年にはこの程度の見本が出せる状態になっていたのでしょう。
ダイアは1843年出張の帰途マカオで病没、業半ばの無念の死でした。このときまでにできていた父型は1,845字種といわれています。制作開始から9年目のことです。ダイアの遺志は同僚のストロナック(Alexander Stronach)に引き継がれました。1842年ロンドン伝道会はアヘン戦争の結果清国から割譲された香港に英華書院(Anglo-Chinese College)を移し、46年にはマラッカにあった印刷機材も香港に移ります。47年、寧波で印刷活動を進めている北米長老会印刷所華花聖経書房(The Chinese and American Holy Classic Book Establishment)の責任者リチャード・コール(Richard Cole)は、そこを辞して香港英華書院に移り父型彫刻を引き継ぎます。香港英華書院は上海に進出を図り、1,843年メドハースト(Walter Henry Medhurst)とロックハート(William Lockhart)が上海県城小北門外に墨海書館を設立しています。小北門外の墨海書館が1850年に刊行した『馬太伝福音書』がありますが、24ポイント活字は字種が充分に揃っていないようで、幾つかの不足字を彫刻活字で埋めています。
翌51年にはコールの努力によって24ポイントの父型は4,700字に達しており、ある程度満足できる漢字組版が可能になったようです。
墨海書館はこの年に福州路山東路の南西角、今の仁済医院の裏に移転。印刷機の動力に牛を使い上海人の評判になっていたことが書き残されています。たとえば清末の外交官郭嵩燾(かくすうとう)は1856年2月9日(新暦3月15日)に墨海書館を訪ね、その日の日記の旁註に次のように記しています(『郭嵩燾日記』第1巻。湖南人民出版社、1981年)。上海には動力としての電気がまだ整備されていませんでしたので、手引き印刷機は別として、輪転機はどうしたのかがわかる貴重な証言です。
「印刷には牛車を使う。印刷機には回転する輪が大小八、九個ある。版を印刷機の中央の平らなところに置き、機械でこれを進退させる。印刷機の前の外側の小輪、つまり進退させる機械から革紐が出ており、部屋の後ろの柱をまわって脇の台座に向っている。牛がこれをぐいっと引っぱると革紐が廻って小輪を動かし、大輪が大きく回転する。用紙が輪に従って順々にまわる。総ての版の印刷に手落ちがない。革紐は壁の隙間から引き出され、機械があるところに牛は見えない。西洋人がやる仕事は巧妙である。」
(原文「刷書用牛車、範鐘為輪、大小八九事、書板置車箱平処、而出入以機推動之。其車前外方小輪、則機之所従発也、以皮條套之。而屋后一柱轉于旁設機架。牛拽之以行、則皮條自轉、小輪随之以動、以激轉大輪。紙片随輪遞轉、則全板刷印无遺矣。皮條従墻隙中拽出、安車処不見牛也。西人挙動、務為巧妙如此。」)
墨海書館で編集を担当していた王韜(おうとう)は咸豊8(1858)年10月22日(新暦11月27日)の日記(『王韜日記』中華書局、1987年)に、友人の孫次公が墨海書館で印刷機を見て作った七言絶句を記しています。
「機械は墨海をひっくり返して力いっぱい回り、多くの奇書を世界に広め伝える。すっかり疲れた老牛はわからない。稲田を耕さずに書田を耕していることを」
(原文「車翻墨海轉輪圓、百種奇編宇内伝。怔煞老牛渾不解、不耕禾隴種書田。」)
王韜はまた『瀛儒(えいじゅ)雑志』(上海古籍出版社、1989年)巻六の中で再び孫次公のこの詩を紹介しています。牛を動力として使った印刷は上海の名物になり、多くの市民が墨海書館を見学に訪れたそうです。
一号・24ポイントの印刷物からの測定値は、1字あたり8.65ミリです。
8.65ミリは、24.9フールニエポイント、23ディドーポイント、24.6アメリカンポイントに相当します。
二号・22ポイント明朝体
美華書館の活字販売広告には2種類の二号活字が掲載されています。丁の表の左下、丁の裏の右上にある明朝体がそれです。同じ明朝体でありながら雰囲気はずいぶん違いますが、美華書館は2種類の二号活字を使い分けることができたわけです。それが見られるのが『耶穌降世伝』です。
この本は1870年に美華書館が印刷刊行したものですが、1冊の本を2種類の二号活字を使って印刷した非常に珍しい例だと思います。このような例は他に見たことがありません。
『耶穌降世伝』は全60丁袋とじの本ですが、40丁目までが右上がりの構成の明朝体で、楷書から変化した宋代以降の版本の書体に近い雰囲気があります。サミュエル・ダイアは24ポイント活字の他に、13.5ポイントの活字も並行して開発しておりましたが、1843年彼の死で活字が完成する見込みがたたなくなりました。そのときベルリンの活字鋳造業者アウグスト・バイエルハウス(Auguste Beyerhaus)が協力を申し出て、制作途中の活字の間のサイズを分合活字のシステムで作ることをアメリカンボード(American Board)に提案します。彫刻するパンチ父型は約3,500字です。
66字が載る活字見本の中にも分合活字が使われています。「願・格・儕・糧・賜・誘・拯・權」の8字が分合活字ですが、「願」をのぞく7字は偏と傍の間が広く空いていることでそれがわかりますし、字形の崩れがよくわかります。「願」は「頁」の左右幅を「原」と同じ程度に見えるように作るか、あるいは広く取るのが一般的ですが、これは逆になっていますので形が悪い。
このベルリン・フォントの開発は遅れに遅れ、母型が寧波の北米長老会印刷所華花聖経書房に到着したのは1859年のことでした。ここで使われている分合は偏傍のみで、冠脚の合成はありません。この年華花聖経書房は到着した母型から鋳造した活字を使って『三要録』をさっそく印刷しています。
バイエルハウスの詳細については残念ながらよくわかりません。ただ1840年にドイツのハインリッヒ・メイヤー(Heinrich Meyer)が編集刊行した『グーテンベルグアルバム』(GUTENBERGS ALBUM)の中に、バイエルハウスが作った楷書体活字の組見本がありますので、早い時期から漢字活字を作っていたことがわかります。見本の中の後ろから3行目上から3字目の「石」が転倒していますので活字印刷であることがわかります。
『教会新報』の活字販売広告の左頁右上も22ポイントです。この22ポイント活字はバイエルハウスが作った右上がりの構成ではなく、その後の明朝体の基本スタイルである水平垂直の構成であり、これまでに作られた明朝体では不十分であったエレメントの定型化が一層徹底した書体になっており、いままで見てきたいろいろな明朝体活字の質的レベルをはるかに超えたデザインです。この活字の種字はパンチ父型ではなく、北米長老会印刷所美華書館館長ウイリアム・ギャンブル(William Gamble)の指導で、木彫種字を使って電胎母型を作りそれで鋳造したものです。寧波の華花聖経書房は1860年に上海に進出して、美華書館と名称を変更します。ギャンブルの業績については後ほどお話しします。
1870年刊行の『耶穌降世伝』では41丁目からこの活字が使われています。1冊の本を同じサイズの別書体で組み分けた理由はわかりません。想像をたくましくすれば、40丁目までバイエルハウスの活字で印刷がすんだ時点で、ギャンブルの新刻の二号・22ポイントが全面的に使用可能の状態になり、41丁目から一気に切り替えたのではないかということです。41丁目以降にバイエルハウスの活字は混入していませんので、新旧の活字の入れ替えは厳密に行われていることがわかります。
ただこの推論には一つだけ気がかりな点があります。それは『教会新報』の最初の活字販売広告が1868年12月19日発行の第16号です。広告にはギャンブルの新刻二号が掲載されていますので、この時点で新刻二号は印刷・販売可能な状態になっていると考えても、それほど間違ってはいないと思います。活字販売広告は美華書館の整備された活字のラインナップを告知すると同時に、新刻二号の完成を知らせることも重要な目的であったはずです。刊行月はわかりませんが、『耶穌降世伝』の刊行は少なくとも最初の告知から1年以上後です。残り20丁を印刷するのにこれだけの時間が必要であったのかどうか。新刻二号は1869年刊の『天路歴程』の序に使われていますので、宣伝目的で広告が先行したとも考えにくい。
『耶穌降世伝』の扉は中央に木版楷書で書名を印刷し、新刻二号で右に「耶穌降世一千八百七十年」、左に「歲次庚午」「上海美華書館刋」を離して一行で組んでいます。たぶんここを最後に印刷したと思います。
二号・22ポイントの印刷物からの測定値は、1字あたり7.61ミリです。
7.61ミリは、21.9フールニエポイント、20.2ディドーポイント、21.7アメリカンポイントに相当します。
当コラムを担当していただいている小宮山博史氏監修による横浜開港資料館の平成30年度第1回企画展示として「金属活字と明治の横浜 ~小宮山博史コレクションを中心に ~」が2018年4月27日(金)~7月16日(月・祝)まで開催されます。
「金属活字と明治の横浜 ~小宮山博史コレクションを中心に~」では、活版印刷で用いられる日本語の金属活字は、ヨーロッパで作られ、キリスト教のアジア伝道の中心であった中国を経て、長崎に伝えられました。活字と活版印刷術の導入は、日本の近代化に大きな役割を果たしましたが、本展示では金属活字の誕生から日本への伝播、そして横浜における普及の歴史を活字書体史研究家・小宮山博史氏のコレクションを中心にたどります。
「金属活字と明治の横浜 ~小宮山博史コレクションを中心に~」の詳細はこちら
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
2018年4月27日から7月16日まで小宮山博史氏監修による横浜開港資料館の平成30年度第1回企画展示として「金属活字と明治の横浜 ~小宮山博史コレクションを中心に~」が開催されます。詳細はこちら
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