ダイナフォントストーリー

カテゴリー:小宮山博史「活字の玉手箱」
2018/03/22

明朝体漢字活字の開発 連載第9回

小宮山博史

5 上海の明朝体活字  

 清朝政府は1842年アヘン戦争の敗戦により、南京条約で上海を含む5港を対外通商港として開港せざるをえませんでした。黄浦江西岸に広がる一寒村にすぎなかった上海が、国際都市として脚光を浴びはじめたのです。進出したイギリス・アメリカ・フランスはやがて行政権・司法権を握り、中国の中の外国、「租界」を生み出します。
 アジアでの権益を誇示するイギリス領事館(1872年再建)をはじめとして、極東最大の商社ジャーデン・マセソン商会ビル(Jardine Matheson & Co. 、怡和洋行)、外国資本のスポークスマンとしての役割を担ったノース・チャイナ・デイリーニューズ・アンド・ヘラルド社ビル(The North-China Daily News & Herald、字林西報)、上海の不動産王の牙城サッスーン・ハウス(Sassoon House、沙遜大廈。現和平飯店北楼)、スエズ以東で最も美しい建物といわれた香港上海銀行上海支店ビル(Hongkong & Shanghai Banking Corporation、匯豊銀行上海分行)、見事な時計塔をのせる上海海関ビル(上海税関)など、現在観光スポットとして多くの観光客の目を引きつける外灘(ワイタン。バンドBundともよばれる。バンドとはペルシャ語で埠頭の意味)にそびえる多くの建築群は、上海に展開する外国資本が1920年代から30年代にかけて建てたものです。
 下の写真は上海で1927年に刊行された『SHANGHAI OF TO=DAY』(Kelly & Walsh Limited)収録の外灘の写真です。写真中央のドームを頂く白亜の建物が香港上海銀行上海支店。その手前尖塔に旗を翻すのはユニオン・アシュランス・カンパニー(Union Assurance Company)、その隣はシャンハイ・クラブ(The Shanghai Club、現東風飯店)と思われます。写真右に黄浦江。
 なおケリー&ウォルシュ(Kelly & Walsh Limited)は横浜外国人居留地に支店を設け、ケリー商会(Kelly & Co.)の名前で書籍の販売と出版をおこなっています。


明朝体漢字活字の開発 連載第9回画像1

 しかし上海に進出したのは外国資本ばかりではありませんでした。カトリックやプロテスタントの教団も次々に上海に展開していきました。このころの清朝はキリスト教の布教を禁止していたため直接伝道はできず、聖書や布教用小冊子による文書伝道に頼らざるを得ませんでした。
 清国は1856年のアロー号戦争で再び敗れ、北京条約でキリスト教布教を認めます。それまでの文書伝道から直接伝道にかわったのです。漢字活字の開発は東洋学の進展よりも、清国へのキリスト教布教活動のほうがはるかに大きな原動力であったといってもいいかもしれません。

 では国際都市上海にどのような明朝体活字があったのか。
 19世紀中頃に上海で使われていた活字の見本はいまだに実見できませんが、わたしが見ることのできたもっとも古い見本帳は、1867(同治6、慶応3)年刊の『SPECIMANS(MAは誤植で、MEが正しい) CHINESE, MANCHU AND JAPANESE TYPE, FROM THE TYPE FOUNDRY OF AMERICAN PRESBYTERIAN MISSION PRESS』 で、宮坂弥代生(みやさか・やよい)さんが見つけられました。この見本帳には以下のものが収録されています。
  Double Pica Chinese……漢字73字
  Double Small Pica Chinese……漢字81字
  Two Line Brevier Chinese……漢字73字
  Three Line Diamond Chinese……漢字73字
  Small Pica Chinese……漢字73字
  Ruby Chinese……漢字84字
  Double Small Pica Manchu……満州文字106字
  Small Pica Japanese Hirakana……平仮名136字
  Small Pica Japanese Hirakana……平仮名81字
  Brevier Japanese Hirakana……平仮名79字
  Brevier Japanese katakana……片仮名76字
  Small Pica Japanese Katakana……片仮名73字
  Ruby Japanese Katakana……片仮名82字


明朝体漢字活字の開発 連載第9回画像2
明朝体漢字活字の開発 連載第9回画像3
明朝体漢字活字の開発 連載第9回画像4

 また、メソジスト派宣教師ヤング・ジョン・アレン(Young John Allen、中国名林楽知)が上海で刊行した漢字週刊誌『教会新報』第16号(1868年12月19日発行)には、上海で活動する北米長老会印刷所美華書館の活字販売広告が一丁差し込まれています。前記1867年見本帳と販売広告の活字は同じものですので、この当時使用可能な活字が6サイズ7書体の明朝体であることがわかります。
 『教会新報』は原誌の収蔵先が少なく、中国では上海図書館近代文献資料室だけのようです。その他に大英図書館、アメリカ議会図書館ギャンブル文庫が収蔵しています。日本の図書館では台湾の出版社が覆刻した縮小影印本を収蔵するところがありますが、この影印本は表紙を入れておらず何年の発行かわからないだけでなく、活字販売広告も削除されている不完全なものです。


明朝体漢字活字の開発 連載第9回画像5

 美華書館活字販売広告は不定期ながら全部で8回出稿されています。
 二号活字が2種類ありますが、出稿7回目の第43号(1869年7月3日発行)と8回目の第51号(9月4日発行)では、丁表左下の細めの二号活字が削除され、そこに丁裏右上に掲載されていたやや太い二号活字が移動しています。移動した太めの二号活字のスペースには三号活字が入り、もともとの三号活字のスペースは空白になっています。


明朝体漢字活字の開発 連載第9回画像6

 美華書館活字販売広告の号に対応するアメリカでの呼称と、それに相当するポイント数を併記すると次のようになります。
  一号……Double Pica……24ポイント
  二号……Double Small Pica……22ポイント
  三号……Two-line Brevier……16ポイント
  四号……Three-line Diamond……13.5ポイント
  五号……Small Pica……11ポイント
  六号……Ruby……5.5ポイント
 この広告では一号から六号まで「号」という漢字で大きさを示していますが、中国語の「号」は量詞で数字のうしろについて順番を表わす語ですから、No.と同じで「何番目の大きさ」という意味です。のちに活字の大きさを示す単位になった号数制の「号」ではありません。この広告では号で表示していますが、館長をのぞいて美華書館で働く館員のほとんどは中国人です。それと美華書館に印刷を発注する人の多くは中国人ですから、中国人館員にとっても発注者にとっても、英文表記よりも「号」イコール「サイズ」のほうがわかりやすかったかもしれません。
 下の写真は1875年北京路に移転したあとの美華書館館員の集合写真で(撮影時期は分かりませんが、19世紀末か)、ここには69名が写っています(本からの複写で正確さには欠けます)。PRESBYTERIAN MISSION PRESS BOOKS STATIONARYという表示の下が玄関で、そこのすこし右(前列右から8人目)に髭をたくわえて帽子を持つ一人の外国人が見えますが、この人物が館長でしょう。それ以外の館員はみな中国人であることがわかります。


明朝体漢字活字の開発 連載第9回画像7

 活字販売広告の書体群を見ると、各種見出しから本文、ルビ(Ruby)までをカバーできますし、二号と五号には倍数関係が見られ、本文と割注(わりちゅう)を組むことができるようになっています。日本では近代的な活字印刷術を開発・稼働させようと何人かが苦闘している時期ですが、上海ではあるていど整備された活字群を駆使して活発な印刷活動を行っていたことがわかります。
 美華書館は1872(明治5)年にも見本帳『PRICE RIST AND SPECIMEN BOOK OF TYPES』を発行しています。この見本帳は古書肆雄松堂書店の2013年稀覯書目録に掲載されたもので、解説によれば中国語・日本語・満州語・楽譜が収録されているとのことです。図版として平仮名見本3種の頁がかかげられており、そのサイズと書体名は次のようになっています。
  Small Pica Manyo――解字古体……140字
  Small Pica Hirakana――解字草体……140字
  Brevier Hirakana――簡字草体……224字
 「Manyo」とは万葉仮名、「解字草体」は毛筆手書きの名残がある平仮名、「簡字草体」は現在につながる活字書体の平仮名です。この1872年版見本帳の3書体は前記1867年版見本帳にある平仮名と同じものですが、見本字数はこの1872年版のほうがはるかに多い。

連載第10回へ続く

〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉

 
小宮山博史イラスト

illustration: Mori Eijiro

● 小宮山博史
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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