明朝体漢字活字の開発 連載第8回
小宮山博史
連載第9回へ続く 〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉 illustration: Mori Eijiro
ヨーロッパを離れてアジアに目を向けてみます。
宣教師たちは広大な未教化地域清国を目ざし展開していきます。
インドのカルカッタの北16マイルに位置するセランポア(Serampore)に設立された、英国バプティスト教会派(British Baptist Mission Society)の印刷所に関係する2種類の書体見本があります。
一つはセランポアミッションが1813年に刊行した活字見本「SPECIMENS OF EDITIONS OF THE SACRED SCRIPTURES IN THE EASTERN LANGUAGES」です。この中に24ポイントの明朝体が収録されています。これはイギリスから赴任した父型彫刻師のジョン・ローソン(John Lawson)が彫ったもので、「最初の中国語の完璧な金属活字」といわれているものです。
もう一つは4頁の「FAC-SIMILE OF SPECIMENS OF THE VERSIONS OF THE SACRED SCRIPTURES IN THE EASTERN LANGUAGE」で、英国聖書協会(British & Foreign Bible Society)が費用をだして印刷したものです。刊行年は明記されていませんが、用紙には「RUSE & TURNER 1813」と漉かし(paper watermark)が入っていますので、この年以降に印刷されたことがわかります。上下に並んだ2種類の漢字活字のうち、上段はベンガル人の型染め職人12人が彫った木活字、下段は16ポイント鋳造活字でマーシュマン&ラサール(Marshman&Lassar)訳の聖書に使用されています。この鋳造活字の組見本は『旧約聖書』冒頭の「天地創造」。
二つの漢字活字の見本に入っている「神」を較べて見ると、活字サイズは違いますがその構成とバランスがまったく同じですので、彫刻は同一人物によってなされたと想像できます。
この24ポイントと16ポイント明朝体は、1814年セランポアのミッション・プレスで印刷刊行されたマーシュマンの中国語文法書『中国言法』に使われていますので、刊行年不明の見本帳に載っている16ポイント明朝体も1813年には開発されていたことがわかります。
マーシュマン(Joshua Marshman)は牧師のケアリー(William Carey)、元印刷技術者のワード(William Ward)とともにセランポアミッションを設立した人物で、聖書の中国語訳を担当しています。
London Missionary Society(ロンドン伝道会)の宣教師ロバート・モリソン(Robert Morrison)は、中国布教を目ざし1807年9月広東に上陸しました。しかし清朝はキリスト教弾圧に舵を切っており直接伝道ができず、聖書や布教用小冊子による文書伝道に頼るしかありませんでした。モリソンはイギリス東インド会社の通訳官となり、中国人のKo先生のほか3人の協力を得て中英辞書の編纂に力を注ぎ、1815年から23年にかけて世界初の英中・中英の『中国語字典』全6巻をマカオで刊行しています。発行はイギリス東インド会社、印刷はイギリスから派遣されたP.P.トムズ(P.P.Thoms)が担当し、全750セット(印刷費用12,000ポンド)を製作、うち650セットはモリソンが処分をまかされています。
宮田和子さんは『英華辞典の総合的研究』(白帝社、2010年)のなかで、国内9図書館と個人蔵の辞典を比較し、この辞典の初版は異版が多いことを報告しています。清朝はキリスト教関係の中国語図書の印刷を禁じ、違反者への罰則を強化し、そのことで清国人の印刷関係者は恐慌を起こし逃亡などがあったといいます。初版は取締の厳しい広東を避けてマカオで印刷されることになり、そのため他に類を見ないほど異版が多くなったと宮田さんは記しています。
この辞典に使われている漢字活字は4種類ですべて彫刻活字です。
最も大きいものが22ポイント活字、続いて18ポイント正体活字、16ポイント長体活字、そして14ポイントと思われる長体活字が使われています。この中で16ポイント長体活字の使用がもっとも多く、その他のものは部分的に使われているだけです。
モリソンの『中国語字典』でもっとも多く使われている16ポイント長体活字は、マカオや広東で印刷されたさまざまな書籍や雑誌にも使われています。たとえば1832年に創刊された英字月刊誌『チャイニーズ・レポジトリー』(CHINESE REPOSITORY)の、39年5月の第1号から使われていますし、アヘン禁止の布告「鴉片章程奏准議禁欽差大人」を中国語とその英訳で、マカオで印刷刊行した本にも使われています。刊行は1840年、印刷は F. F. du Cruz となっています。
清朝はアヘンの吸引、輸入の禁令を繰り返し布告しますが効果はありません。1839(道光19)年3月アヘン禁止の強硬派林則徐を欽差(特命)大臣として広東に派遣、5月林則徐はアヘンの没収焼却を実施します。貿易の自由化を強硬に主張するイギリスは軍隊を派遣し、清国と戦端を開きます。日本をも震いあがらせたアヘン戦争です。圧倒的な戦力の前に敗退を繰り返した清朝は、1842年8月29日南京条約を締結せざるを得ませんでした。香港の割譲、5港の開港、アヘンの賠償金の支払いなどまことに屈辱的な条約です。清朝の堕落・衰退が大きな原因であったとしても、正論が暴論に敗れた戦争です。中国はこののち100年にわたって苦難の道を歩くことになります。
このような本が出版された背景には、広東の貿易商人が林則徐の赴任とアヘン禁令の強化に息を潜めて見守っている様子が感じられます。
この彫刻活字は左右(幅)と上下(大きさ)の寸法が違う長体活字で、無作為に選んだ45字の印刷面でのもっとも多い寸法は左右4.6ミリ、上下5.0~5.1ミリでした。この彫刻活字の角寸法がなにによるものかはわかりませんが、欧文との混植がありますのでフールニエかディドーのポイントに則ってつくられているのは間違いないと思います。フールニエならば左右が13.5ポイント(4.69ミリ)、上下は15ポイント(5.22ミリ)相当になります。ディドーであれば左右12ポイント(4.51ミリ)、上下は13.5ポイント(5.07ミリ)です。
16ポイント長体活字は1856年12月14日の火災で破壊されてしまいました。
モリソンは中国にキリスト教を広めるには安価で漢字活字が鋳造できることが重要であると考えていましたが、自身が活字制作に手を染めることはありませんでした。彼は1810年に『路加伝福音書』『使徒行伝』を中国語に翻訳して木版印刷で出版しています。この2冊はモリソンの死から11年目の1845年、前述のワッツの鋳造活字(連載第7回参照)で覆刻されました。
ここからはのちに東アジアに大きな影響を与えることになる明朝体漢字活字の開発を見てみましょう。
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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