明朝体漢字活字の開発 連載第7回
小宮山博史
連載第8回へ続く illustration: Mori Eijiro
1870年刊行のローマ布教聖省の活字見本『ORATIO DOMINICA』(主の祈り)の中に明朝体活字があります。
布教聖省、プロパガンダ・フィデ(Propaganda Fide)は「1622年、全世界の布教活動を指導するために創設された教皇庁の行政機関、教皇グレゴリウス一五世(Gregorius XV)の命により正式発足。まだ教会機構が導入されていない地域での活動に関して権限を有した」と『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2002年刊)にあります。『主の祈り』には制作時期は不明ながら2サイズの漢字活字が使われています。
布教聖省は1793年にも『主の祈り』を刊行しており、その中に漢字活字があると聞いていますので、この活字はその頃に作られた可能性があります。1870年に近い年代であれば漢字活字の品質もかなりあがっていますので、このようなバランスの悪いものが作られるとは考えにくい。「國」は大きいサイズでは右上にテンがついていますが、小さいサイズではテンを落しており、字体に揺れがあることがわかります。
活字のサイズを測ってみると大きいサイズは最大で14ミリ、小さいサイズは最大で11ミリあります。フルニエ・ポイントであれば大きい活字は40ポイント、小さい活字は30ポイントに相当します。ディドー・ポイントであれば大きい活字は37ポイント、小さい活字は28ポイント相当です。37ポイントという中途半端な大きさがあるのかどうか。フルニエ・ポイントもディドー・ポイントもすでに使われていましたが、布教聖省がどのようなポイントシステムを使っていたのかは不明です。
文字の字面は一定せず大小・広狭が入りまじり、デザインの未定型化が目立つ造形で、印象は楷書体に近いようです。大きい活字のいくつかの文字には縦長のものがありますが、多くは正方形を意識して作られています。小さい活字はそのほとんどが縦長の造形ですので、これは本文にたいする註釈用、つまり双行用の割註活字ではないか。しかし双行用としては大きいかもしれません。
二つのサイズの漢字はそれぞれ63字掲載されていますが、くりかえしでてくる漢字がいくつかあります。たとえば「我」は9字使われていますが、字形は2種類です。315頁の第1行3字目と316頁第1行3字目、第3行4字目の3字は他の「我」と違います。まず上下の大きさが13ミリあり、6画目の左ハライの終筆部は左の縦線ハネより上にあります。また5画目(そりはね)の最下部は左の縦線ハネより下にでています。4画目(はねあげ)の終筆部は5画目のそりはねに接していません。それ以外の「我」は上下の大きさが12.5ミリで文字中央の空間も狭く、文字の下辺の縦線ハネ、左ハライの先端、反りハネは同じ位置にならんでいます。4画目の終筆部は5画目のそりはねに接しています。小さいサイズの「我」は5画目のそりはねの長さに2種類あります。「於」は二つのサイズでそれぞれ3字ずつでてきますが同じ字形のように見えます。
小さいサイズの「見」(313頁)の右肩に小さな丸がついていますが、これは漢字の韻をあらわす四声記号(平声ひょうしょう・上声・去声・入声にっしょう)のひとつで「去声」を示しています。いまは使いませんが19世紀上海の美華書館が作った五号活字や、オランダにわたった四号活字の見本帳に入っています。
上海美華書館の五号活字を導入して組んだ『東京日日新聞』の初期紙面にもときどき使われていたそうです。『毎日新聞百年史』(毎日新聞社、1972年)の技術編には右肩に丸をつけた「使」「易」が図版として載っています。技術編を執筆された古川恒(ふるかわ・ひさし)さんは電胎のさい電解液の気泡の上に銅が集積されたためと書いていますが、去声の記号で種字の段階で彫られていたものです。
この見本帳の中で興味深いのは、活字化されたヒエログリフ(Hiéroglyphes)が掲載されていることです。明朝体とは関係がありませんが、学術のために活字化された古代エジプトの絵文字ですので紹介しておきます。
ヒエログリフはエジプトの神聖文字です。1799年ナポレオンのエジプト遠征軍の一士官がロゼッタで発見した黒色玄武岩の石碑がロゼッタストーン(Rosetta Stone)です。制作は紀元前196年頃で、高さは114センチあります。
この碑には上から神聖文字・民衆文字・ギリシャ文字の3種が彫られていますが、神聖文字は当時まだ解読されていませんでした。フランスの若き言語学者ジャン・フランソア・シャンポリオン(Jean François Champollion)はギリシャ語をもとに、楕円の枠で囲まれた神聖文字(枠をカルトゥーシュといいます)をエジプトの王の名前Ptolemaios(プトレマイオス)、 王妃Kleopatra(クレオパトラ)と推測。ここからヒエログリフが解読されていくことになったのです。
ヒエログリフを活字化したのはフランス王立印刷所で、レトローヌ(M.Letronne)のディレクションで、デュボア(M.J.J.Dubois)の図をもとに、彫師のドラフォン(Delafond)とその息子ラメ(Ramá)が1842年から52年にかけて種字を彫っています。活字の大きさは18ポイント(のちに12ポイントも作られた)。カトリック布教聖省は、1852年から70年の間のいずれかの年に、フランス帝立印刷所または国立印刷所からこの活字を購入したか、あるいは借用して印刷したものと思われます。
下の図版は別のフランスの活字見本帳の組見本ですが、左上にプトレマイオス(左)とクレオパトラ(右)のヒエログリフを入れておきました。これは現代のヒエログリフの解説書にあったもので、ロゼッタストーンでは横組で彫刻されています。
しかしなぜヒエログリフが布教聖省の『主の祈り』に入っているのだろうか。
シャンポリオンがヒエログリフの解読に成功したのは1824年だと思います。その業績にたいしてエジプト学講座がコレージュ・ド・フランスに開設されたのが1831年です。紀元前のエジプトでは王や貴族や神官はヒエログリフを読み書きできたはずですが、布教聖省の『主の祈り』が刊行された19世紀中頃、どこの地域でこれを読める異教徒や無宗教の人がいたのか。エジプトにさえ読める人はいない。未教化地域にたいして布教活動を進めるにしてもヒエログリフで聖書を翻訳印刷する必要があったのか、と極東の異教徒のわたしは首をひねるほかありません。
フランスでヒエログリフの活字を開発したのは、エジプトでの発掘調査の結果や模写図をもとにした研究の成果を記録するためであり、布教という考えはなかったのではないかと思うのですがどうでしょう。
ヒエログリフで「主の祈り」を組んでいるということは、もしかして、エジプトの神々やファラオもわが主イエス・キリストの前にひれ伏してしているのだ、ということを誇示しているのか。
どうも寄り道が多くてもうしわけありません。明朝体に話を戻します。
つぎは1837年完成のフランスの16ポイント明朝体です。これは漢字使用国では考えられない作り方をしており、分合活字(Divisible Type)とよばれるものです。
分合活字のアイディアはクラプロートとポティエで、フランス王立印刷所に提案し楷書体活字を開発したことはすでにお話ししました。提案者の一人であるポティエは、1833年に老子の『道徳経』の対訳書の出版を計画し、王立印刷所の種字彫刻師マルスラン・ルグラン(Marcellin Legrand)に分合活字のシステムを使った明朝体の制作を依頼します。この分合活字を使ったポティエの最初の対訳書は『大学』に変更され、1837年フェルミン・ディドー(Firmin Didot)印刷所で印刷・刊行されました。
この活字は市販されたようで、同年ヴェネチアのサン・ラッツァーロ島(St. Lazarus)に建つアルメニア修道院印刷所の活字見本帳『PRECES Sancti Nersetis Clajensis Arumeniorum Patriarchae. Viginti Quatuor linguis editae』に早くも載っています。
漢字書体のデザインでは、同じ構成部分であっても、文字によってそれらの位置・大小・長短・広狭が微妙に変化することで全体のバランスが保たれています。しかし分合活字はそれを単一化・固定化することで成立するシステムであるため、字形のバランスが大きく崩れるという欠点が生じるのは明らかです。しかしそれを差し引いても、膨大な漢字数を前にしてともかく彫刻数を少しでも減らすことを優先したのでしょう。
では種字は何字くらい彫られたのでしょうか。1844年にアメリカ長老会中国伝道会が所有するこの分合活字の総数見本帳『Characters Formed by the Divisible Type Belonging to the Chinese Mission of the Board of Foreign Mission of the Presbyterian Church in the United States of America』がありますのでその内訳を数えてみました。
分割できない単体文字1,963字
左右合成の文字1,415字
上下合成の文字474字
合計3,852字(左右・上下合成の文字は1,889字)
単体文字を含めて合成によってできる漢字総数は20,858字です。1字ずつ彫ることを考えれば、その労力は約5分の1で済むことになります。字形のバランスの崩れという欠陥があったとしても、分合活字はまことに便利な方法であったことがわかります。しかし組版の段階で2部分を合成しなければならず、印刷終了後の活字ケースへの戻しにも手間がかかりますので、すべてが単体文字でかつ少しでも優れた活字が開発されれば使用されなくなることは明らかで、過渡的な活字という位置づけがついてまわるのは避けられない運命でありました。
次はロンドンで作られた活字です。これはウイリアム・メイバー・ワッツ(William Mavor Watts)の鋳造所で作られた漢字活字で、この福音書『路加伝福音書・使徒行伝』から1845年には完成していることがわかります。一枚ものの見本は1851年ロンドンで開かれた博覧会のワッツの展示ブースで配布されたもののようです。
しかしワッツについての詳細はわかりません。ORIENTAL TYPE FOUNDER AND PRINTERとありますので東洋語の活字制作と印刷を得意としていたところであったのかもしれません。ワッツの漢字活字は大小のバランスが悪く曲線に癖がある明朝体ですが、種字は鋼鉄に彫られたパンチ父型と思われますので、このサイズとしてはよくできていると考えるのが素直な見方でしょう。活字のサイズは12ディドーポイント(4.5ミリ)と思われます。
ワッツの工場は1870年に火災で焼失しますが、その直前に東洋語を含む100言語活字で「主の祈り」を印刷した書体見本帳を刊行しているそうです。
ヨーロッパでの中国学の広がりを考えれば、ここで紹介したものはたぶんその一部の漢字活字であって、実際はもっと多くのものが作られていたのではないかと思われます。
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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