明朝体漢字活字の開発 連載第6回
小宮山博史
連載第7回へ続く illustration: Mori Eijiro
活字見本帳には自社が所有するすべての活字を見せる「総合見本帳」と、サイズ別で文字すべてを載せる「総数見本帳」の2種がありますが、その活字が何年に誰の手で彫られたのかを記すのは洋の東西を問わず稀有なことです。日本の活字見本帳はその傾向が強く、出版元や出版年、印刷者などは書いてありますが、種字を彫った彫師の名前がでることはありません。活字書体はその国の技術・文化・精神を記録・伝達する重要なものです。人知れずそれに一生をかけてより良いものを生みだそうと悪戦苦闘する種字彫刻師に、なんの敬意もはらわないというのは間違っていないだろうか。「これを行うには忠をもってす」(行之以忠)、ことを行うには真心をもってするべきです。
フランス王立印刷所のこの活字見本は印刷所の評議会秘書のフランソア・ブリュチュース・デュプラ(François Brutus Duprat)の指導によって制作されたと、フランス国立印刷局(L’IMPRIMERIE NATIONALE)はわたしの質問に回答してくれました。しかしわたしが知りたかったのは、この活字見本が何のために、何部印刷され、どこに配布されたかなのですが、残念ながら国立印刷局にも記録がなく、まったくわからないということでした。
ナポレオン三世旧蔵と思われるこの見本帳には「Exemplaire No 96.」とスクリプト書体で印刷されていますので、それが96番目のコピーであることがわかるだけです。ほぼA3版に近い片面刷り大型本で、王立印刷所が所有するすべての活字を収録したものです。ここに収録された文字書体は32言語で、それぞれはいくつかの異なるサイズを持っているものがありますので書体総数は104になります。豪華さからいえばわたしが見た活字見本帳の白眉といってよく、これを超える見本帳を見たことがありません(それほど見たわけではないのですが、おおげさにいいました)。フランス国立印刷局も同書を収蔵しているのはいうまでもありません。
また丸善本の図書館から、アメリカ合衆国ロードアイランド州のプロビデンス・パブリックライブラリーが収蔵していると教えていただきました。丸善が収蔵しているフランスの1845年代の総合出版目録には記載されておらず、またフランスの印刷文献の中にも記録がないので、商業出版ではなく公文書扱いなのかもしれないとのことでした。
この見本帳は文字活字だけでなく、後半にはこのような豪華な装飾図版も数多く収録されています。下に掲載したものはその中でも精緻で美しいものです。
話を活字に戻します。
王立印刷所の活字見本の中で40ポイントにつぐ古いものが24ポイントです。
この活字は当初木活字で作られたもので、1817年フランス中国学の牽引者アベル・レミュザ(Jean Pierre Abel Remusat)のラテン語・フランス語訳『中庸』に使われました。しかしレミュザの新著『漢文啓蒙』(1822年刊)を組むには字種が不足していたためにそれを新刻し、そこから母型を作っています。活字のデザインはレミュザ本人であり、彫刻は王立印刷所の種字彫刻師ドラフォンです。種字は1,400文字種でしたが、以降字母は追加制作されず、またこの活字を使った他の書物は見つかっていないと奈良女子大学の鈴木広光さんは書いています。この24ポイント鋳造活字は文字に大小があり、曲線部分の作り方に独特の癖があります。
そして楷書体から明朝体に移行する途中の試行の様子がわかり興味深い。たとえば「道」の「辶」、「之」の終畢部、「心・怒」の「心」と「也・見」の下の横画の作り方などは現在の明朝体とは異なるデザインですが、先行する40ポイント木活字にくらべると明朝体としての定型化が進んでいることがわかります。
これは明朝体ではなく楷書体ですが、漢字使用国では考えられない試みがなされていますので、紹介しておきます。
この見本で見るかぎり楷書としてはそれほど悪くはないと思いますが、「故」や「隨」などは形が悪い。それはこの楷書体活字が一部ですが偏と旁を別々に作ってあり、必要に応じて合成して一字を作るシステムを採用しているからです。これを「分合活字」(ぶんごうかつじ。Divisible Type)といいます。分合活字のアイディアは中国学者ポティエ(Jean Pierre Guillaume Pauthier)とパリ大学教授のクラプロート(Heinrich Julius Klaproth)が王立印刷所に提案したもので、1830年から34年にかけてドラフォンが彫っています。
ヨーロッパの言語はラテンアルファベットの組み合わせで単語を作ります。中国学者にとって、漢字の多くが偏旁あるいは冠脚を組み合わせて一字が作られていることは自明のことですから、分合活字の発想は自然であったと思うのです。それとこのシステムを採用したもう一つの理由は、彫らなければならない漢字の数の多さではないでしょうか。ラテンアルファベットであればせいぜい300字程度ですが、漢字は少なくともその20倍は必要です。できるだけ彫る数を少なくしたいという意識は当然あったはずです。この楷書体活字のサイズは18ポイントです。分合活字についてはあとでまたお話しします。
次はコレージュ・ド・フランス(Collège de France)で中国語講座を担当したジュリアン(Stanislas Julien)が関わったもので、1836年から38年にかけて王立印刷所で作られたNo.1とNo.2の16ポイント鋳造活字の明朝体2種です。
No.1は正体活字、No.2は上下が16ポイントで左右は18ポイント相当の扁平活字です。種字は海外宣教会の協力で四川省Li-Ming-Fouで彫られたといいます。Fouは「府」だと思うのですが、Li-Ming-Fouがどこなのかは残念ながらわかっておりません。先にお話しした24ポイント明朝体にくらべ、より小さなサイズでありながら文字はほぼ同じ大きさに作られ、明朝体としての定型化ははるかに優れています。
両者の「以」の4画目の長いハライの作り方、つまり垂直に下りてほぼ水平に近いかたちで左へ払う造形はこれからのちまで定型として踏襲されていきます。このNo.1の正体活字を使った印刷物に、スタニスラス・ジュリアンの論文抜き刷り『DOCUMENTS SUR L’ART D’IMPRIMER』(1847年)があります(下図)。
これは王立印刷所が印刷したもので、No.1の漢字活字で沈括の『夢渓筆談』の中の畢昇による活字の発明の記事全文を引用しています(連載第1回参照)。ただし原著での「版」字はここでは「板」にかわっています。
また日本学者レオン・ド・ロニー(Léon Louis Prunnol de Rosby)が1858年に書いた『REMARQUES SUR QUELQUES DICTIONNAAIRES JAPONAIS』にはNo.1の正体活字と13ポイントの片仮名活字が使われているとのことです。
この片仮名活字はアベル・レミュザ(Abel Rémusat)のディレクションで、王立印刷所の彫師ジャックマン(Jacquemin)が1818年に彫っています。13ポイント片仮名の図版は王立印刷所活字見本の解説部分からとりました。この片仮名活字はこののちいろいろなところで使われていきます。
ナポレオン三世治下帝立印刷所の名称であった1862(文久2)年3月15日(旧暦4月13日)、帯刀した武士団がこの印刷所を見学しています。
文久元年12月23日竹内下野守(たけのうち・しもつけのかみ)を正使とする遣欧使節団36名は品川を出航。1年にもわたるこの大旅行はヨーロッパ各国の事情を調査することが目的でした。この使節団の1年間を追ったのが宮永孝(みやなが・たかし)さんの『文久二年のヨーロッパ報告』(新潮選書、1989年)です。それによればアレキサンドリアを出港しマルセイユに着いたのが文久2年3月5日(陽暦1862年4月3日)、7日汽車でリヨンに入り、9日パリにむかいルーブル宮殿の前のロテル・デュ・ルーブル(L’hôtel du Louvre)に投宿します。使節団の主だった人は3月15日ナポレオン三世に謁見。そして使節団一行が帝立印刷所を訪ねたのは21日の午後で、『ル・タン』(Le Temps)紙によれば印刷所を一覧し「知的な質問をしたという」。そして石版局で「日本使節が印刷局を訪れた記念に目の前で高官だけの名刺を刷って見せてくれた」そうです。その印刷物は次のような文面でした(カッコ内は宮永孝さんによる註)。
大日本大君
御正使 竹内下野守
御副使 松平石見守
御目付 京極能登守
組 頭 柴田貞太郎
仏郎西皇国之押活版堂ヲ見廻タンタ(このカタカナは意味不明)押活版堂之制台安世児莫百堤田(印刷所の理事Anselme Petetin アンセルム・ペテタンのこと)御見廻及ヒ仏郎西之欵待(かんたい)之験(しるし)之為ニ此紙ヲ謹テ奉
巴里斯(パリ市の意)千八百六十二年四月十九日
裏はこの文章のフランス語訳が印刷されているそうです。ところどころ不明の日本語を起草したのはレオン・ド・ロニーではないかと宮永さんは書いています。
本格的な近代印刷術をはじめて見た使節団の人々はどのような印象を持ったのか知りたいところです。一行の中には福沢諭吉もいます。日本では活版印刷はその芽生えさえありません。
フランス国立印刷局は今は廃止されていますが、ここの前身が「近代活版術に使われる最初の漢字活字の制作」をおこなったことになります。
フランス王立印刷所は1539年フランソア一世(François 1)が創設した印刷所がその起源で、「国王の栄光、宗教の発展、文学の進歩」のために優れた作品を増やす目的で、リシュリュー(Armand Jean du Plessis Richelieu)枢機卿によって1640年ルーブル宮に設置されました。紋章は、燃えつきることなく炎の中で生き続けるというサラマンダー(Salamander火蜥蜴)。選定はフランソア一世で、国立印刷局も使っていたそうです。
王立印刷所は19世紀のフランスの政治的大混乱に翻弄されながらも、紋章のとおり国立印刷局として生き残りました。以下はめまぐるしく変わる名称。
1804年~1815年 帝立印刷所
1815年~1848年 王立印刷所
1848年 政府印刷所
1848年~1852年 国立印刷所
1852年~1870年 帝立印刷所
1870年以降 国立印刷局
1804年はナポレオンが皇帝に即位した年。1815年はワーテルローでの敗戦とセントヘレナへの流刑、ルイ一八世のブルボン王朝復活。1830年の7月革命によるルイ・フィリップの即位そして1848年2月革命での退位、第二共和制成立とルイ・ナポレオンの大統領選出。1851年ナポレオンによるクーデター、1852年国民投票で帝位につきナポレオン三世と称する。1870年プロシャとのセダンの戦いで捕虜となり、フランスの帝政は終わりをつげました。
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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