明朝体漢字活字の開発 連載第5回
小宮山博史
連載第6回へ続く illustration: Mori Eijiro
中国の四大発明が紙・活字・羅針盤・火薬であることはこの連載の冒頭に記しました。前出のカーターは自著『中国の印刷術その発明と西伝』(『THE INVENTION OF PRINTING IN CHINA AND ITS SPREAD WESTWARD』1925年初版)の1931年再刷の序文に次のように書いています。
「ルネサンスの初期にヨーロッパ中に広まった四大発明は、現代世界の形成に大きな貢献を果たした。紙と印刷術は宗教改革への道を開き、また民衆への教育を可能にした。火薬は封建制度をくつがえして市民軍を創設した。羅針盤はアメリカの発見を導き、ヨーロッパに代わって全世界を歴史の舞台にした。」(平凡社東洋文庫『中国の印刷術』、薮内清、石橋正子訳。1977年。)
連載第2回に名前をあげた張秀民先生は、中国人が発明した活字印刷術の歴史を、中国人が書かずにアメリカ人が書いたことに悲憤慷慨し、発奮して調査・研究をはじめ、1958年『中国印刷術的発明及其影響』(北京人民出版社)を、1989年『中国印刷史』(上海人民出版社)を著しました。
先生の長い間の中国印刷史研究が評価され、1987年11月、第1回「森澤信夫印刷奨」を受賞しています。株式会社モリサワによれば、「森澤信夫印刷奨」は中国印刷技術協会にモリサワ会長森澤信夫氏が個人名義で寄贈した基金をもとにして設立されたもので、外国人でありながら個人の名前が冠せられた珍しい奨(賞)とのことです。
話が少し横道にそれますが、わたしが預かる佐藤タイポグラフィ研究所と中国印刷技術協会にはわずかながら接点があります。東京オリンピックが開催された1964年、日本中国文化交流協会の招待で商務印書館副董事長(取締役副会長)王益先生は中国印刷代表団を率いて来日しました。滞在期間中の一日、王益先生たち3名は研究所(このときは佐藤デザイン研究所)を訪ねてこられ佐藤敬之輔(さとう・けいのすけ)と書体デザイン他について会談しています。そのおり当時研究所の助手をされていた浅葉克巳(あさば・かつみ。アートディレクター、東京タイプディレクターズクラブ理事長)さんがレタリングの実演をされ、王益先生たちを驚かせたそうです。まだ日中国交正常化前のことです。
1990年代初頭、わたしたちは中国のデザイナーと共同で書体開発を進めたいと考えて何度か北京を訪れていました。中国の印刷関係者との会合のおり、先方が誰か会いたい人がいるかと聞いてきましたので、だめでもともとと思って王益先生の名前をだしました。ところが翌日の会議に王益先生がみえたのです。先生は中国人民政治協商会議の全国委員も歴任されており、この当時は新聞出版署特別顧問であり、中国印刷技術協会名誉理事長をされていた偉いかたで、わたしなどが簡単に会える人ではなかった。これがきっかけとなりその後何度か王益先生とお会いすることができ、またいくつかの印刷関係の研討会に招待されるようになりました。ただ中国との書体の共同開発はいろいろな理由で挫折しました。
わたしは『中国印刷史』を神田神保町の中国書籍をあつかう書店で買いました。そしてその内容の広さと深さに驚嘆し張秀民先生にお目にかかりたいと手紙を書き、上海人民出版社に送りました。ただただ中国最高の印刷史家はどのようなお人なのか、どのようなお考えなのかが知りたいだけでした。先生は中国の知識人の伝統そのままに三譲され、そのあと杭州で会う約束ができました。西湖のホテルに真新しい人民服に身を包み人力車に乗ってみえられた先生は、無知に近いわたしにたいして穏やかで笑顔を絶やさず2日間も真摯に対応してくださいました。それ以来わたしは「わたしの印刷史の先生」とかってに決めて、今にいたっています。1993年の冬でした。
先生は厦門(アモイ)大学卒業とともに北平(ペイピン)図書館(北京図書館)に入り定年まで勤められました。図書館の貴重書のほとんどに目を通したとおっしゃっていたのが印象的で、中国最大の図書館ですからその蔵書量はわたしには想像もできず、いったいどのくらいの書籍を見たのか、話だけで気が遠くなりました。
先生の研究の調査に協力したのが甥の韓琦(ハンチイ)さんで、いまは中国科学院自然科学史研究所の副所長です。
しかし世界を変えた中国の四大発明は、本国では思うように発達せず、はるか遠いヨーロッパで花開きます。ヨーロッパにわたったこの発明が、近代活版術にのる明朝体活字の開発に深く関わっていることはあんがい知られていません。
それまでの沿岸航海を遠洋航海に変えたのが羅針盤です。遠洋航海ができるようになると多くの冒険者たちは未知の国アジアを目指します。苦労の末にインドや中国からもたらされる珍しい物品や文物は、貿易を盛んにし、東洋学・中国学を生み出しました。
貿易や東洋学には現地の言語の習得が不可欠です。言語の習得には現地語との対訳辞書の編纂がなくてはなりません。辞書を作るためには自国の言語活字と混植できる現地語の活字を作る必要があります。そのときたとえば中国語であれば楷書体にするのか、仿宋体(ほうそうたい。日本では宋朝体という)にするのか、書体を決めなければなりません。中国学者は書籍印刷の書体として、明代以降明朝体がもっとも多く使われていることは常識として知っていたはずです。明朝体の書体様式はヨーロッパのローマン体と共通するところがありますので、それとの混植を考えて明朝体を選んだのは自然なことだと思われます。
一時代前の宋版の書籍は美しい楷書体あるいは仿宋体で印刷されています。中国の正式な書体としての楷書体を書くにはそれなりの修練を必要とします。しかし出版が盛んになり多くの書籍が印刷されるようになると、誰もが手軽に版下が書ける書体が求められたのではないか。明朝体の書体様式はその構成要素を覚えてしまえば、上手い下手はありますがそれなりの形になるという利点があります。明朝体の出現は出版文化の隆盛と深く関わっているのでは、と勝手に想像していますがいかがでしょうか。
では、ヨーロッパでどのような明朝体漢字活字が作られていたのでしょうか。
ヨーロッパ初だと思いますが、フランス王立印刷所・帝立印刷所が開発した40ポイント明朝体木活字があります。近代的な活版印刷術で使われた世界最初の40ポイント明朝体木活字は、1742年に刊行されたフールモン(Etienne Fourmont)の『中国官話』に初めて使われただけで、活字としての制作は中断していましたが、ギーニュ(Joseph de Guignes)の『漢字西訳』を印刷するために、ナポレオン一世の命令で1811年から13年にかけて必要な木活字が彫られました。木活字を彫刻したのは帝立印刷所の種字彫刻師であるドラフォン(Delafond)です。1813年に刊行されたナポレオン皇帝版『漢字西訳』は中国語・フランス語・ラテン語の対訳辞書で、漢字活字は見出し語として13,316字種が使われています。下の図版は『漢字西訳』の第1ページです。大型本で上下寸法は48センチあります。
写真家港千尋(みなと・ちひろ)さんはフランス国立印刷局やこの辞書を撮影しており(写真集『文字の母たち』『In-Between』)、現存するこの木活字が「摂政のツゲ活字」と呼ばれていると書いています。摂政とは、ルイ一四世没後摂政となったオルレアン公フィリップ(d’Orléans Philippe)のことです。ついでにいえば王立印刷所のポイントサイズはここだけの特殊なもので、1ポイントは0.398ミリですが、かつて印刷局を見学したブックデザイナーの日下潤一(くさか・じゅんいち)さんのお話ではディドーポイント(Didot point。1ポイント0.3759ミリ)に換算して使っていたとのことです。写真を見るとわかりますが、この木活字はどうも正確に40ポイントの角寸法を守っておらず、文字によって角寸法にむらがあります(40ポイント木活字の写真は日下潤一さん撮影)。
この木活字の影響は意外なところに現れました。
1804年ナポレオンの戴冠式に招待されたローマ教皇ピウス七世(PioⅦ)は、世界の約140の言語活字で印刷された『ORATIO DOMINICA』(『主の祈り』1805年)を贈られますが、その中の漢字による主禱文はこの40ポイント木活字で組まれています。
ピウス七世は帰途北イタリアのパルマ公(Palma)にこの本を1冊贈呈したようです。パルマ公はお抱えの印刷者ボドニ(Giambattista Bodoni)に、この主禱文の漢字活字を参考に活字を作ることを命じたのかもしれません。
ボドニ版の『主の祈り』(1806年)は印刷博物館が収蔵しており、この印影は同館から提供していただきました。漢字活字は太さは違うようですが字形はよく似ていますのでフランス版を参考にしたことは間違いないと思います。線質から見てボドニのものは木ではなく金属に彫刻した可能性があります。
両方の図版の「國」の中の「或」ですが、ボドニ版の「或」には右上にテンがありません。フランス版の「或」のテンは小さいのですがたしかにあります。ボドニはこのテンを印刷の汚れと勘違いして落としたのではないか、と想像するかたもおられるかもしれません。でもその想像は話としては面白いのですが、実際にはヨーロッパの19世紀の本ではテンを落して作られているものも多くあります。
わたしが見たフランス版は「國」が転倒していましたが、印刷博物館収蔵本(下図)は直されて正立しています。ナポレオンの皇帝即位の記念出版といってもいい重要な本ですから、誤植版が世に出ることは普通は考えられませんが、どうしたのでしょうか。
木活字は必要な文字を一字一字彫刻しますので、同じ字でも字形はみな違います。この作り方には金属の活字材に一字一字彫刻したものもありますが、いずれも「彫刻活字」と呼ばれるものです。では、種字(たねじ)から母型を作り、同じ字が同じ字形になる「鋳造活字」の最初はなにか、という疑問が湧いてきます。
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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