明朝体漢字活字の開発 連載第4回
小宮山博史
連載第5回へ続く illustration: Mori Eijiro
グーテンベルク(Gutenberg)が金属活字で『ラテン語聖書』(42行聖書)を印刷したのが1450年代中頃といわれています。しかしそれに先んじて朝鮮の高麗時代に金属活字で印刷された書物が残っていました。パリのフランス国立図書館が収蔵する『白雲和尚抄録佛祖直指心體要節巻下』がその本で、1377年に清州興徳寺(せいしゅう・こうとくじ)で金属活字で印刷刊行されたものです。後年付け替えたと思われる表紙には『直指下』(ちょくしげ)とだけ書かれています。
白雲(はくうん)とは高麗朝末期の禅僧曹渓大禅師景閑(1298~1374年)の号です。書名にある「直指心體」は悟道の名句「直指人心 見性成佛」からとったもので、「禅を修めて人の心を正しく見るとき、その心性はまったく佛さまの心と同一であることを悟るようになる」と、大韓民国文化公報部海外公報館刊行の小冊子『直指下 解説』に韓国印刷史研究の千恵鳳(せんけいほう)さんが書いています。
小冊子には発行年が記載されていませんが、解説の中に「去年の夏」この本が「パリで公開される」とありますので、原稿は1973年に書かれたことがわかります。この小冊子は当時池袋にあった韓国文化院で開かれた韓国貴重書展での、孫宝基(そんぽうぎ。韓国印刷史研究者)さんの講演のときに配布されたものか、あるいは文化院に常に置いてあり自由に持ち帰ることのできる資料であったのか、忘れました。この展覧会は全斗煥(ぜんとかん)韓国大統領来日記念として開催されたと記憶していますので、1981年頃でしょうか。
当時のわたしは日本の近代金属活字史研究にまだ手をつけておりませんでしたし、ましてや中国や韓国の活字史にはまったく目がむいておらず、また知識も皆無でしたからどのような話であったか思い出せません。それでも孫宝基さんの痩躯と厳しいお顔だけは印象に残っています。ただこのあと韓国で出版された千恵鳳さんや孫宝基さんなどが書かれた韓国古印刷史の本を何冊か購入していますので、興味をもったことはたしかです。
『直指下』は韓国特有の五針眼訂法(五つ目綴じ。中国・日本は四針つまり四つ目綴じ)による袋綴じ本で、全39丁。39丁表に「宣光七年丁巳七月 日 清州牧外興徳寺鑄字印施」と刊記が入っています。宣光7年は1377年です。
文字の転倒や小口におかれた書名の欠字、「鑄字印施」という文字からこれが金属活字で印刷されたことがわかります。千恵鳳さんによれば木活字の混植も見られるとのことです。
たとえば24丁表の3行目一番下の「日」は転倒して逆字になっています。「日」の中の横線は左が離れていますし、縦線は横線から下に出るのが普通ですが、ここでは上に出ています。8丁表3行目下から4字目、最終行下から2字目の「日」は正立しており、正しく植字されているのがわかります。
24丁目表の後ろから3行目上から2字目の「汝」はその結構がほかの字と異なっていてできが悪い。これはこの字がないため木活字を彫って植字したのだと思います。
39丁表の小口の書名は「直 下」となっており「指」が欠字になっています。小口の書名の欠字はここだけであとは「直指下」と正しく組まれています。
この『直指』は1972(昭和47)年5月、ユネスコの「世界図書の年」を記念してパリの国立図書館で開かれた「LE RIVRE」(「本」)展で展示されました。書物研究家の庄司浅水(しょうじ・せんすい)さんはこのときパリにおり、偶然にもガラス越しに『直指』を見たと『本の五千年史』(東書選書、1989年)に記しています。出品目録によれば朝鮮本は第42番の『直指』、第43番の『經國大典卷之二』(けいこくたいてん。1481年刊)、第51番の『輿地圖』(よちず。1484年刊)の3点で、『經國大典卷之二』の第1丁表が図版として載っています。
ちなみにグーテンベルク(Johanul Henne Gutenberg)、フスト(Johann Fust)、シェッファー(Peter Schöffer)による『ラテン語聖書』(1455年頃とあります)は第109番目に展示されています。
刊記に書かれている興徳寺の場所はわかっていませんでした。1984(昭和59)年清州雲泉洞一帯の宅地開発工事中に寺社の遺跡が発見され、出土品の中に「興徳寺」という銘のはいったものがあったことから寺の場所がわかりました。現在はここに清州古印刷博物館が建っており、住所もこの本を記念してつけたと思われる「忠清北道清州市興徳区直指路113(雲泉洞866)」となっています。清州市はソウルから車で南に2時間ほどのところです。
2014(平成24)年4月26日に印刷博物館で開催された「朝鮮金属活字文化の誕生展」記念講演会で、清州古印刷博物館の学芸研究室長黄正夏(こうせいか)さんが「高麗時代の金属活字印刷の発明と『直指』の印刷」と題してお話をされました。そのおり配布された資料には『直指』がフランスに渡った経緯が書かれています。以下その要約です。
1888(明治21)年、フランスの初代駐韓代理公使に任命されたコラン・ド・プランシー(Collin de Plancy)は、1896(明治29)年から1906(明治39)年の10年間総領事兼ソウル駐在公使として再び着任し、この間に大量の古書を蒐集しています。『直指』はこの期間に購入したもので、1900(明治33)年パリ万国博覧会韓国館に展示されました。着任後4年のあいだのいつの年かに購入されたわけです。プランシーの収蔵書は1911年競売にだされ、『直指』はアンリ・ベーベル(Henri Vever)が180フランで競り落とします。ベーベルの死後、孫のフランシス・マーチン(Francis Mautin)が遺言にそって1952(昭和27)年フランス国立図書館に寄贈し、現在にいたっています。
15年ほど前ソウルで仕事をしていたとき、はじめて清州古印刷博物館に案内してもらいました。この日は日曜日でしたが見学者の数も少なく、静かな環境でいろいろな金属活字の展示を見ることができました。博物館のそばには再建された興徳寺の小さな堂宇が小雨の中にたたずんでおり、まことに静かで美しかったのを覚えています。
そのときミュージアム・ショップで購入した『直指』の原寸影印本で活字の大きさなどを測ってみます(2017年1月に再訪したときには販売していませんでした)。
『直指』は全39丁(78頁)、1頁の大きさは縦246ミリ×横170ミリ、版面(単辺の匡郭)は210ミリ×148ミリで、11行。1行の字詰めは17字から20字です。丁の表の小口に書名と丁数がついています。『直指』はもともと一巻の本であったようで、いつのときか分冊になったらしい。分冊の製本時に上下が少し切られたようです。
第8丁目は各行いっぱいに文字が入っていますので組み方がよくわかります。全22行のうち19字詰めが16行、18字詰めが6行です。匡郭の内法は208から209ミリありますので単純に文字数で割れば一字あたり11ミリから11.6ミリになります。しかし文字の上下方向の大きさは一定ではなく14ミリという文字もあります。上下に大きい文字は12.5ミリから13ミリで、「一」はほぼ半分の大きさのようです。ここでは整版本のように文字が重なって見えるところがあります。たとえば8丁表の7行目「聞廣南」「鎮海」、10行目の「此珠」、最終行の「襌師」などですが、定規を水平にしてあててみると活字表面ぎりぎりに点画が布字されているようで、墨のはみだしによってそう見えるのかもしれません。
いろいろな大きさがあるからか、行末の文字を同じ位置に揃えるために字間にスペースを入れて調整しているようです。各行には界線がありその幅は13.5ミリから14ミリ、文字の左右幅は最大で13ミリです。
この高麗活字は左右は一定の寸法にし、上下はそれぞれの文字の構造を考えて何種類かの寸法にしてあるのかもしれません。活字が残っている李朝銅活字にくらべ、高麗の金属活字は活字そのものが発見されておらず、どのような方法で作られたかはわかりません。しかしこのすぐあとに作られた李朝銅活字「癸未字」(1403年)となんらかの関係があることは容易に想像できます。ただしこの『直指』は寺社版ですから官版にくらべればそれほど精緻なものではないと考えられます。
活字鋳造の一つの方法として蝋で凸の種字(たねじ)を作り、海泥に埋め、溶解した金属を流し込んで活字を作ったのでしょうか。蝋の種字は溶けてしまい同じ字形のものは二度とできません。あるいは木彫の種字を作り海泥に押しつけ、その上に平らな泥の板をのせて凹になった空間に溶解した活字材を流し込む製法であったのでしょうか。これですと同じ字形の文字が繰り返し出現することになります。種字はいずれも逆字で作られたはずです。
『直指』の活字は楷書体ですが、版下はどのようにして作ったのか知りたいところです。木彫の種字であれば書籍から該当する字を切りとるか、版下を新しく書きおこすかして、それを裏返して種字材の表面に貼って彫刻すればよい。しかし蝋の種字材ではそれが可能かどうか、わたしにはわかりません。
それと活字のサイズはどのような尺度によっているのかにも興味があります。普通に考えれば当時の「ものさし」によっていることは想像できますが、では高麗朝時代の「ものさし(高麗尺)」がどのような寸法であったのか、残念ながらこれもわたしにはわかりません。
『直指下』は、2001年ユネスコ世界記録遺産に登録されています。
中国で発明された活字印刷術ははるかに遠いヨーロッパにわたって発展していきます。
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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