小宮山博史「活字の玉手箱」
2017年09月21日

明朝体漢字活字の開発 連載第3回

小宮山博史

 畢昇墓碑の発見から認定にいたる経緯は次のようなものでした。
 1978年、湖北省英山県紅花ダム建設のために草盤地鎮五桂墩(そうばんちちん・ごけいとん)でトンネルを掘削中、古い墓碑が掘り出されましたが気にもとめずにふたたび埋め戻されました。
 1988年、道路敷設工事で再び掘り出された墓碑は、舖石に使うために排水溝に放置されていました。
 1990年、教師を退職した人が墓碑の存在を英山県地方誌事務所に報告します。草盤地鎮幹部が五桂墩村で墓碑を確認したところ「故先考畢昇神主 故先妣李氏妙音 墓」と刻されているのを見て、活字印刷術の発明者畢昇の墓碑ではないかと関係部門に報告、以降各部門で調査検討を加えることになりました。
 1992年末、新聞が「英山で活字印刷術の発明者畢昇の墓碑が発見された」と報道。 
 1993年、湖北省の文物考古学の専門家による英山畢昇墓碑研討会が開かれ、碑の墓主は活字印刷術の発明者畢昇であると鑑定。
 1994年、国家文物局全国館蔵一級文物鑑定確認専門家グループは、同碑を全国館蔵一級文物に指定します。
 1995年、正式に国家による認定がなされました。

 明朝体漢字活字の開発 連載第3回

 明朝体漢字活字の開発 連載第3回
 墓碑の拓本で刻字の様子、集合写真でその大きさがわかると思います。
 一級文物の指定は人々に活字印刷術の発明者がまちがいなく中国人であること、そして沈括がいう畢昇が実在の人物であることを証明したことになります。
 しかし、この墓碑が活字印刷術の発明者畢昇のものであるという確かな証拠はないという意見もあったようです。『夢渓筆談』には畢昇の出身地や職業など何一つ書いていません。ただ「布衣」(ふい)つまり平民と記すだけです。
 『夢渓筆談』には祥符年間(1008年~1016年)に「老鍛工畢升」という人物についての記事があります。梅原郁(うめはら・かおる)さんの訳を再び引用。


 「大中祥符年間のことである。黥(いれずみ)いりの兵卒で、沙門島(しゃもんとう)に流されたこともある方士(引用者註―仙術を行う人)の王捷(おうしょう)は黄金作りができた。また畢升という、以前宮中で捷のために金を鍛錬してやった老鍛冶工がいた。(以下略)」

 この畢升を畢昇と同一人物と考え、畢昇の没年を皇祐3(1051)年頃と推定した説が有力で、これを根拠に発見された墓碑を畢昇のものと判定したようです。墓碑の左には年号が刻されており「□□四年二月初七日」と読めるそうですが、墓主の没年を示すはずの□□の2字は判読できず、残念ながら何朝であるかわからない。
 『夢渓筆談』では記事によって「昇」と「升」を書き分けています。沈括の生きた11世紀ころはどうであったかわかりませんが、この2字は現在の音ではともに平声の「sheng」です。音が同じであればどちらの漢字を書いてもよかったのでしょうか。しかし沈括は科学者ですから、性格的に事実を第一に考えて記事を書いているのではないかなという疑問は残ります。
 平凡社東洋文庫『夢渓筆談』の自序の訳者註には、

 「沈括は元豊八年(一〇八五)、五十五歳の時に湖北の随州から浙江の秀州(嘉興)に移ることになり、その途次、鎮江府に壮年時代夢見た隠棲の地とそっくりの場所を見つけ、そこに邸第を築いた。」

とありますので、沈括は55歳のときは湖北省随州に住んでいたようです。そして畢昇の墓碑が発見された場所も湖北省英山県です。「畢昇」と「畢升」の関係、そしてともに湖北省在住ということが認定の大きな要因であったのかもしれません。ただし認定にいたる経緯についての報告書をわたしは見ていませんので、これ以上のことはわかりません。
 墓碑の形と模様はアラビア人のものとよく似ており、元末か明初のものではないかという意見もありました。北京市牛街(ニュウジエ)の清真寺(イスラム教の寺院)にあるアラビア人の墓碑によく似ているという指摘を張秀民先生がされておりましたので、北京に行ったおりこの墓碑を見にいきましたが、たしかによく似ていました。
 いまはどうなっているかわかりませんが、わたしが訪ねた1990年代中頃の牛街清真寺周辺の胡同(フートン。横町)は、広くはない道に街路樹がおおいかぶさり、薄暗いけれどもまことに静かで落ちついた美しい街でした。清真寺のそばにはたくさんのシャワーがある大きな浴池(風呂屋)と思われる建物があり、イスラム教の信者はここで身を清めてから参拝するのかなと、しばらく立ち止まって見ていたことを思い出します。
 「老北京」(Old Peking)がまだいろいろなところに残っていた時代です。

 写真は雪の清真寺です。宮坂弥代生(みやさか・やよい)さんが2010年3月に撮影したもので、降りしきる雪の中の静かなたたずまいが美しい。

 明朝体漢字活字の開発 連載第3回

 明朝体漢字活字の開発 連載第3回

 明朝体漢字活字の開発 連載第3回

 明朝体漢字活字の開発 連載第3回
 活字の発明国中国では当時の活字印刷物が今のところ発見されておらず、沈括の記事で活字が作られたということがわかるだけです。では現存する最古の活字印刷物はなにか。

連載第4回へ続く

〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉
 
小宮山博史イラスト

illustration: Mori Eijiro

● 小宮山博史
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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連載にあたって
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