明朝体漢字活字の開発 連載第2回
小宮山博史
連載第3回へ続く 〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉 illustration: Mori Eijiro
活字は薄い「膠泥」つまり粘土に一字ずつ彫って焼き固めたもののようです。活字の厚さは銅銭の縁のように薄いとあります。潘吉星(はんきっせい)氏は自著『中国金属活字印刷技術史』(遼寧科学技術出版社、2001年)の中で、銅銭の縁の厚さは普通2ミリであるが、これは活字の厚さではなく刻字の深さ(活字字面から谷までの彫刻深度)で、この解釈は『中国印刷術の発明とその西伝』を著したアメリカ人T.F.カーター(Thomas Francis Carter)も同様であるとしているそうです。しかし畢昇の活字は沈括の親戚が保存しているのですから、沈括はそれを実見していると考えるのが普通であって、その上で「薄如錢唇」(薄さは銭唇の如し)と書いているのは、彫刻深度ではなく実際の厚さがその程度であるからではないのでしょうか。ただ活字の厚さが2ミリというのはいかにも薄く、そうであれば彫刻深度は1ミリ以下であったかもしれません。潘氏やカーターが2ミリを彫刻深度と考えたのは理解できないわけではありませんが、常識的に考えれば無理な解釈だと思います。
また使用頻度の高い「之」「也」はそれぞれ20数個あると書いていることから考えても、畢昇の活字を見ている可能性は排除できません。もしそうだとすれば沈括は活字のあまりの薄さに驚嘆し、その驚きの形容としてこの「薄如錢唇」を使ったことになります。ただし沈括は記事の中に活字の大きさ(角寸法)を記していないため、この点で実見ではなく伝聞であるかもしれないという疑問は生まれます。
組版はまず鉄板の上に松脂と臘、紙の灰などを混ぜた固定剤を置き、その上に鉄の枠を乗せそこに活字を並べる。鉄の枠はチェース(chase)状のものでしょうか。ただし組版を締めつける機能はなくただの枠でしょう。「鉄範」について、潘吉星氏は同書にカーターの見解と同じであることを記し、一行ごとに先の尖ったもので罫線を引いてから活字を置き、一行を組終えたらインテル状の薄い鉄の板を挟み、字の並びを揃えることだとしています。ただし沈括の記事のなかにはこの行程は記述されていません。
一枚が組み上がると、底の鉄板を熱する。そうすると固定剤が融解し、時間をおくと冷えて活字が固定される。薄い活字板であれば繰り返し刷れば弛んでくると思われますが、それを避けるために活字の底に固定剤を噛ませるなにかを施していなかったのでしょうか。これに近い方法を導入したのが朝鮮の李朝銅活字で、固定剤としては蜜蝋を使っているようです。李朝銅活字は活字の厚さ(活字表面から尻までで「高さ」といいます)が10ミリほどあり、固定を強化するために活字の尻に窪みを作って固定剤をしっかり噛ませるようにしています。しかし畢昇の活字は厚さが「銅銭の縁」ですので、そのようなことはできないと思います。
活字の分類・保存は韻をもとにしてまとめ、それぞれを木片で仕切る。活字ケースです。韻は漢詩などで「韻をふむ」というように漢字の発音で、隋・唐時代は206韻だそうですから、畢昇の活字ケースは206に分類されていたと思われます(元朝以降は106韻)。近代活字の活字ケースは康熙字典の214部首で分類しています。
組版の固定が終わったあと、活字面に墨を塗り、紙を被せてバレンなどで刷ったのでしょう。粘土に彫った活字を焼けば素焼の状態ですから、活字が薄いことによる耐久性に疑問をもった人が多かったようです。中国科技大学は畢昇の方法で活字を復元し印刷実験をしたと、印刷史家張樹棟(ちょうじゅとう)氏は自著『中国印刷之最』(百家出版社、1992年)に書いています。それによれば活字は想像以上に堅牢で、「一触即砕」つまり触っただけで壊れるほどもろくはなかったことが証明されたといいます。
また藤枝晃氏は自著『文字の文化史』(岩波書店、1971年)の中で興味深い実験結果を書いています(引用文は1977年第7刷)。畢昇から約200年後の1314年に刊行された王禎の『農書』は活字印刷で、巻末に印刷法を記しており、その中に活字材は「よく焼いた瓦」とあるそうです。これは素焼を意味しています。
「数年前に京都の陶磁印の専門家加藤紫山氏を煩わせて、些かの実験を試みたことがある。
一定の寸法の活字の台を陶土で作って、軽く炙って素焼にしてから文字を彫る。材料が柔らかいから、文字の彫刻そのものは木活字より遥かに容易である。ところが、彫刻刀の刃先がすぐに摩滅する。素焼の粘土に刀をあてがうことは、まるで金剛砂で磨いているようなものである。しょっちゅう刀を研いでいなければならないので、能率からいえば、木活字と比べて何方が勝るとも言い兼ねる。彫り上げた活字を七輪で焼けば(九〇〇度ばかり)、楽焼き程度の堅さの陶活字が簡単にでき上がる。活字そのものは丈夫で長もちしそうである。さて印刷の段になると、墨がうまくつかないので、油性インクを使わなければならない。バレンで裏から刷ると、活字が堅いので、紙が破れ易く、かなりの厚手紙を必要とする。
実験の結果は右のような次第で、粘土を材料とした活字は好事家の記録に見えるだけのもので、実用の印刷には恐らく大して普及しなかったに違いない。多くの書誌学者は「粘土の活字は壊れやすかったろう」というが、これは焼いて固めるという操作を見落としての発言である。その欠点は、むしろ堅すぎることのほうにある。」
友人が送ってくれた『毎日書道講座9 篆刻』所収「陶印の作り方と要点」(毎日新聞社、1991年)を読むと「自然乾燥のままでも刻は出来ますが、細部が崩れやすいことと、焼成後の変形が大きい」とあります。それは「焼き締めると中央部が特に収縮します。それを見越して印面を凸部に整え」ますが、その程度は「用土や焼成時間によって異なり、体得する」ほかないようです。
陶印では素焼してから文字を彫ることがわかりました。藤枝氏の文章にある「軽く炙って素焼にしてから文字を彫る。材料が柔らかいから、文字の彫刻そのものは木活字より遥かに容易である」というのは活字材を焼く前の状態であればその通りだと思います。しかし焼いたあとでは堅さは木活字や直彫り用の金属活字(駒といいます)の比ではないことは誰でもが理解できるはずです。「軽く炙って素焼にしてから文字を彫る」という文章が前に振ってありますので、後段の「彫り上げた活字を七輪で焼けば(900度ばかり)、楽焼きていどの堅さの陶活字が簡単にでき上がる」との関係から、わたしは粘土を成形してほんの少し炙って堅くしてその上に文字を逆字で彫り、それを焼成したと理解してしまいました。つまり火を二回通して作ると解釈したわけです。しかしどうも焼成は一回らしい。
宋の時代は陶磁器製作の絶頂期でしたから、畢昇もある程度の知識があり、そこから発想して粘土を使って活字を作ることを考えたのかもしれません。しかし畢昇がどのような工程で活字を作ったか、沈括も『夢渓筆談』には書いていません。
印刷が終わって解版するときは、再び鉄板を熱し固定剤を融解させます。そうすれば活字はたやすく取れ汚れることもないといいます。梅原氏訳にある「ふくらんだり」というのは原文にはありませんが、木活字は水に濡れると高低が揃わなくなるのにたいして、粘土を焼いて作った活字はそのようなことがないという前文を受けた補足の訳のようです。沈括の記事にある「殊不沾汚」の「沾」は、水に濡れるとか滲みる、付着するという意味があるそうです。この文章は「ほとんど汚れがつかない」と訳しますが、わかりやすくするために意識的に「ふくらんだり」を入れたと思います。
沈括は政界を引退して江南の鎮江府に隠棲します。人との付き合いを絶ち話し合う相手は筆と硯だけであることから「筆談」と名付けたと自序にあります。隠宅の泉を「夢渓」と命名していましたので、この随筆を『夢渓筆談』としたようです。これが書かれたのは鎮江に隠棲した元祐3(1088)年から、その死の紹聖2(1095)年の間であるといわれています。
『夢渓筆談』が最初に印刷出版された年代はわかりません。ここで引用した図版は江蘇広陵古籍刻印社が1997年に刊行した影印本によりますが、この影印本は元の大徳9(1305)年茶陵東山書院の刊本をもとにしているようです。序には楊州州学教授湯脩年(とうしゅうねん)の跋が南宋乾道2(1166)年6月に書かれたことが記されています。
張秀民先生は『中国印刷史』(上海人民出版社、1989年)の中で沈括の生没年を1031~1095年あるいは1030~1094年としていますので、活字が発明されたときに沈括は10歳から18歳の間です。『夢渓筆談』の「その活字はわたしの親類が手に入れ、現在でも大切にしまっている」という記述から、畢昇と沈括は生活する場所が近かった可能性があります。
活字の発明国とされる中国では当時の印刷物をふくむ活字資料は発見されておらず、沈括の記事でどのようなものかがかろうじてわかるだけでした。しかし1992年畢昇の墓碑が発見されたというニュースは、中国の人びとを驚かせました。
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
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