連載コラム
2017年08月04日

ぬらくら 第77回 直指

ソウルの中心部から南へ約130キロメートルをバスで移動、到着したのは忠清北道清州市興徳区直指大路にある清州古印刷博物館。

清州古印刷博物館は活字の博物館だと聞いていたので訪問を楽しみにしていたが、まさかソウルからこんなに遠い所にあるとは思いもしなかった。

どんよりした空の下、ガランとした清州古印刷博物館の駐車場でバスを降りる。
J、I、K、J、Iと並ぶ白く塗られた文字の右に、表紙に「直指」と書かれた袋綴じ本のブロンズ像が駐車場の片隅に見える。JIKJIは直指の韓国語読みの音で仮名書きすれば「チッチ」か。

駐車場の奥、十段ほどの幅広の石段を上って博物館のガラス・ドアを開ける。
入り口を入るとロビー正面の壁に嵌め込まれた直指の概要を説明した大きなコルトン(電飾看板)が眩しい。

直指は正しくは「白雲和尚抄録仏祖直指心体要説」と言い「直指心体要節」あるいは単に直指と呼ばれている。

これは14世紀の高麗の禅僧・白雲和尚景閑(*1)が、仏陀と僧侶たちが残した言葉を要約して上下二巻に纏めた本で、「直指心体」とは「『人が心を正しく持ったとき、その心性が即ち仏の心である』ということを悟る」ことだそうだ。

奥付に「宣光七年丁巳七月 日 清州牧外興徳寺鋳字印施」と刷られており、これが、直指が1377年に清州興徳寺(*2)において金属活字(*3)で刷られたことの証左となった。
直指が世界に現存する金属活字で刷られた本の内、最も古いものであるといわれる所以である。

あいにく、この博物館に展示されている直指はレプリカ、本物はフランスにある。

19世紀末から20世紀初頭にかけて駐韓フランス公使だったコラン・ド・プランシ(Collin de Plancy)が韓国で蒐集した古書のコレクションがあった。彼の死後、それが骨董品収集家であったアンリ・ベベル(Henry Vever)に渡り、アンリ・ベベルが1950年に死亡すると、その遺言によってフランス国立図書館に移管され今日に至っている。

後に、このコレクションから直指の原本が見つかったのだが、長らくコレクションの中に埋もれたままだった。1970年代になって再発見された直指は、以後、世界最古の金属活字本として注目を浴びるようになった。

上巻は伝わっておらず、下巻の原本のみが今もフランス国立図書館に所蔵されており、2001年9月にユネスコ世界遺産に指定されている。

ドイツのグーテンベルクが初めて金属活字を使って42行聖書を印刷したのが1455年といわれているので、1377年に刷られている直指は42行聖書よりも78年早い金属活字による印刷物ということになる。

直指が清州興徳寺で刷られたことにちなみ、木版印刷から金属活字に至るまでの韓国印刷文化を紹介するため、1992年に清州興徳寺址の隣接地に建てられたのがこの清州古印刷博物館である。

館内には古い木版印刷物の他に、当時の金属活字ができるまでの工程が展示されている。

白い作務衣を着た僧侶と思われる等身大の人形達が、木版刷り本から文字を選び出している場面に始まり、活字の鋳型を作るための蜜蝋を精製し、棒状にした蜜蝋に文字を凸刻し、蜜蝋の凸刻字で鋳型を作り、そこに溶かした金属を流し込んで活字を鋳出すまでの、それぞれの場面が順に展示されている。

ここに展示されている活字は近代活字のような四角柱ではなく、文字の部分だけの薄く平らな形をしている。その鋳型(中子)の姿は、ツルンとした太い幹のてっぺんから、先端に種字をつけた枝が生えているようで、さながらボオバブの木のようだ。

鋳出されたバオバブのような形をした活字の塊から、枝先の文字部分だけを一文字一文字 切り離すと活字になる。

この薄く平らな活字を、蜜蝋を流し込んだ枠に一文字ずつ並べて蜜蝋で固定すると、印刷用の版になる。

蜜蝋を使った活字の製造方法や組版の手法を他で見聞きしたことが無い。
世の活字好きの諸兄姉にはこの博物館を訪ねて見ることをお勧めする。

直指の奥付ページの写真を柄にしたマグカップを土産に、バスに乗り込んでソウルに戻る頃は周囲は既に薄暗く、低い空から小雨も降り出してきた。

*1:白雲和尚景閑
高麗の高僧。1298(高麗忠烈王16)年生まれ。長じて中国に渡って仏教を学び、帰国後は海州の安国寺と神光寺の主持を歴任した後、1374(高麗恭愍王23)年に驪州の鷲岩寺(鷲嚴寺)で没した。

*2:清州興徳寺
今も清州古印刷博物館の右手丘の上に清州興徳寺址がある。

*3:金属活字
直指はハングル(1446年)が世に出る以前のもの、使われている文字は漢字のみ。

タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
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  著者 Information

ダイナコムウェア コンサルタント
ダイナコムウェア コンサルタント
mk88氏

PROFILE●1942年東京都生まれ。
1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。
設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、
総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。
1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。
Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・
フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。
現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
Blog:mk88の独り言

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