小宮山博史「活字の玉手箱」
2017年07月20日

明朝体漢字活字の開発 連載第1回

小宮山博史

はじめに

活字とはいい言葉です。
 活字は紙、羅針盤、火薬とともに世界を変えたといわれる中国の四大発明の一つです。ふつう活字というと金属活字を指しますが、写真植字の書体や現在のデジタルフォントも活字といってよい。これらは文字生成技術の違いであって活字の役割の違いではありません。活字は一字種一字形が基本で、組み替えは自由、そして繰り返し使うことができます。
 日本語組版を構成する書体は、パーソナルコンピュータが普及するにしたがって急速に増え、いまでは2,000をはるかに超えるまでになっています。その中で見出しから本文までに対応できる汎用書体として日本語組版を支えているのが明朝体です。その明朝体の特長を書体設計者や書体について発言する人は「水や空気のようなもの」とよくいいます。しかしその言葉の意味を聞いたことはないように思えます。それが人びとの生活になくてはならないものという意味なのか。あるいは個性を表にださないように作られているということでしょうか。つまり没個性的だからこそ汎用性があるという意味で使っているのか。しかし書体はそれぞれが絶対的な個性を持っていますので、没個性的であるはずはなく、水や空気のように存在が意識されないという表現は論理的には成立しません。
 孔子は「辞は達するのみ」といっています。言葉は意味が通じなければいけないという意味ですが、「水や空気」という表現は、明朝体の本質を一言でいい表わしたものであり、発言者がまず解説しなければならないものです。
 ではなぜこのような譬えが使われるのか。
 書体は組まれてはじめて意味を持ちます。そこに使われている文字は繰り返し何回もでてきます。繰り返してでてくる同じ文字はいつも同じ字形です。そして新聞や書籍、雑誌あるいは画面を介して多くの人たちの目に触れます。ほぼ同じ書体様式で作られている明朝体は、繰り返し大量に投下されることでそれぞれの書体が持っている絶対的な個性が薄まり、どのような文章にも対応できる普遍的な個性を獲得していきます。そのうえにそこで使用されている活字の大きさは本文サイズの五号、9ポイント・8ポイント、13級・12級などが大部分で、一字の大きさは3.7ミリから2.8ミリです。この程度の大きさになると書体が本来持っている絶対的な個性と書体様式は、読者には差別化できなくなり、文字がただそこにあるという状況になります。これが読者にとって「水や空気」になった状態であろうと思います。ただしすべての明朝体がそのような状況になるのではなく、許容される様式と一定の品質の範囲の中にはいる書体であるという条件がつきます。言葉をかえれば、人びとに受けいれられる明朝体としての普遍的な書体様式から逸脱し、かつ誰が見ても一般的な明朝体としてあきらかに品質の劣る書体は除外されるのはいうまでもありません。
 この条件にあう「活字」は母型から鋳造した金属活字が最初です。金属活字には必要な文字を一字一字彫ったものがありますが、これは彫刻活字といって同じ字でも字形はすべて違います。また鋳造された金属活字には朝鮮の李朝が作り続けた銅活字がありますが、これは砂型から鋳造したものですべての文字が同一字形というわけではではありません。近代産業によって生みだされ市販された工業製品としての金属活字は、同一字種同一字形が基本になっています。同一字種同一字形であることで前述のように読者は書体の個性と様式にたいする意識がいっそう薄れ、その結果どのような内容の文章にも対応できる普遍性を獲得するのです。欧米の活字製造法を導入し、その技術を使って大量に鋳造され、書籍などの組版に使われる活字を近代活字とよびます。
 この連載は近代活字の話が中心になります。それらに携わった多くの人びとの努力と叡智をどこかで記録しておくのも、書体設計者として活字書体史を学ぶものの務めです。日本に明朝体が導入されてから150年ほどがたちます。日本だけでなく中国・韓国もまた明朝体を漢字書体として使っています。明朝体という書体様式は出版文化が盛んになった明の時代に確立したものでしょう。金属活字としての明朝体が中国では発達せず、遠くヨーロッパで誕生したのはなぜか。そしてどのようにしてアジアへの東漸をはたしたのか、それはどのような理由からなのか。それによって人びとの生活がどう変わったのか。そんなことを考えてみようと思っています。

1 活字の誕生
 
いまわたしたちは「活字」という言葉を普通に使っていますが、ではその活字が発明されたのはいつのことで、それはどのようなものであったのかについては案外知られていません。

 北宋の有名な科学者である杭州人沈括(ちんかつ)は、『夢渓筆談』(むけいひつだん)巻十八に畢昇(ひっしょう)による活字印刷の発明を記しています。日本の活字印刷史では畢昇が活字を発明したとは書きますが、記事の引用はないようです。全文278字の短い文章ですので引用してみます。
 以下は原文と訳。原文への句読点は引用者。訳文は梅原郁編『夢渓筆談』(平凡社東洋文庫、1978年)から引用させていただきました。沈括の文章の中には「活字」という言葉はなく、「活版」という言葉が使われています。活版とは「活字を使った印刷用の版」という意味でしょう。
 
小宮山博史資料01 小宮山博史資料02 小宮山博史資料03

 「版印書籍、唐人尚未盛爲之自馮瀛王始印。五経已后典籍為版本。慶暦中有布衣畢昇又爲活版。其法用膠泥刻字、薄如錢唇、毎字爲一印、火燒令堅。先設一鐵版、其上以松脂臘和紙灰之類冒之。欲印則以一鐵範置鐵板上、乃密布字印、満鐵範爲一板、持就火煬之、薬稍鎔、則以一平板按其面、則字平如砥。若止印三二本未爲簡易、若印數十百千本、則極爲神速。常作二鐵板、一板印刷、一板巳自布字、此印者纔畢、則第二板巳具、更互用之。瞬息可就。毎一字皆有數印、如之也等字、毎字有二十餘印、以備一板内有重複者。不用則以紙貼之、毎韻爲一貼、木格貯之有竒字素無備者旋刻之、以草火燒瞬息可成。不以木爲之者、木理有疎密、沾水則髙下不平、兼與薬相粘、不可取。不若燔土用訖再火、令薬鎔以手拂之、其印自落、殊不沾汚。昇死、其印爲余羣從所得、至今保藏。」

 「木版で書物を印刷することは、唐の人たちは、まだ盛んには行われなかった。馮道(ふうどう)がはじめて『五経』(ごけい)を印刷したのちは、主だった書籍はすべて木版本となった。
 慶暦年間(1041~1048)、民間人の畢昇がさらに活字による印刷をはじめた。その方法は、膠泥を使って字を刻み、銅銭の縁のように薄くし、一字ごとに一活字として、火で堅くやいておく。
 まず、鉄板一枚を置き、その上を松脂、臘、紙の灰をまぜあわせておおう。印刷しようとすれば、鉄の範(わく)を鉄板の上に置き、それから〔範の中に〕活字を一面に敷きつめる。鉄範いっぱいを一板とし、そのまま火であぶる。薬(松脂や灰)がとけはじめると、平らな板でその表面をおさえれば、各字は砥石のように平らになる。極く僅かな印刷の場合には、簡単で便利というわけにはいかぬが、何百何千と刷るとなると、驚くほど迅速にできる。
 いつも二枚の鉄板を用意しておき、一板で印刷している間に、次の一板には字がならべられる。先の板の印刷が終るとすぐに次の板がでてくる。かわるがわるこのようにしてやれば、瞬く間に刷りあげることができる。
 一字ごとに数個の活字があり、「之」や「也」などのような字は、各々二十数箇あって、一板の中での重複使用にそなえる。使わない時は、紙の付箋をつけ、韻ごとにひとまとめにして、木のケースに収納しておく。普段用意していない字は、必要に応じて刻字し、草の火で焼くとすぐに作ることができる。
 木で活字を作らぬわけは、木目に疎密があること、水をふくむと高低が平らかにならず、また薬でねばってしまってとり出すことができなくなるためである。土で焼いたものの方が、使い終ればまた暖めて薬をとかし、手で払いのけると簡単におち、少しもふくらんだり汚れたりしない点がすぐれている。
 畢昇が死んで、その活字はわたしの親類が手に入れ、現在でも大切にしまっている。」

 『夢渓筆談』にある「馮瀛王」は唐末の五代十国(ごだいじっこく)時代に四代と遼の宰相を務めた馮道(882~954年)のことです。五代は唐から宋への過渡期に中原で興亡した王朝で、後梁・後唐・後晋・後漢・後周をいい、十国は中原以外に割拠した前蜀・呉・南漢・荊南・呉越・楚・(びん)・南唐・後蜀・北漢をさします。馮道は五経の印刷事業をはじめた人物で、それは西暦932年のことといわれています。五経とは易経、詩経、書経、春秋、礼記です。
 沈括は版本は唐代にはおこなわれず、そのあとの五代十国時代馮道によってはじめられたといっています。しかし、辛亥革命をきっかけとして清朝が滅び、中華民国が成立する一年前の宣統辛亥(1911)年に刊行された『書林清話』(葉徳輝著、文史哲出版社影印本、1988年)の巻一「書有刻版之始」には、「世間では版刻本は五代馮道によって始められたというが、実は唐の僖宗中和年間にはすでにあった」とあります。中和は881~884年の間です。筆者の葉徳輝は多くの文献を渉猟して、木版印刷は唐にはじまったと結論付けています。しかしその正否はわたしにはわかりません。

連載第2回へ続く

〈注- 本連載に使用した収蔵先の記載のない図版は、すべて横浜市歴史博物館収蔵本による〉

 
 
小宮山博史イラスト

illustration: Mori Eijiro

● 小宮山博史
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。

小宮山博史「活字の玉手箱」 記事一覧
連載にあたって

第1回はこちら