小さな文字に隠された壮大な歴史 その2
先生方の出会いから、いま明朝体の歴史が明らかになる
小宮山先生は20年近くに渡り明朝体の歴史を研究して来られました。様々な調査により、19世紀の半ばに日本で初めての鉛活字の明朝体が、実は船舶で輸入された品物だったという驚きの事実が証明されたのです! 北米長老会の宣教師ウイリアム・ギャンブル(William Gamble,1830~1886)が上海の美華書館の活字製造・印刷技術を日本に紹介し、日本の本木昌造がそれに基づいて長崎で製造したのです。これこそが日本の活字印刷の原点となったわけです。
時間を更に遡ると、日本の活字印刷が同時期の上海の印刷と深く関係しているということが分かると思います。ギャンブルはその中でも話の中核になる人物です。本木昌造がギャンブルを日本へ招く前、上海で北米長老会の中国語印刷出版機構として経営されていた美華書館で館長を務め、聖書や布教用冊子を印刷するだけではなく、一般向けの印刷や活字の販売なども手掛け、当時としては東アジア最大の印刷所と呼ばれていたのです。ギャンブルが美華書館の草創期に、電気メッキで母型を作る方法で、イギリス人、アメリカ人、ドイツ人、フランス人が作った明朝体を鋳造し、さらに改良を加えました。小宮山先生のお話によると、美華書館の活字がまさに現代の明朝体の原型となったのです。早期の明朝体についての理解を深める場合には、宣教師たちが開発した書体について知ることが不可欠だと言えるでしょう。
「もし、ギャンブルが居なければ、東アジアの活字印刷がどのようになっていたか分かりませんね」と小宮山先生もおっしゃっており、出来ればギャンブルと本木昌造との関係性について詳細が知りたいということでしたが、当時の宣教師間の往復書簡に関しては大部分が業務に関する内容となっており、私的な内容に関してはほとんど書かれていないとのことでした。これには先生も「本当に詳細を知りたい」と少々残念そうにおっしゃっていました。
対談者プロフィール
国学院大学文学部卒業後、佐藤タイポグラフィ研究所に入所。佐藤敬之輔の助手として書体史、書体デザインの基礎を学ぶ。 佐藤没後、同研究所を引き継ぎ書体デザイン・活字書体史研究・レタリングデザイン教育を三つの柱として活躍。書体設計ではリョービ印刷機販売の写植書体、文字フォント開発・普及センターの平成明朝体、中華民国国立自然科学博物館中国科学庁の表示用特太平体明朝体、大日本スクリーン製造の「日本の活字書体名作精選」、韓国のサムスン電子フォントプロジェクトなどがある。武蔵野美術大学、桑沢デザイン研究所で教鞭をとり、現在は阿佐ヶ谷美術専門学校の非常勤講師。印刷史研究会会員。佐藤タイポグラフィ研究所代表。著書に《本と活字の歴史事典》、《明朝体活字字形一覧》、《日本語活字ものがたり─草創期の人と書体》などがある。
● 蘇精
ロンドン大学図書館学哲学博士課程を修了。国立雲林科技大学漢学応用研究所、清華大学、輔仁大学の教授を歴任し、退職後も引き続き近代中国とヨーロッパの文化交流史、特に19世紀における来華宣教師に関する研究を行っている。著書に《近代藏書三十家》、《上帝的人馬──十九世紀在華傳教士的作為》、《中國・開門!馬禮遜及相關人物研究》、《基督教與新加坡華人1819-1846》、《鑄以代刻──傳教士與中文印刷變局》などがある。