連載コラム
2017年03月08日

ぬらくら 第70回 松虫姫伝説

千葉県北部、北総の地を東西に走る国道464号線に沿って北総鉄道が走っています。
印旛日本医大駅が終着駅ですが、さらに成田空港まで相互乗り入れをしている成田スカイアクセス線が伸びています。

伝説的なパソコンゲーム「MYST」に出てくるような印象的な形をした印旛日本医大駅から住宅地と畑の中を1キロメートルとチョット歩くと道はどんどん細くなり深い木立に入っていきます。
その木立の奥の「松虫寺」まではノンビリ歩いて20分足ほどでしょうか。

珍しい名前のお寺ですが、その縁起は古く仁王門(山門)の前に立つ石碑によると奈良時代、聖武天皇の天平17(745)年に僧・行基が開創したとあります。

奈良の東大寺(大仏殿)の建立が752年のこととされているので、松虫寺はそれよりも7年遡った年の開創と言うことになります。奈良の大仏殿よりも古いお寺が千葉の北総の地にあるんです。

このお寺の本尊は薬師瑠璃光如来七躯(七仏薬師如来像/重要文化財)で33年に一度開帳されています。前回の開帳は2012(平成24)年でしたから次回の開帳は2045年になります。

松虫寺には松虫姫にまつわる次のような伝説が伝わっています。

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今から1300年ほど前の奈良時代、東大寺を建立した聖武天皇の第三皇女に松虫姫(不破内親王)という美しい姫君がいました。

年頃になって重い難病(*1)にかかり、姫はもとより父帝や母の后の嘆きはひとかたではなく、あらゆる治療の手を尽くしましたが、病は重くなるばかりでした。
ところがある夜、坂東の下総に効験あらたかな薬師如来があるという夢(*2)のお告げがあり、天皇は藁にもすがる思いで松虫姫を下総に下向させました。

板東は聞くもおそろしい化外(けがい/*3)の地であったので心ぼそいことかぎりなく、従者は一人逃げ二人去りして、下総の国府に着いたときには、杉自という乳母と数人の従者だけになっていました。
ともあれ、一行は国府をあとに疲れた足を引きずるようにして、印旛沼のほとりの萩原郷にたどり着きました。

すでに陽は西に傾き、訪ねる薬師堂は満々と水をたたえた湖沼を見下ろす丘の上(*4)にありました。
都を遠く離れて、見知らぬ板東の、人家もまばらな貧しい村里にたたずむ心ぼそさはたとえようもなく、人々はただ呆然と立ち尽くすばかりでしたが、今の松虫姫にとっては、この薬師仏にすがりつくほかに生きる望みもありませんでした。
必死に祈ることだけが、ただひとつの生きる証しなのでした。

姫は心をとりなおして、薬師堂のかたわらに草庵を結びました。
その草庵で雨の日も風の日も、粉雪が舞い乱れて寒風吹きすさぶ冬の日も、朝夕一心に祈り続けました。
乳母や従者たちも、思い思いに近くに小屋をかけて、姫と行を共にしながら、都で習い覚えた機織りや裁縫、養蚕などを村人に伝え、生活の糧としながらかしづいていました。

数年の歳月はまたたくまに流れ、姫の一念は御仏に通じて、さすがの難病もあとかたもなく全快しました。
姫はもとより従者たちの喜びは一方でなく、また都の技術を習い覚えた里の女房や娘たちも、今はすっかり松虫姫を慕って共に喜び、病全快の報せはただちに都へ届けられました。

都からはさっそく迎えの人々が差し向けられましたが、松虫姫は、見知らぬ下総の地で途方にくれる自分達を親切にいたわってくれた淳朴な村人たちに報いるため、乳母の杉自をこの地に残し、都の技術を広めよと命じて、名残を惜しむ村人たちに見送られて都へ帰って行きました。

都から姫を乗せてきた牛は、この時すでに年老いて乗用にたえられなくなっていましたので、乳母と共に残して行くことにしましたが、これを悲しんだ老牛は自ら近くの池に身を投じて果てたといいます。
村人はその牛の心根を哀れみ、今も牛が身を投げた池を「牛むぐりの池」と呼んで語り伝えています。

松虫姫から詳しいようすを聞いた聖武天皇は、効験あらたかな尊い薬師佛を野末の街道にさらしておくのは畏れ多いとして、僧行基に命じ、七仏薬師群像を刻して献じ、一寺を建立して松虫寺と名付けました。

その後、松虫姫は異母兄塩焼王の妃となりましたが、皇位継承にからむ藤原一族の政争に まきこまれ、二度にわたる流刑の悲運に見舞われながら、数奇な生涯を終えました。

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松虫姫の遺骨は遺言によって松虫寺に分骨され、村人は境内に墳(つか)を建てて丁重に葬り、松虫姫御廟と呼んで現在に伝えています。

本堂の裏手に石の柵に囲まれた一角があるのがその墳で、一本の老樹が亭々とそびえるその根方に、表面の文字も崩れた一基の石碑が枯葉に埋もれて立っています。石碑の裏側に「宝亀2年2月12日」(771年)と刻まれており、松虫姫の伝説が現実に歴史の重みを加えて身を引き締めます。

周囲に積もる枯葉をかきのけて見ると、十円玉や五円玉が散乱して、今も変わらない村人の素朴な信仰が偲ばれて趣を添えます。

また境内には松虫姫が都に帰るとき、銀杏の枝の杖を立てていきましたが、やがて芽を吹き成長して今に残るという老樹があり、わずかな葉をつけて1200年を越える風雪を偲ばせています。

松虫姫の御廟を守ってこの地に没した杉自の塚は、寺の山門から200メートルほど離れた東方の三つ辻にあり、青面金剛を刻んだ数十基の庚申塔に囲まれて今も残っています。

【注】
*1 難病
癩病(ハンセン病)だったと言われている。

*2 夢
誰が見た夢か定かではないが、松虫姫が見た夢とする記録もあるようだ。

*3 化外
国家の統治の及ばない地方。

*4 丘の上
萩原にまつわる伝承として次のような話が残っている。
■土浮きの渡し(*5)
松虫姫一行が萩原の薬師に詣でるため、奈良の都から、ここ印旛沼の岸までたどりついたところ、風が強くて舟を出すことができない。そこで、ともに下向してきた僧の行基が、一心こめて弁財天(水の神さまでもある)に祈ったところ風が治まり、沼底の土が浮き上がって水上に一条の道ができた。一行は無事この道を渡って萩原に渡ることができた。以来この地を土浮き(つちうき)と呼ぶようになった。土浮きは現在の佐倉市の草笛の丘がある集落のこと。土地の人は土浮きを「ツッチッキ」と発音している。

*5 土浮の渡し
1960(昭和35)年頃まで存在した渡しで、対岸の名をとって瀬戸の渡しとも言われていた。

【参考資料】
「房総の不思議な話、珍しい話」大衆文学研究会千葉支部編、崙書房 1983(昭和58)年刊に収録されている八巻実:著『松虫寺に残る皇女松虫の療養物語』など。

タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
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  著者 Information

ダイナコムウェア コンサルタント
ダイナコムウェア コンサルタント
mk88氏

PROFILE●1942年東京都生まれ。
1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。
設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、
総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。
1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。
Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・
フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。
現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
Blog:mk88の独り言

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