連載コラム
2015年03月16日

ぬらくら 第52回 トラヤヌス帝の碑文(その3)

エドワード・ジョンストンがその著書『書法・装飾・レタリング』で紹介した トラヤヌス帝の碑文はローマにあるオリジナルではなくヴィクトリア・アンド・ アルバート博物館にあった複製の写真でした。この写真はナポレオン三世(1808-1873)が作らせた金属製の複製から起こした漆喰製の複製の写真、つまり複製の複製の写真で、文字の形を検証するには 重大な欠点がありました。

その一。
ナポレオン三世の金属製の複製から作られた漆喰製の複製は、碑文があまりにも 大きかったために三つに分けて作られ、博物館で一つにされたのですが、 そのときに各片が相互にずれて継ぎ合わされてしまいます。

その二。
復元された漆喰製の複製にも古代の例にならって文字に朱が入れられます。しかし、そのときにいくつかの文字は、その文字の輪郭からはみ出して朱が塗られてしまいます。さらに、既に風化してしまった文字は無理矢理修復され、 元の形とは微妙に異なる形になってしまいます。

その三。
トラヤヌス帝の碑文を研究する多くの学者やカリグラファー、タイポグラファー達が 『書法・装飾・レタリング』に掲載されていた写真に頼ってしまったことです。ローマのオリジナルはおろかヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の複製すら 見ていなかったのです。さらに悪いことに、掲載されていた写真そのものも 1900年以前の古いカメラで撮影されていたために、旧式のレンズが持っていた 樽型の歪曲歪みのせいで、撮影された碑文の四隅の文字が激しく歪んでいたのです。『セリフの起源』(1968)と言う本を著したエドワード・カティチ (Edward Katic、1907-1979)は、トラヤヌス帝の碑文を研究するのに エドワード・ジョンストンの『書法・装飾・レタリング』を頼るばかりで、 ローマはおろかロンドンの博物館すら訪れない研究者達の姿勢に 「何故、ローマを訪ねないのか?」と問いかけつつ、自らローマに足を運びます。
1936年にトラヤヌス帝の碑文の前に足場を建てる許可を得たカティチは、 碑文から拓本を起こして全ての文字を研究者達に原寸で公開しました。さらにオリジナルの碑文から成形粘土を用いて直接型を取り、正確な ポリエステル製の複製を起し、これもまた、学生や研究者達に公開しています。

幾何学的なアプローチでトラヤヌス帝の碑文の文字を再現した人文主義者達ですが、 彼らが好んで使っていた書風は当時一般的だったブラック・レター体(*1)ではなく カロリンガ・ミナスキュール(*2)とラスティック・キャピタルと呼ばれる葦ペン などによって書かれる大文字でした。

ここから後のローマン体へと繋がっていきます。

未だドイツで完成して間もない印刷術(1450年頃)でしたが、 コンラード・スウァインハイム(Konrad Swainheim、?-1477)と アーノルド・パナルツ(Arnold Panalz、?-1476)は、1464年にローマ郊外の スビアコという街にあるサンタ・スコラスティカ修道院にイタリアで最初の 印刷所を設立します。二人は聖職者であると同時に印刷技術者でもありました。この印刷所で二人は人文主義者達の手書き文字を基にしたプレ・ローマン体 と呼ばれる活字を作ります。
1467年に印刷所をローマに移した二人はスビアコで作った活字よりさらに 洗練された活字を使うようになります。やがてこの活字がローマの活字、つまりローマン体と呼ばれるようになります。

彼らのローマン体は、ニコラ・ジェンソン(Nicolas Jenson、1420-1480)の ヴェネチアン・ローマン体に、さらにアルダス・マヌティウス(Aldus Manutius、 1449-1515)のオールドローマン体へ、そしてジャンバティスタ・ボドニ (Giambattista Bodoni、1740-1813)のモダン・ローマン体へと引き継がれてゆきます。

ローマン体の源流と言われるトラヤヌス帝の碑文の文字ですが、今はパソコンでも使える Trajan、Cressi、Pontifなどという名前のフォントになってその姿を蘇らせています。


*1 ブラック・レター体
「ドイツ文字」、「亀の甲文字」などと呼ばれることがある太くて黒みが強い角張った書体。 ヨハン・グーテンベルグ(Johannes Gutenberg、1400?-1468)が活字印刷を 始めたときに最初に設計し、四十二行聖書を印刷した書体。

*2 カロリンガ・ミナスキュール
九世紀の初め、ヨーロッパに起こったカロリンガ王国のシャルルマーニュ王 (Charlemagne/カール大帝、748-814)が、教育改革の指導者に任命した アルクイン・ヴォン・ヨーク(Alcuin Von York、735-804)に作らせた 標準筆記体「カロリンガの小文字(カロリンガ・ミナスキュール)」。

【参考資料】
『欧文書体百花事典』 組版工学研究会編 株式会社 朗文堂発行 2013年
タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
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  著者 Information

著者
ダイナコムウェア コンサルタント
mk88氏

PROFILE●1942年東京都生まれ。
1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。
設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、
総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。
1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。
Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・
フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。
現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
Blog:mk88の独り言

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