連載コラム
2016年01月22日

ぬらくら 第51回 トラヤヌス帝の碑文(その2)

永らく忘れられていたローマ時代のこの大文字に最初に注目したのはルネサンス期の人文主義者(*1)達でした。彼らはトラヤヌス帝の碑文に刻まれた文字を、 円や正方形のガイドラインの中に納めるようにして再現しています。その手法は人文主義者達が理想としたギリシャやローマの建築に見られる幾何学的な アプローチや美意識を反映したものだと思われますが、オリジナルの字形を正確に 再現するという結果からはほど遠いものになってしまったようです。

人文主義者達の幾何学的なアプローチ対して異を唱えたのが、ヴァチカン図書館の教皇庁書記官で、システィナ礼拝堂の筆記官でもあったジョバンニ・クレッシ (Giovanni Cressi、1534頃-1614頃)です。彼はトラヤヌス帝の碑文をはじめ多くの古代ローマ大文字を検証して、 「ローマ大文字が持つ完全な曲線は人間の眼と手によって描かれるべきである」 と結論づけています。そして、「ローマ大文字を学ぶにはどうすれば良いのか?」という問いに対して、 「曲線のある文字を、道具を使わずに、自分の手で、繰り返し書いて練習するように」と、 具体的なアドバイスを与えています。

クレッシの書法は彼の弟子の一人ルカ・オルフェイ(Luca Orfei、生没年不詳)に 引き継がれました。彼は当時強い実権を持っていたローマ教皇シクストゥス五世 (Sixtus V、1520-1590)に重用されます。ルカ・オルフェイはシクストゥス五世に捧げるためにトラヤヌス帝の碑文を基にした 「シクスティーネ」と名付けられた文字を作ります。トラヤヌス帝の碑文とシクスティーネを比較するとプロポーションが異なることが分かります。 トラヤヌス帝の碑文よりもシクスティーネの方が明らかに縦長に設計されていました。この時代の碑文の多くがトラヤヌス帝の時代よりも建築物の高い場所に設置されている ことから、地上から見上げたときに文字の天地が詰まって見えないように調整されているからだと思われます。

トラヤヌス帝の碑文から初めて正確に文字が再現されたのは17世紀に入ってからのことです。レオポルド・アントノッツィ(Leopard Antonuzi、生年不詳-1658頃)はジョバンニ・クレッシや ルカ・オルフェイがそうであったように、当時のシスティナ礼拝堂の書記官でした。彼はシクスティーネの誇張されたプロポーションやセリフ(*2)に対して審美的な観点から 疑問を持ちます。そしてジョバンニ・クレッシの文字や著作に触れ、改めてトラヤヌス帝の碑文に 立ち返ることを思い立ち、自らの手でトラヤヌス帝の碑文から拓本を起こします。そして、不足していたH、K、Y、Zの4文字を加えた極めてオリジナルに近い文字を デザインしました。

これ以降、19世紀後半になるまでトラヤヌス帝の碑文は文字や活字の世界から忘れ去られます。

1899年にロンドン評議会中央美術工芸学校のレタリング・クラスの教師に エドワード・ジョンストン(Edward Johnston、1872-1944)が任命されます。彼は後に不朽の名著となる『書法・装飾・レタリング』(1906)を著します。その本の中でジョンストンはエリック・ギル(Eric Gill、1882-1940)(*3)の 「文字の形の美しさは熟練の彫刻術とトラヤヌス帝の碑文にあるようなローマン体の綿密な研究との組み合わせで生まれるだろう」という一文と共に、ロンドンの ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に所蔵されていたトラヤヌス帝の碑文の 複製の写真を紹介します。

ジョンストンの『書法・装飾・レタリング』は当時大変に影響力の強い書物となり、 その後もトラヤヌス帝の碑文を取り上げた書物が多数出版されます。そしていつの間にか、 この文字は美術学校でローマン体の基本になる形であると教えられるようになりました。

…以下、次号「トラヤヌス帝の碑文(その3)」へ続く。


*1 人文主義者
ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した知識人のこと。

*2 セリフ
文字の筆画(ストローク)の端や角にある小さな飾り(ウロコなど)のこと。

*3 エリック・ギル
イギリスの彫刻家、タイポグラファー、書体デザイナー、エッチング版画家。 イギリスにおけるアーツ・アンド・クラフト運動を推進した人。

【参考資料】
『欧文書体百花事典』組版工学研究会編 株式会社 朗文堂発行 2013年
タイトルの「ぬらくら」ですが、「ぬらりくらり」続けていこうと思いつけました。
ぬらくらは、ダイナフォント News Letter(ダイナコムウェア メールマガジン)にて連載中です。
いち早く最新コラムを読みたい方は、メールマガジン登録(Web会員登録)をお願いいたします。
メルマガ登録はこちら

  著者 Information

著者
ダイナコムウェア コンサルタント
mk88氏

PROFILE●1942年東京都生まれ。
1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。
設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、
総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。
1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。
Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・
フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。
現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
Blog:mk88の独り言

次 : ぬらくら 第52回 トラヤヌス帝の碑文(その3)   
前 : ぬらくら 第50回 トラヤヌス帝の碑文(その1)