ぬらくら 第50回 トラヤヌス帝の碑文(その1)
トラヤヌス帝の碑文(その1)
新年明けましておめでとうございます。
「ぬらくらコーナー」もこの新春号で50回を重ねるまでになりました。ここまでたどり着けたのも、ただただ、ひとえに、読者の皆様方の応援が あればこそと深く感謝申し上げます。
正月の華やぎはもちろん嬉しいのですが、この時期は夜明けが遅く陽の入りは 早く、外に出れば寒風に身体はすくむばかりです。人の身勝手がそうさせるので しょうが、寒風に背を丸めるようになると明るく強い夏の陽射しを求めてしまいます。
ローマ市街地の中央にフォロ・ロマーノと呼ばれる遺跡があります。フォロ・ロマーノの北の外れ、ヴェネチア広場の東にひときわ高くトラヤヌス帝 (53-117)の記念柱が建っています。同帝がダキア(現ルーマニア)との戦争で 勝利したのを記念して、紀元113年に建てられた記念柱です。
トラヤヌス帝の記念柱は一辺5.4メートルの立方体の基壇と、その上に載った 直径3.7メートル・高さ30メートルの円柱で構成されています。
基壇部に付いている扉の上部に幅3メートル、高さ1.5メートルの大理石に刻まれた碑文がはめ込まれています。これこそが後にローマン・アルファベットの源流であると言われるようになるトラヤヌス帝の碑文です。
そこにはラテン語で次のように刻まれています。
SENATVS・POPVLVSQVE・ROMANVS
IMP・CAESARI・DIVI・NERVAE・F・NERVAE
TRAIANO・AVG・GERM・DACICO・PONTIF
MAXIMO・TRIB・POT・XVII・IMP・VI・COS・VI・P・P
AD・DECLARANDVM・QVANTAE・ALTITVDINIS
MONS・ET・LOCVS・TAN IBVS・SIT・EGESTVS
碑文一文字一文字は平筆で下書きされてから鑿でV字状に彫られたものです。一文字の高さは約10センチメートルあります。 現代の活字書体史研究家のジェイムズ・モズリー(James Mosley)が 1968年に行った碑文の調査によると、刻み込まれた文字の部分はかつて朱で彩色されていたことが分かっています。朱は古来より生命を象徴する色と されてきたことから、おそらくはこの碑文にも永遠の命が与えられたのでしょう。
碑文には、当時のアルファベット数23文字のうち、19文字が揃っています (この当時のローマに小文字は存在していません)。23文字の内、この碑文に使われていないのはH、K、Y、Zです (J、U、Wは未だ存在していませんでした)。
単語と単語の間には現在のワード・スペースに代わるものとしてインター・ポイント と呼ばれる三角形の中黒が刻まれています。
碑文を訳すと次のようになります。
「ローマの元老院と市民は、皇帝、神なるネルウァの息子、ネルウァ・トラヤヌス、 尊厳なる人物、ゲルマンおよびダキアの征服者、最高神官、護民官を17度、最高指揮権職を6度、執政官を6度務めた祖国の父のために、困難に遭いながら 開削した丘とこの地が、いかに高いものだったかをここに顕示する」
碑文の四行目を見ると、現在の私たちにも読み取ることができるローマ数字の XVII(17)と、それに続く二カ所にVI(6)があるのがお分かりになると思います。実際の碑文のこの部分には、その上部に数字であることを示すナンバー・マークと 呼ばれる横線が刻まれています。
フォロ・ロマーノのヴェネチア広場周辺にはトラヤヌス帝の記念柱と同時代のもの と思われる碑文が残っています。しかし、その多くは破損していて活字書体の見本になるほどの文字数は残されていません。
トラヤヌス帝の碑文が今日まで残った背景には、ローマ帝国の元老院がこれを保護 するために次のような条文を制定したことが大きな理由だと考えられています。
「この記念碑は、棄損ないし破壊されてはならず、世界が続く限りローマ人に敬意を表して現状のまま維持されなければならない。あえて損傷を与える者は死罪をもって罰せられ、その財産は国庫に没収されるものとする」
ヘルマン・ツァップ(Hermann Zapf)やヤン・チヒョルト(Jan Tschichold)など 現代を代表するタイプフェイス・デザイナーをはじめ、古来より文字に強い興味と 関心を持つ多くの先人達が、このわずか6行のトラヤヌス帝の碑文にこだわり続け、 ローマ大文字の手本と見なしてきました。
この碑文の一文字一文字は、その姿・形が高い完成度を持ち、レター・スペースなどの配置も完璧であるということが手本と見なされ続けてきた大きな理由のようです。そして先にも触れたように当時のアルファベット23文字の内、19もの文字が揃っている こともそれに付け加えられる大きな理由でしょう。
…以下、次号「トラヤヌス帝の碑文(その2)」へ続く。
【参考資料】
『欧文書体百花事典』 組版工学研究会編 株式会社 朗文堂発行 2013年
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mk88氏
PROFILE●1942年東京都生まれ。
1966年桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科卒。
設備機器メーカー、新聞社、広告会社を経て、
総合印刷会社にてDTP黎明期の多言語処理・印刷ワークフローの構築に参加。
1998年よりダイナコムウェア株式会社に勤務。
Web印刷サービス・デジタルドキュメント管理ツール・電子書籍用フォント開発・
フォントライセンスの営業・中国文字コード規格GB18030の国内普及窓口等を歴任。
現在はコンサルタントとして辣腕を振るう。
Blog:mk88の独り言